【ゆっくり日記】一人焼肉に行けないのは権力に囚われた病気(下書き)
【ゆっくり日記】「正しさ」に関する基礎的理解/ゆ虐に見る権力闘争
最近めっきり気温が下がってきた。皆様はゆっくりできていますか。私は生来暑がりなものですから、けっこうゆっくりできています。
本日は「正しさ」について少し整理しておこうと思う。
もっとも、ゆっくり虐待クラスタにとっては退屈な話になるだろう。当たり前の話しかしないからだ。
まず「Aは正しい」「Bは正しくない(間違っている)」という『評価』が成立するためには、その評価に先立って何らかの尺度が必要となる。ここでいう「尺度」は、「基準」「規範(ルール)」「価値観」「思想」などと言い換えてもらっても差し支えない。むろん、正誤だけではなく、善悪でも優劣でも事情は同じである。私たちは尺度があって初めて物事を評価できる。
この時、ただちに問題となるのは「どの尺度を使うのが正しいのか?」という点である。しかし、「ある尺度の正しさを評価する」という分にも、「評価」が入ってしまっている。であれば、やはりまた尺度が必要である。尺度なくして評価はないのだから。
ではそんな「尺度を評価する尺度」をひとまず「メタ尺度」と呼んでおくとする。だが、やはり同じ問題が起きる。「しかし、どのメタ尺度を使うのが正しいのか?」―――そしてこれは無限に続く。
一部の哲学者や倫理学者は、世の中に雑多に存在し、時には相矛盾するような道徳的規範という尺度の数々から、より優れた尺度を選ぶメタ尺度を提案してきた。そうして出てきたメタ尺度から具体的にひとつ挙げるなら、例えば「最大多数の最大幸福を追求できるような尺度こそが優れている」としたベンサム流功利主義である。とはいえこれはすぐに行き詰まる。「俺の幸福を追求できるような尺度こそが優れている」という利己主義にしても「メタ尺度である」という点では同じだ。もし、メタ尺度Aとメタ尺度Bの優劣を評価するなら、「メタ・メタ尺度」を用意しなければならない。
ここで、「社会みんなの利益を考えている功利主義のほうが、個人的な利益を追い求める利己主義よりも優れている」と評価するとしよう。問題は解決するか。否である。それは「メタ・メタ尺度」による評価を行ったに過ぎない。当然これも「社会のために時に個人の生を犠牲にするような功利主義は、個人的な利益をきちんと守る利己主義よりも劣っている」というような「メタ・メタ尺度」と同格に置かれる。更にどちらが何らかの観点から優れているかを評価しようとすれば、やはりまたメタメタメタ……尺度の問題になっていく。
つまり「尺度と尺度との比較は、どれほど頑張っても思弁的には決着させることができない」のである。
と、ここまではありきたりな、いわゆる相対主義っぽいお話である。もう少し続きがある。
しかし、我々は現実の生活で「正しさ」を使っている。例えば職場や教室で、「それは論理的に正しくない」と言われたり、「あなたの意見は他の人から全く支持されていない」(民主的に正しくない)と言われたりする。そして、時にはあなたの正しさが否定され、時にはあなたの正しさが肯定される。意見が通らない時があり、通る時がある。思弁的には決着しない尺度の争いも、いざ現実にぶつけ合ってみれば、そこに「勝ち負け」は発生する。世の中には原理上、(いくらでも考え出せるという意味で)無限の尺度が存在しうるが「どの程度通用する尺度か」は異なる。すなわち、「その尺度がもつ権力の強さ」が問題だ。権力闘争が尺度そのものの正しさを与え、その尺度による評価を「正しいもの」としているのである。
注意すべきは、この「その尺度がもつ権力の強さ」は、固定的なものではないということだ。家庭で通用した尺度が職場では通用しない(家庭で親として偉そうに振る舞えても、職場では無能として肩身の狭い思いをしているとか)、職場で通用した尺度が裁判所では通用しない(サービス残業がそうであろう)、裁判所で通用した尺度が大金持ちには通用しない(カルロス・ゴーンに逃げられた)、といったことが当たり前にある。
また歴史を参照すればもっと良い。たとえば中世ヨーロッパでは魔女狩りが行われていた。これを現代における尺度の権力情勢から評価して「正しくないことをしていた」と見るのは誤りである。「魔女という認定は正しくなかった」と考えるのも当然誤りである。当時の知的階層である僧侶らが魔女の認定とその処罰に関わる正しさを規定し、大衆もその正しさを自らのものとして受け容れていた。であれば、魔女の認定とその処罰には、明確に「強い権力」に基づいた「正しさ」が与えられていたのであり、「中世ヨーロッパには事実として魔女が存在した」も「正しい言明」なのである。
むろん、もっとより良いのは、ゆっくり虐待小説を読むことである。ゆっくり虐待小説で登場するゆっくりたちは、「おやさいはかってにはえてくる」という世界観を持っている。この世界観は、ゆっくりたちの社会において「正しい判断」となっている。あなたが一匹のゆっくりに姿を変えて彼らの社会に参加するなら、この正しさはおそらく覆せない。そして覆せなかった時、「正しいのに、間違ったゆっくりたちがそれを認めない」と考えるのは誤りである。単純に、ゆっくりの社会のおける権力情勢において「あなたが間違っている」のである。「正しさ」は権力闘争の勝敗で決まるのだから、尺度の衝突で勝てなかった以上は、少なくともその時点においてあなたは正しくない。野菜栽培の布教活動でもして「いずれ支持を得て勝とう」とするのは良いだろう。権力情勢を変化させなければ、あなたは正しいことにならないのだから、適切な対応法の一つである。ただし、もっと良いのは、人間に戻って暴力で社会ごと潰すことである。
実際、ゆっくり虐待小説における王道パターンでは「人間側の暴力による勝利」によって「おやさい闘争」は幕を閉じる。尺度に関わる原理的問題が解決できたわけではない。ただ「勝敗が決着した」のである。
「正しさ」が思弁的には求まらない世界に生きる我々に可能なのは、我々がゆっくりできるような尺度に出来るだけ強い権力を付与しようとすることだけである。
なぜLGBTクラスタは「ゆっくりできない」存在でしかないか?
私はLGBTPZNという権利活動に賛成している。聞き慣れない人もいるかもしれない。LGBTPZNとは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー(LGBT)に加え、ペドフィリア(小児性愛)、ズーフィリア(動物性愛)、ネクロフィリア(死体性愛)にもやはり性的な満足を追求する権利があると主張する人が自ら名乗る呼称である。
もちろん、信条としてLGBTPZNを掲げる人は、必ずしもPZNだけを対象にしているのではない。他にもさまざま多様にありうる性的傾向を擁護するにあたり、さしあたり「わかりやすい」3つを取り上げているだけである。「あらゆる人々は、具体的な他人の人権を侵害しない限り、ゆっくりしてよい」という理念を表現したのがLGBTPZNである。
PZNの権利擁護に熱心な私だが、さすがに実在の小児と性交渉を認めるわけではない。また実在の動物虐待にも賛成しないし、死体の使用を許可してやれと言うつもりもない。 しかし、現実の犯罪ではない限り、すなわちフィクション(小説、イラスト、ドール等)である限り、欲望を満たす手段は封じてはならないと考えている。
まずもって、現代の人権思想は自由が原則であり、自由を制約するには「本当によっぽどの理由」が認められる場合だけである。当然それは「不快に感じるから」という曖昧で程度の低いものであってはならない。このような理由で「PZNの迫害を正当化された」とみなせるなら、およそどのような人権侵害も素通しになってしまう。数学でいえばゼロ除算を認められないのと同じく、これは「人権」という考え方そのものを台無しにしてしまう。
私の見解を簡単にまとめれば、『「LGBT」という言葉には、それ自体で「PZNの排除」が暗黙のうちに含意されてしまっている、だから賛成できない』という点に尽きる。PZNを排除したLGBT活動とは、人権を重視するのであれば、「やってはいけない」のである。「自分たちの属性だけが助かればよい」というのは、「白人だけが助かれば良い」または「白人と、裕福で教養のある黒人だけが助かれば良い」と主張するのと全く同じである。ゆえに私は「LGBT活動」を、「人権擁護の権利活動」とも「反差別のための戦い」とも認定してやることが出来ない。彼らはお得意の「性的指向と性的嗜好」という卑劣な分断政策で、「LGBT」と「PZN」を切り離す。その「切り離す」挙動こそが、人権侵害といい、差別だといって批判するのが本来の人権思想のあるべき姿である。
【ゆっくり日記】アタラクシアとしてのゆっくりぷれいす
すごい金額の預貯金があって、毎日すごくおいしいものが食べられて、素晴らしい恋人とたくさんの愛人がいて、しかも周りが自分を尊敬し、褒めまくってくれる、とかだろうか?
それはなかなか難しい。現実に達成する人もいるがまれである。もう少し手軽なゆっくりぷれいすはないものか?
現実的な制限を考えると、どうしても大半の人は妥協せざるを得ない。しかし、妥協しようにも外界のことはやはりどうにもならない。たいていの人は労働がやめられない。生活が苦しい。
そこで、心の中にあるゆっくりぷれいすが目指すべき対象の、少なくとも一つとなる。
古代ギリシャが(あるいは古代ローマだったかもしれないが、とにかく昔の地球の北半球にある特定の地域である)誇る哲人の誰かは、そのゆっくりぷれいすのことを「アタラクシア」(魂の平穏)と呼んだ。
アタラクシアにたどり着きたい。
【ゆっくり日記】夢記録-1
私は高校生に戻っていて、駅のホームに立っていた。まわりにいる人たちの顔は全く見覚えがなかったが、なぜか同級生だと分かった。そして、とにかく今から修学旅行であることも分かった。電車がギギィと錆びた車輪を回しながらホームに入ってくる。私たちは乗り込んだ。
電車は高架上を行き、日本のどこにでもある地方都市の背の低いビル群を見下ろしながら進んでいく。
外の景色は普通だったが、電車の内部構造がおかしかった。
私がいる車両は、3メートル四方の真四角という形をしていた。内壁は黒々とした紫色に塗られていて、座席のカバーも同じだった。ところどころで、意味のわからないランプが点滅している。また、お経のようなBGMが響いていた。
「電車っていうか仏像だね」と誰かが言った。ホームに入ってきた時は極普通の電車だと思っていたのに、いつのまにか車両は仏像ロボットに変形していた。私たちの車両が四角いのは、どうやらロボットの頭部にあたるためだったようだ。
私は訳が分からなくなったので、窓を開けて再び「普通の」景色を見ようとした。
気がつけば南国であった。輝く白い砂浜、どこまでも深い青空。ぽつぽつと生えているヤシの木。
風が私を窓の外まで放り出した。しかし、落ちたのではなかった。上昇気流ようなものが吹いていて、どうやら空を飛べるらしい。
南国風のこの場所は、上空から旋回して眺めると非常に美しかった。これほどビビットな色彩の乱舞はこれまで経験したことのないものだった。海からは、爽やかさだけを詰め込んだような鮮烈な匂いがした。日本海側で生まれ育った私にとって、海とは磯臭く、陰気臭い場所のはずだが、ここの海はまったく違った。
しばらく空を飛んでいたが、「修学旅行に戻らねば」という思いをようやく抱いた。「おいて行かれてしまう」と焦燥感を覚えた。早く、早く。
そして目が覚めた。
【ゆっくり日記】ゆっくり虐待小説・漫画に現れる「人間性」
ゆっくり虐待クラスタの皆様はとっくにご存知であるが、いわゆる「ゆっくり虐待小説・漫画」には名作が多い。人文科学で追求されてきた諸テーマが、「ゆっくりたちの生き方」として見事な物語として表現されているからだ。フィクションとしての「ゆっくり」に仮託して描かれているすべての愚かしさは、人類の愚かさそのまま当て嵌まる。
例えば、ゆっくりの世界観のひとつである「おやさいはかってにはえてくる」は、つい最近の人類も「ハエは生ゴミから生まれる」と考えてきた歴史的事実を当然、想起させるだろう。ゆっくりの生活的視線からいえば、「おやさいはかってにはえてくる」という認識は、間違いなく「観察結果の積み重ねによる帰納的抽象化(=一般化)」という論理的思考の結果である。むろん、われわれ人類からゆっくりに対して、「あなたがたゆっくりが立てた仮説は、おやさいについての経時観察が不足しているせいで、『性急な一般化』という罠に陥っている」と指摘することは可能だ。しかし、現代の科学者が誇る「精密な経時観察」というのも、歴史上、幾度となく(実験機械の高性能化によって)更新され、常に「依然までの観察は時間分解が甘かったせいで、性急な一般化に陥っていた」ことに得てしてなるものだ。ゆっくりと人類に横たわるのは、単に「どれほど長期間にわたって、どれほど細かい単位での観察が技術水準として可能か?」という僅かな時間的遅延に過ぎない。
また、少し話は変わるが、ゆっくりが形成する「群れ」についても、それが持続的に運用できたり、できずに崩壊してしまったりするケースが多数の作者よって描かれていて、これが面白い。「群れが存続する条件」や「群れが崩壊する条件」(いわゆる死亡フラグ)は、作品によって、明示的であることも、暗にほのめかせるに過ぎないこともあるが、とにかくそうした条件は「群れモノ」には必ず潜んでいる。
単純な食糧危機に始まり、ゲスゆっくり(外敵)の侵入、あるいは既に群れの構成員だったゆっくりによる内部瓦解、無謀な戦争の企図と実行(にんげんにせいっさいっをする)。ここに挙げたのはあくまでも限りなくあるさまざまな事情のうちのごく一部ではあるが、いずれも例外なく、人類もやってきた。そして、今も――残念ながら――やっている。
ゆっくりにこそ現れた人間を見よう。それが、現実でのゆっくりにも繋がる。
【ゆっくり日記】人はゆっくりしていない/レズビアン擁護に見せかけた差別主義の吐露
本日、全くゆっくりしていないツイートを見かけた。
以下のものである。
自分はレズビアンかもしれない、と悩み始めた人が一部の過激なビアンYouTuberの動画を観て、「レズビアンはセックスの話をするのが当たり前」「タチネコフェムボイみたいな属性がないとセクマイじゃない」みたいな考えになら可能性があるのが怖い。当事者自身でステレオタイプを作ってどうしたいのか…
— Rika🏠レズビアンの不動産屋さん (@L_rikas) 2020年9月30日
「レズビアンとしての私たちのリアルを観てほしい」と言いつつ、結局は再生数稼ぎのために下ネタやタチネコといった「世の中にウケる」テーマで当事者側から差別や偏見を再生産している現実は本当につらい。
— Rika🏠レズビアンの不動産屋さん (@L_rikas) 2020年9月30日
セクマイ当事者の生きづらさが当事者側から生まれてしまう地獄…😞
この発言を読んだ大半の人たちは、「さべつとたたかう、ゆっくりした発言」と思うことだろう。だが、それは誤解である。此奴はゆっくりしていない。善良のふりをしたゲスゆっくりである。
それを理解するには、「本当に好きで下ネタやタチネコを話題にしているレズビアン」(以下、タチネコ・レズビアンと呼称する)の立場から考えてみればいい。Rika氏は、タチネコ・レズビアンを『差別や偏見を再生産』する存在として、いわば「悪党」扱いに伏している。ツイート文からは「お前らみたいなタチネコ・レズビアンがいるから、差別や偏見がなくならないんだ」という叫びが行間から聞こえてくるようである。
これは、ある加害-被害関係を暗黙の前提としているから出てくる見解である。「下ネタやタチネコをテーマにするレズビアン」が加害者で、「そのせいで誤解に晒される私たち『きれいな』レズビアン」が被害者だ。
しかし、当該2ツイートにあらわれているこうした「きれいなレズビアンときたないレズビアンの分断」こそが、本当に戦うべき差別なのである。実際、「ある趣味をもつレズビアンは擁護されるべきだが、別のある趣味をもつレズビアンは差別に加担している連中である」という分断操作が差別でなくて何なのだろうか?
また、「ステレオタイプを再生産するから」という理由で特定の趣味嗜好を断罪している点も極めて反人権的である。この点に関する感覚が鈍すぎる。簡単にいえば、別にスカートをはきたい女子はスカートをはいていいのである。「女子はスカートをはくもの」というのは、確かに「ステレオタイプ」ではあるだろう。しかし、そのステレオタイプを再生産するからといって、スカート着用を認めないなどとすれば、かえって自由は乏しくなる。スカートをはいていかにも「女子らしい」遊びをしていたっていいし、そうでなくたっていい、というのが本来目指すべき地点のはずである。