『浴女その一』に付された解説の粗雑さ

 ツイッターのタイムラインを眺めていると、このようなツイートが目に入った。

 

 

 なるほど。『女性を性的に見せようとする記号のある絵を性的じゃない』と言う連中の意見については、私も同意しかねる。作者が工夫して性的に・官能的に描いているのに、それを政治議論上の不都合から無視するのは、浅はかな誤魔化しである。表現の自由を守ると標榜するなら、「性的・官能的表現を使って何が悪い!」とはっきり言うべきである。

 それはそれとして、さかつだ氏が『見て欲しい。』と言っているのは、次に引用する絵の解説文である。上のツイートはいったんどうでも良い。本題はこちらである。

 

女性が描くと裸婦でもエッチな感じがしない。そういう感想が聞こえてきそうですが、そもそも裸婦はエッチに(欲情的に、扇情的に)描こうとしなければ、ただの裸の人間にすぎません。この作品に清潔感があるのは、旧来の入浴図によくうかがわれる窃視趣味やチラリズム、流し目やシナ、上気した肌といった細工が仕組まれていないからです。作者の関心は、タイル張りの湯船に温泉がゆらめいて、縦横の格子模様がユラユラとひしゃげる様子にあったといいます。

(※編集部いいだ氏のツイートに添付された画像から引用者が文字に起こした)

 

 教養あるキュレーターが書いたとは到底思えない。解説のための限られた紙幅が、裸婦画一般についての筆者の的はずれな主張に費やされている。こんな解説、作品をろくに見なくても書ける。つまり、「作品の」解説になっていない。作者に無礼である。最後にようやく作品を思い出してその解説をしたかと思えば、『作者の関心は、タイル張りの湯船に温泉がゆらめいて、縦横の格子模様がユラユラとひしゃげる様子にあったといいます。』となぜか伝聞調である。誰からの情報かは不明だ。作者本人が「格子模様がひしゃげる様子を描きたかった」と言ったのだろうか。

 こんな解説になっていない解説に、「by東京国立近代美術館」と書かれるのが不憫でならない。

 

 一般論として読むにしても、まず『そもそも裸婦はエッチに(欲情的に、扇情的に)描こうとしなければ、ただの裸の人間にすぎません。』とあるが、これは正しいか。つまり、画家が扇情的に描こうとしなければ、その絵画を鑑賞する側も、扇情的だと受け取らないと言えるか。また、「ただの裸の人間」は本当に扇情性を持たないか。

 ある絵画に対してどういった感想を抱くかは人によるし、「ただの裸の人間」も同様である。扇情的だと感じる人も、そうでない人もいると考えるのが自然である。また、当然ながらその時代の文化的背景にもよる。例えば、今の私たちにとって、江戸時代に描かれた春画はあまり扇情的とは思われない。当時はそうだったのだろうと推測は出来るが、同じように感じるのは難しい。

 

 画家の意図と、その作品で用いられた記号の2つでは扇情性は論じられない。もし遠い外国の、何らかの遺跡から1枚の木版画が出土したとしよう。そこに上半身裸の女性が描かれている。情報はこれだけである。では、それは男性が自慰に日用するような「俗な」ものなのか、それとも、芸術品として貴族の客間に飾っても相応しいものなのか。あるいは、描かれているのは実は女神であり、単に高級であるにとどまらず、「神聖さ」があったりするのか。こうしたことは、その作品の社会文化的位置付けを検討することなしには語り得ない。

 むろん、キュレーターが雑に紹介した小倉遊亀『浴女 その一』が、発表された1938年の日本において、もっぱら庶民の性欲を刺激するために描かれた絵画ではないことくらい察しはつく。浮世絵とは異なる流れを汲んだ作品なのだろう。1938年なら西洋の絵画も十分伝わってきている。その影響も受けたかもしれない。解説するならこういうことを明らかにした上で書くべきである。

 

 また、キュレーターは、『この作品に清潔感があるのは、旧来の入浴図によくうかがわれる窃視趣味やチラリズム、流し目やシナ、上気した肌といった細工が仕組まれていないからです。』と言う。しかし、まず『旧来の入浴図』とは何か。喜多川歌麿のような浮世絵師が描いてきた入浴美人図を指しているのか。それなら、奥絵師四家から連なる伝統的な日本画とは畑違いであるから、比較自体が成立しない。それとも、伝統的な日本画にも入浴美人図が一定数があり、しかも大体は『清潔感』がなく、『窃視趣味やチラリズム、流し目やシナ、上気した肌といった細工が仕組まれ』たものだったのか。

 本当か? 例えば狩野派がそのような絵画を描いていたという話は寡聞にして知らない。御用絵師として幕府から発注を受け、清潔感のないみだらな入浴図をけっこう描かされていたのか。日本画に詳しい人がいたら教えて欲しい。

 

 『窃視趣味』は何がどうなっていれば「窃視趣味の細工がある」と言えるのか不明だが、たしかにその他に挙げられた「細工」はないのは見た通りの事実である。しかし、同じ条件を満たす絵で多くの人に扇情性が認められそうな作品は挙げられる。なお、R18指定であるので、未成年はクリックしないよう注意されたい。

 

www.pixiv.net

 

 上のKIYO氏によるイラストは、閲覧数やブックマーク数を見る限り、人気である。そして、全員が全裸であるから「チラリズム」はないし、流し目やシナ、上気した肌もない。また、人物のデフォルメの方法も、いわゆる「萌え絵」的なものではない。全裸でさえなければ、学生向けの教材の挿絵としてもさほど違和感はない。では、扇情性はないのかというと、少なくとも、作者と鑑賞者のあいだでは概ね「扇情性がある」と共通に認識されていると言って良さそうだ。

 これもまた、「文化的背景を考慮に入れないと扇情性など語り得ない」と私が考える一つの例である。

 

 

 

 

【議論】天然居士さんへから頂いたコメントへの再反論~定議論を巡って~

事の経緯

 天然居士さんから下記の文章ではじまるコメントを頂戴した。

 

<手嶋さんが手嶋さんに反論したので、手嶋さんになったつもりで再反論をする>

手嶋氏は議論における説得力を持つためには、過度に恣意的な定義は不必要かつ有害であると主張されている しかし、これは誤りである 以下にそれを述べる

 

 本論に入る前に、経過がややこしいので少し整理しておく。

 議論を時系列順に並べると次の通りである。

 

  1. 【ゆっくり日記】定義論~言葉の再定義とその議論~ - 手嶋海嶺の手記

  2. ネット喧嘩師クラスタで「辞書勢」と呼ばれる立場から自分で自分に反論してみた - 手嶋海嶺の手記

  3. 天然居士さんによる『ネット喧嘩師クラスタで~』への反論(今回、頂戴したもの)
  4. いま読んで頂いている、この記事

 

 私は初めに『定議論』と題して、「既存の言葉を辞書的定義を超えて再定義すること」は有意義であり、また「テロリズム」という語については記事で提示した論拠から「合法・合憲なフェミニズム運動」を含めない方が合理的である旨を主張した。

 そして次の『ネット喧嘩師クラスタで~』の記事で、私は自分の見解に自分で反論した。「辞書的定義は極めて重要である」とし、「テロリズムという語の定義を巡っては、定義の任意性まで引き下がるのは不要かつ有害である。素直に辞書的定義から論じても、目的(合法・合憲なフェミニズム運動をテロリズムに含めない)は達せられる」と結んだ。自分でもこの反論は合理的かつ有効に思われたので、『定議論』で提唱した見解は、部分的に下げる形となった。

 これについて、更に天然居士さんより、私のもと『定議論』の立場を擁護する方向で反論がなされた。それが上記の③にあたり、今回頂戴したコメントである。

 

天然居士さんへの再反論

 さて。「いまの私」は辞書勢寄りである。よって、「いまの私」として、この先から続くパラグラフごとに、天然居士さんへ私なりの反論を試みる。(※引用にあたり、句点は補わせて頂きました。)

 

第一に、肝心のどの辞書・領域の辞書を選ぶべきかの根拠が薄弱である。氏はテロリズムの定義をするにあたり、種々の辞書を取り上げた上で、最終的には日本の法律を採用した。しかしその根拠は端的に言って当時の議論のテーマである。なんとも曖昧ではないか。手嶋氏は原理的な正しさよりも現実社会における説得力を重視しておられる。ならば仮に海外の権威的な辞書の力を利用して聴衆へ強く訴えたい等と申し出があればどう説得するのか。あるいは仮に今回それで良いとしても次回はどうするのか。言葉というものは元来が多義である。手嶋氏が辞書から採用した定義Xに、他の人は同意せぬかもしれない。そうするとそこで議論が発生する。すなわちどの辞書の定義を選ぶべきか、言い換えればどの定義の根拠がもっとも強いのか、という議論である。そしてそれは、先般私が申しあげた再定義における「説得」「勧誘」と何ら変わるところがない。

 

 『どの辞書・領域の辞書を選ぶべきかの根拠が薄弱である』と指摘された。私が選んだ辞書(的なもの)は日本国の法律である。なるほど先般の記事においては肝心の「選んだ根拠」については記述が薄かった。この点は認める。

 しかし、次に述べる理由により、「薄弱」も「曖昧」も実はあたらない。

 辞書的定義の中でも「法律による定義」は特殊である。『採用した定義Xに他の人は同意せぬかもしれない』というのは、確かに通常の議論であればごもっともな指摘である。しかし、法律だけはこれを問題としない。法律には後ろ盾には、警察・軍隊という暴力装置があるからだ。

 裁判所で次のような場面を想像してもらいたい。裁判官が色々の事実や答弁を検討し、私をテロリストと認定する。当然、しかるべき処罰を言い渡たされる。そこで私が「そのテロリストの定義に同意しない!」と叫ぶ。どうなるか? 無視され、投獄され、罪状によっては死刑になるだろう。

 「法律」の特殊性は、まさにこの「相手の賛同・納得・同意を必要としない」ところにある。他のいかなる辞書的定義でも持てない「強制力」だ。

 ゆえに、『再定義における「説得」「勧誘」』とは事情が異なる。法律については、「法律を守るといいことがあるよ!」でも「一緒に法律を守ってみない?」でもない。われわれが幼少期から教わってきた通り、「法律を守れ。さもなくば罰する。」である。ゆえに、少なくとも『再定義における「説得」「勧誘」と何ら変わるところがない』は誤りである。「強制」という明々白々な差異があるからだ。

 むろん、お互いに一市民として、裁判所の外で、テロリズムの定義を言い争っているのであれば、ただ説得的な定義をどちらが出せるか、それこそ議論で争えばいい。ここでは「強制」までは働かない。だが、その議論でも、「日本国において有無を言わさぬ強制が可能なのは法律の定義のみである」という客観的事実は、「法律の定義を採用せよ」と主張する側に大きな有利を与える。「日本国でテロリストと認められず、ゆえにテロリストとしての処罰を受けない人」を「テロリスト」と呼んでも、日本国はテロリストとして扱ってはくれない。「実際に議論してみるまでは分からない」という原則論はあるとしても、この不利を覆す論拠を持ち出すのは、私には「難しい戦い」に思える。

 

次いで、やや些細な点ではあるが、申し開きもしておきたい。手嶋氏は「自らの主張の基盤とした重要な言葉の定義が、明らかに自己都合による恣意的な選択によるものと読者に見られれば、その主張は現実社会における説得力をほとんど喪失する。」と反論を書いておられるが、私の主張をよく読んで頂きたい。私はあくまで「定義を宣言しておけば」という条件を出している ある日いきなりイヌとネコをまとめてどちらも「犬」と呼びたいわけではないし、それで説得力を持てるなどと、独りよがりな妄想をしているわけではない。ただ、この箇所はやや強調が甘かったかもしれず、そこは私の反省点である。話の分わかりやすさを優先するが余り、氏には誤解を与えてしまったかもしれない。

 

 大筋で同意する。あまりにも恣意的と見られないような、説得力のある定義であれば差し支えない。(些細な点とのことなので、この程度にしておく)

 

続いて定義という作業がもつ創造性を改めて強調したい。手嶋氏は新しい定義が生む認識の力を理解しておられないと思うからだ。議論において定義とは、それによって思想・物事に新たな光を当てる作業である。例えば以下のような主張はどう思われるだろうか。「虐待の通告数が多いことを「ワースト」と言ってはいけません。市民の皆様が虐待の疑いを見逃さず、勇気を持って通告した数が全国一なのです。そして、この大量の通告に大阪児相がよく対応しておられると評価しないと。虐待通告数を低く出すために虐待と認定しないようになる自治体が出たら地獄ですよ※1」 辞書の定義とは異なるだろうが、再定義によって新しい視点が生まれている。というより一度これを見ればこれが正しい定義にしか思えなくなる。手嶋氏の(一部の例外を除き)辞書的な定義を常に優先するような姿勢にあってはこれらの視点は望めなかったものである。すなわち手嶋氏は、議論におけるもっともクリエイティブな部分である認識を軽視している。本末転倒とはこのことだ。既に作られた定義から一歩も出れぬとあっては、認識の新たな変化など望めるはずもない。

 

 この部分は、一般論ならば大いに賛同する。特に『議論において定義とは、それによって思想・物事に新たな光を当てる作業である』は至言であると認めざるを得ない。

  ただ、『ワースト』を巡るエピソードは、私も説得的な議論だとは思うが、はたして「『ワースト』の再定義」と言えるか。私は「言えない」と考える。というのも、「ワースト」が「最悪のもの、一番悪いもの」を指すという定義は、このエピソードの中でも変更なく維持されているからだ。要は『虐待の通告数が多い』をワーストの外延に取るべきでない(そもそも「悪いこと」と考えるべきではない)というのが骨子だろう。

 再定義ならば、「最悪のもの、一番悪いもの」という定義文に変更が見られなくてはならない。例えば「貧困率で比較したとき、A国が最も貧困で、B国はその次に貧困である。つまりA国がワーストだが、B国も、すごく貧困であるのは違いない。ゆえに、B国も『貧困率でワースト』と言って良いのではないか」のような議論を展開すれば、これはワーストの定義を拡張しているので、再定義になる。本来含まれなかった「二番目に悪い」を含めているからだ。

 もっとも、これは「引用したエピソードが、論旨に対してやや不適切に思える」という程度の問題に過ぎない。私も「素晴らしい再定義の例」は世の中にいくらでもあると認知している。したがって反論というより、せいぜい「修正が要るのではないか?」という指摘と捉えてもらいたい。

 また『既に作られた定義から一歩も出れぬとあっては、認識の新たな変化など望めるはずもない。』に関しても、まず同意する。この一文は極めて正しい。私は、批判対象となった記事において「辞書勢」として振る舞った。そこで「辞書勢」のさしあたりの定義として『「言葉は辞書の定義に沿って使うべきである」という確固たる信念を持っている。』と書いた。この信念は間違いであると言われれば、私は認めなくてはならない。

 しかしながら――これは私が悪いのであるが――「辞書勢としての信念を持つ」と言いながら、その後に展開した辞書勢としての反論では、「目的に対して辞書的定義から出る必要がないならば…」などと、暗に辞書的定義から出られる余地も残した言い方をしている。これでは、『言葉は辞書の定義に沿って使うべきである』という『確固たる信念』を持っていることにならない。

 最小限に修正すると、『原則として言葉は辞書の定義に沿って使うべきである』くらいであろう。例外なく辞書の定義を使えという立場は、天然居士さんが批判した通りであり、正当化しにくい。私は「完全な辞書勢」として振る舞う難しさから、無意識にすり替えてしまった。むろん、これはただの言い訳であるから、天然居士氏の批判は有効である。

 

総括

 非常にゆっくりした(※ゆ虐クラスタにおける最上級賛辞である)、素晴らしい批判をいただけて私は嬉しい。天然居士さんに感謝を。

 ひとまずの結論としては、ごく常識的な「再定義は意義のあることだから封じるべきではないし、辞書的定義も良いが、目的に照らして適切かどうかが考えられるべきである」といった所に着地したと言えようか。結論は平凡だが、この過程で様々な問題が明らかになり、私としてはかなり頭が整理された。天然居士さんのご協力に改めて感謝する。ゆっくりありがとう!

 

ネット喧嘩師クラスタで「辞書勢」と呼ばれる立場から自分で自分に反論してみた

ネット喧嘩師のなかの「辞書勢」と呼ばれる人たち

 ネット喧嘩師クラスタ(「喧嘩凸界隈」とも言われる)には、「辞書勢」というのがいる。まず読者には「ネット喧嘩師クラスタ」が分からないだろうと思うので説明すると、要は適当なテーマを設定してネット上で「議論バトル」している人たちの集まりを指す。議論にあえて「バトル」と本来は不要な付け足しをしたのは、一般的なネット議論クラスタツイッター論壇等)よりも勝ち敗けが強く意識されているからである。やや文化が違うのだ。

 そのネット喧嘩師クラスタの下位分類に「辞書勢」がいる。相手の主張に反論する際、その主張文の中で用いられている言葉の定義を尋ね、その回答と辞書的定義との齟齬を指摘して議論に勝とうとする人たちである。以前、私が記事で定議に関する持論を述べた時に紹介したきゃしゃん氏も、「テロリズム」について辞書を引いてきて何事か喚いていたから、彼がネット喧嘩師かどうかはともかくとしても、議論のやり方は辞書勢に近いと言えるだろう。

 私は辞書勢が「議論バトル」するところを実際いくつか見ているが、実力のほどとなると、どうにもお粗末である。正直にいえば、辞書勢については、テーマや論旨を無視し、重箱の隅つつきや揚げ足取りに過ぎない「辞書違反」を探す以外に一切の能がない連中という印象が強い。(私が辞書的定義を絶対視する必要はないと考えていることに関しては、前の記事で述べた通りであるから繰り返さない。)

 

辞書勢(Lunatic)の立場から考えてみる

 しかし、「辞書勢」に対する私の印象は、ごく少ないサンプルによって形成されているから、偏見である可能性も高い。そうひとくちに「辞書勢」といってもレベルの違いはあると考えるのが自然だ。辞書勢(Easy)は弱くても、辞書勢(Lunatic)は物凄く強いかもしれない。

 

 Lunatic辞書勢なら「テロリズム」の定義をどうすべきと考えるか。Lunaticといっても辞書勢は辞書勢であるから、「言葉は辞書の定義に沿って使うべきである」という確固たる信念を持っている。そうでなくては辞書勢たりえない。

 今回は、この信念から展開するであろう、私(手嶋海嶺)に対する最も強い反論を他ならぬ私自身で考えてみる。つまり、自我を分裂させて独り相撲をとる。

 

 ひとまず、きゃしゃん氏の以下のツイートを出発点としよう。

 

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 論証が弱いというより論証になってない。『日本独自の定義』は「独自」という言葉が「(テロリズムの定義が)他の国とは類似もしないオリジナルティあふれる」という意味なら確かにそれは存在しないと思うが、国語辞書を引いたら「テロリズム」の項目はあるという観点では、日本としての定義も存在はしている。

 ゆっくりできない。したがって、かなり強化しなければならない。

 

辞書を擁護する立場からの検討

 私がLunatic辞書勢なら、まず「辞書が正義」を前提としても、「なぜ、その辞書なのか?」という根拠を出す。世の中には複数の辞書があり、同じ言葉でも異なる定義(正確には「語釈」だが)が示されている。その中で「特にこの辞書の定義にしたがうべきだ」と主張するのだから、その根拠が要る。根拠を用意しなければ強い論証にはならない。

 

 きゃしゃん氏がGoogle検索で入手したであろう上記の定義は、オックスフォード大学出版局が編纂しているOxford Advanced Learner's Dictionary(OALD)の”terrorism”の項の和訳である。なぜ、ケンブリッジ大学出版局のCambridge English Ditionaryやアメリカのメリアム・ウェブスター社が発行しているMerriam-Webster Dictionaryでは駄目なのか。また、いったんオックスフォード大が英語辞書の出版元として最高権威と認めるとしても、Learner’s(学習者向け)ではなく、Oxford English Dictionary(OED)を使うべきではないか。

 更に言うと、言葉の定義を調べるのに、いわゆる「国語辞書」に限定する必要はない。「百科事典」や「法律」等でもいいはずである。国語辞書と同様、百科事典も専門家が責任を持って記述しており、十分な信頼性がある。例えば、ブリタニカ国際大百科事典の権威を認めない人はいないだろう。法律による用語の定義に関しても、いわば公的な「保証付き」なのだから、用いれば良い。

 加えて、「なぜ、英語の辞書なのか?」も問題となる。確かにテロリズム(terrorism)は英語である。しかし英語のterror(テロ)は遡るとフランス語のterreur(テルール)に由来する。フランス革命ロベスピエールが中心となって行った恐怖政治である。ならば、英語辞書ではなく、仏語辞書を引く方がより正当と言えるのではないか。

 あるいは逆にこうも言えるだろう。引用したツイートの議論で問題となっているのは、あくまでも日本のフェミニストが日本で行っている合憲的・合法的行為がテロにあたるかである。では仏語辞書でも英語辞書でもなく、素直に日本のものを参照したらいい。

 この観点で進むなら、辞書や百科事典よりも、日本の法律における「テロ行為」の規定を調べ、その定義に従うべきだというのが筋だろう。これが個人的にも強力だと思う。

 

 以上、長たらしく検討のプロセスを書いたが、私が想像する限り最も高度なLunatic辞書勢は次のように私に反論するだろう。辞書勢として振る舞う私から私への反論である。

 

辞書勢としての私から私への反論

 手嶋氏は、『言葉はどのように定義しようが自由であり、どれほど恣意的でも構わない。』と主張するが、これは辞書的定義(および既存の各学問領域で普及した定義)を過度に軽視した物言いである。たとえ原理的にはそうであっても、現実的には通る意味・通らない意味がある。なるほど自分にとってのメリット・デメリットで定義の採用の決めることは確かに可能だろう。しかし、自らの主張の基盤とした重要な言葉の定義が、明らかに自己都合による恣意的な選択によるものと読者に見られれば、その主張は現実社会における説得力をほとんど喪失する。主張を通すにあたって、どうしても辞書的定義が利用できない特殊なケースならばともかく、「合憲的・合法的フェミニストの政治活動はテロと言えるか?」という論題において「言えない」という立場を支持する程度であれば、辞書的定義を捨て去るのは不必要であるばかりか有害である。

 実際、「テロリズム」については、特定秘密の保護に関する法律で次の通り定義されている。

 

政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。

(特定秘密の保護に関する法律第十二条第二項)

 

 『人を殺傷し、又は重要な施設そのほかの物を破壊するための活動』と定義されている以上、手嶋氏が記事にて例示している行為、すなわち、

 

  • 地元の議員に陳情へいき、「この意見を受け容れられないなら、次は投票しない」と言うこと。
  • 購入した商品が気に入らず、企業にクレームの電話を一本入れること。
  • 飲食店で受けたサービスが失礼に感じ、文句の締めくくりに「もう来店しない」と言うこと。
  • Amazonレビューや食べログで「★1」をつけること。

 

 これらはいずれも、人を殺傷するものではなく、また重要な施設を破壊するものでもない。よって、日本が法律で定める「テロリズム」および「テロ行為」には該当しない。誰かが法律以外の定義から「該当する」と言ったとしても、それは日本国では公的に通用しない単なる誇張表現に過ぎない。

 その誇張表現を拒否するにあたって、何も「定義は任意である」まで引き下がる必要はない。むしろ、そのように引き下がらなければならないのは、手嶋氏が例示した行為すらテロに含めると考える側である。公に認められた定義が使える立場であるにも関わらず、それを捨て、定義の任意性を述べ立てるのは、かえって説得力の点で主張を脆弱にする。やはり不必要かつ有害な論理である。

 

 反論への再反論(?)

 ふむ。なるほどなるほど? まあ、なんだ。それなりに、一理あると認めざるを得ないようではある。ネット喧嘩師クラスタにおいて「残念」以外の評価がない辞書勢も、難易度設定がLunaticともなれば、なかなか知性を発揮してくると認めよう。

 私としては、そのように提示された反論に対し、より優れた反論をして自分の主張を守らねばならない。ゆっくりりかいしたよ。……ちょっとまってね? ゆっくり考えるから。ゆっくり……すごくゆっくり、考えるから。

 

 ははあ、うーむ……はいはい。そういうことね。

 分かる。分かるわ……。へぇ~~~。

 

 そこそこ良いんじゃないですか。……ええ、はい。そう思います。いいところは認めていくタイプですので。

 

 じゃあ再反論なんですけど、うーん、……まあ、まずひとつには……ひとつには…………

 

 ……………………………………

 

 ………………

 

 

 

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鳥山明ドラゴンボール(42)』集英社(1995)

 

 

『こまった・・・ちょっとかてない・・・』とは?

元ネタはマンガ「ドラゴンボール」における魔人ブウの台詞。
自らから生じた悪い魔人ブウとの戦いにおいて言った。

最初はある程度の自信があったが、戦いを進めていくうちに勝てなさそうであると認識しこのような台詞を述べた。

ネット用語辞典「ネット王子」より

 

議論は『引用』でゆっくりできるよ!

 些末なストレスに悩まされず、ゆっくりとした生活を送るためには、ゆっくりした思考回路を持つ必要がある。ゆっくりしていない思考回路を持つ人としては、例えば本日私をブロックしたこの人が挙げられる。

 

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Twitterは下から上に読む(この2ツイートは連続である)

 

 渡辺ペコ氏は、ある長たらしい批評を『あの回答』に対して下していた。『あの回答』がどの回答であるかは、さしあたって今は良いだろう(「これではないか?」とリプライで親切な方から頂戴した情報はあるのだが、渡辺ペコが問題視した『あの回答』と同一かは確証が取れない)。それを読んだ私は、引用画像の通り『批評するなら出典を明記するべきだろう』と述べた。

 それがどうも気に入らなかったらしい。渡辺ペコ氏は『知りたきゃ自分で調べろ』『批評として参考にしてほしいなんて一切書いてない。』と憤ってみせた。

 

 しかし、私は指摘したのは、「出典が明記されていないと、批評文中で取り上げられた相手の主張が、正確に原文を反映しているか確認できない。ゆえに、批評するなら出典を明記すべきである」という一般的問題である。個別案件として『あの回答』がどれのことなのか知りたい訳ではないし、ましてや渡辺ペコ氏の批評を「参考にしたい」訳ではない。渡辺ペコ氏の言い方に倣えば、私は「『あの回答』がどれのことか知りたいのです」とも「あなたの批評を参考にしたいのです」とも一切書いてないのである。逆に『参考にする価値はなさそう』とははっきり書いたのだが、こちらは見落とされたようだ。残念である。

 140字未満のツイートの読解がうまく出来ないなら、たぶん140字を超えるであろう『あの回答』の読解もうまく出来ていない可能性が高い、と私なら見る。むろんこれは憶測であるが。

 

 これもまた、先日述べた「相手の目的をゆっくり見極めること」がちゃんと出来ていないために起きる典型的な誤読と言えよう。ゆっくりした思考回路を持っていないのだ。渡辺ペコ氏は目的を見誤ったまま暴走を続け、ミソジニーのリレーバトンなどと意味不明の話をしだした。氏の見解によれば、「批評するなら出典を明記せよ」と述べた人は、ミソジニスト(女性嫌悪者)になるらしい。どうやれば繋がるのか。私には分からない。こうなると始末に負えないので、『もう来るな。』に対し、私も「いや、あなたの集落に行きたいなんて一切書いてないし」とささやかな皮肉で返すのが関の山である。我が身の無力を痛感するばかりである。(2ツイート目は手嶋海嶺のことを指してない、として躱す手はあるが、やや苦しい言い訳だろう)

 

 前置きが長くなった。本題は「引用」についてである。

 「相手の目的をゆっくり見極めること」と言えば簡単に聞こえるが、実践するのは容易ではない。ごく短い文章の読解でさえ無様にコケまくった渡辺ペコ氏を見れば分かるだろう。ゆ虐クラスタにいるとどうしても感覚が鈍りやすいが、出来て当たり前のことではないのである。

 しかし、優れた対策はある。それこそが「引用」である。明確に相手の言葉を引用すれば、批判が加えられるかどうかは自然と意識される。……って、渡辺ペコ氏は「引用RT」を使った上で、いわゆる「ごらんの有様」じゃないか。じゃあ引用しても駄目ではないか。私の話がやりにくいぞ。(脳内反論で死んだ)

 

 本来なら、「引用する」という作業をすると、相手の主張に対して「噛み合った」反論をしやすくなるはずなのである。ディベートや議論法、文章作法の教本でもたいていそう書かれているし、私も引用に気を配ることが、ふつうは有効な対策になると思って賛成している。ふつうは。

 おそらく引用RTの場合は、1クリックで出来てしまうのがかえって良くないのだろう。コピペでも駄目かもしれない。タイピングするなり紙に筆写するなりして、「噛み合った反論をするぞ」と意気込み、最後に「よし!」と発声する。これでいこう。

 

 例えば、私が「テロリズムの定義」について話したtogetterのコメント欄でも、私を「フェミニスト擁護派」と見做した人が散見された。むろん誤解である。彼らは決まって、なぜ手嶋海嶺がフェミニスト擁護派と判定できたのか、その根拠を具体的に私の発言を引用することによっては示さない。結果、漠然とした印象論に頼ることになり、的外れになる。もし私から「そう判定した根拠を、私の発言を引用して示せ」と言われたら、出来なくて窮地に陥る。過去のツイートを探しても、逆に「アンチフェミニストであること」「表現の規制に強く反対していること」の発言記録が見つかるばかりだ。

 注意事項として、引用は「概括」であってはならない。一言一句間違えずに「そのまま」を引用すべきである。出典明記が必要なのも当然である。

 これに関しては、教育学博士の宇佐美寛が極めて的確に述べているので「引用」する。

 

 全て、主張には証拠が要る。文章で何かを主張する場合、主張の証拠をその文章に書きこまねばならない。前述のように、事例も強力な証拠になる。また、他の文章の内容について主張するためには、その文章からの引用が不可欠である。

 他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。証拠も出さずに何かを主張しているわけである。

 また、読者にも〈どんな素材で論じているのか〉、〈どんな証拠で論じているのか〉を示さねばならない。引用が要る。

 要するに、引用によって、筆者と読者、そして対象である文章の筆者は、同じ素材を共有し、平等の関係になるのである。

…(中略)…概括(要約)は必ず勝手な色づけになる。原文に対して正確なものかどうか疑わしくなる。

 だから、概括ではなく、必要な部分をそのまま引用すべきなのである。引用は原文のとおりなのだから疑いようがない。

 また、責任は引用者にはない。そう書いたもとの筆者が自分の責任でそう書いたのである。これに対して、概括をすると、そう概括した者の責任になる。

 概括すれば、必ず原文との間にずれが生ずるのだから、概括者は責任を負いきれるものではない。

(宇佐美寛『作文の論理 [わかる文章]の仕組み』, 東信堂(1998), p.33-35.)

 

 何というゆっくりした(素晴らしい)文章だろうか。知的であるとはこういうことである。私は初読時は高校生くらいであったが、涙が出そうになったことを憶えている。『全て、主張には証拠が要る。』から始まり、一文一文が明晰で、折り目正しく、力強い。

 これを読んだ上で、発端となった渡辺ペコ氏のツイートを読んでみよう。いささか残酷な対比になるが、「ゆっくりしていない例」として他山の石にしてもらいたい。

 

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  まず『あの回答』がどれのことなのか分からない。『殴ってみせた』というのは「概括」の一種だが、正しく概括されているのか甚だ疑わしい。『糸井サイコー!氏が歓喜の声をあげて』もやはり引用がない。歓喜の声だったかどうかも概括的な印象論である。『編集者かマネージャー的な女性』などは発言者すら確かでない。『うっとり感嘆』していたか確かめようがない。『Tweetしてる』にも引用がない。

 

 私が渡辺ペコを評して「蛮族」というゆっくりしていない言葉を迷いなく選んだのは、もちろん『他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。』が念頭にあったからだ。皆様には蛮族の真似をすることなく、今後ともゆっくりした知的生活を送っていただきたい。

誰かと議論するつもりはなくても、議論技術はゆっくりするために大事である

 長めの記事タイトルで言いたいことを言い尽くした。

 したがって、本文ではゆっくりするとしよう。そんな訳にもいかないか。確かになあ。

 

 ゆっくり虐待界隈の皆様には今更説明するまでもないが、「議論技術」というのは少々世間に軽んじられ、しかも誤解されているようである。実際、「口論に勝つ技術」だとでも思われている節がある。そのために「論理学」を学べとも言われる。目的も手段も違う。

 「口論に勝つこと」が目的ならば、「どうやって自分の意見を押し付ける権力を確保するか」が本質的な問題となる。ありうる手段のうちの一つは、たしかに言語力・論理力の向上かもしれない。が、その寄与率は残念ながら甚だ低い。「横暴な」親や教師、上司に悩まされたことのある人は多いだろう。現実的な前提にたち、極めて論理的に推論を進め、自分の意見を結論として美しく導いたとしても、ただお小遣いの減額や停止が言い渡されるだけに終わることはしょっちゅうである。だとすれば、どうすれば自分が「権力のある側」すなわち「お小遣いを渡す側」になれるかを考えるべきである。その時、論理学がたしかに役に立つと期待できる場合に限って、論理学を学べば良い。

 

 議論技術の真価は、「意見の取捨選別」にある。別に相手と直接やり取りする必要はない。例えばTwitterで流れてくるツイートを目にする。そこには何らかの意見が書かれている。それは賛成し、取り入れるべきものだろうか。それとも反対し、自分のものとはしないべきだろうか。結論をいえば、「反論」でグチャグチャに潰せる意見は当然、取り入れるべきではない。逆にどんなに「反論」しようと思っても、ついに否定しきれなかった意見は、当面は取り入れても良かろう。「意見」というのは、「悔しいが、今は認めざるを得ない」という心理によってのみ受容されるべきなのである。

 この『どんなに「反論」しようと思っても』が大事である。議論技術のストックが乏しいと、「生き残る意見」がすぐに見いだせてしまう。そして、初めて見た動くものを親だと判断するヒヨコのように、つまらない意見にずっと付いていく羽目になる。それではゆっくりぷれいすは遠くなる。

 

 たとえば「民主主義はゆっくりできる」などと思っている人は、この症状が深刻に表出している。ゆっくり虐待界隈ならば、まず有り得ない話である。物事を民主的に決定する群れは滅ぶ。それが我々の認識する「テンプレ」である。それ以外にない。

 ゆ虐を知らないのであれば、ちょっとした思考実験を試してみてほしい。現在の日本において、民主主義のイデオロギーは「すでに」強く、ある意見が民主的でないとすると、それはただちに間違っていることになる「楽な立場」にある。イスラム教国において「イスラム的に正しい」ことが「正しい」とほぼイコールであるのと同じである。イスラム教国では「コーランの正しさ・良さ」から説明する必要はない。「イスラム教的ではない」という反論に備える必要があるが、「そもそもイスラム教が良くない」という反論に備える必要はない。

 では、そういう状況でなくなったらどうだろうか。すなわち、民主主義が当然とは是認されていない環境において、「他の統治形態よりも民主主義が優れている」と示すことは可能だろうか?

 

 当たり前だが、仮想論敵の設定はLunatic(東方Projectにおける最高難度)とする。すなわち、平均的なゆ虐界隈の人々と同程度の教養はあると考えればよい。

 つまり、歴史に関しては古代ギリシャὀχλοκρατία衆愚政治)批判論から始まり、第一次世界大戦における民衆の熱狂による全体主義=ファシズムの抬頭、「市民が立ち上がって声をあげて」行われた言論弾圧・排外行動、ポピュリストに集中する政治の「人気投票化」問題、グローバル資本主義による組織票操作、高齢化社会のため老人擁護に偏る政策(いわゆるシルバー民主主義)といった程度は軽やかに、かつ具体的に引用してくるし、また理系的な観点からもコンドルセパラドックス」や「アローの不可能性定理」程度は当然持ち出してくる。

 「いや、そんな相手に勝ちようがない」と思うのであれば、おそらくあなたは民主主義を支持するべきではない。

 

 ただし、同じことは逆にも成り立つことには注意が必要だ。反民主主義の立場から、Lunaticレベルの民主主義者を相手に勝てそうかも試してみるべきである。そいつはやはり当然、衆愚政を避けるべく工夫された「リベラル・デモクラシー」や「熟議型民主主義」といった知見を駆使してくるし、「民主主義の失態」と考えられる歴史的事件に関しても、「それは民主主義の手続きを守っていなかった」(例えばナチズムの抬頭は、議会の武力占拠があったので民主主義とは言えないなど)と論理的かつ実証的に対抗してくるだろう。弾幕をしのぎ切れるかが問われる。

 

 これらは一人で脳内でやる勝負だが、この勝負を「ちゃんとやる」ためには議論技術が必須である。

 加えて、自明であるが、一定の知識がないとまともな勝負は展開できない。たとえば「コンドルセパラドックス」(投票の逆理)を初めて聞いた人は、少なくとも現時点において、民主主義について何も言わない方が良い。賛成も反対もすべきでない。それは、そもそもルールを把握していないかのような、勝負以前の問題である。

目的と手段の相性~実例1

 議論における「目的と手段の相性」について爪切りと野菜のアナロジーを使って説明したが、簡単すぎて「実際にそういう反論方法って採用されてるの?」と思う人もいるだろう。「ていうか、そもそも『その程度のミス』を人がやってしまうものなの?」とかも思うかもしれない。

 

 評論家・呉智英の著書から実例を引用してみよう。

 学生に古文・漢文を教えることの意義は今でも思い出されたようにネット上でも議論になる。

 大阪大学名誉教授の加地伸行は、次のような「持論」を展開することで、古典的教養の意義を支持した。

 

 加地は、風雪に耐えた古典の重さを強調する。ヨーロッパの学生はラテン語学習によって古典に通じ、学生としての知性や品格を備える。ヨーロッパにおけるラテン語古典に相当するのが、日本では漢籍である。坂村(※引用注:加地の論敵で、古典教養不要論者)の言う科学技術にしても、コンピューターの二進法は『易経』の陰陽思想と起源を同じくしている。ハンセン病患者に対する政策決定も、癩を病む弟子に対する孔子の思いやりが描かれた『論語』の記述にこそ学ぶべきである。「少年ジャンプ」で、古典から与えられる感銘が得られるか。と、こちらはこちらで格調高い。

(『犬儒派だもの』呉智英, p.146-147)

 

 しかし、呉智英はこの見解に反論する。まさしく、「目的と手段の合致」に着目したやり方で対抗する。

 

 コンピューターを操作するのに『易経』の知識なんぞむろん何の役にも立ちはしない。ハンセン病を治療するのに必要なのは新薬の開発であって、『論語』の素養は全く必要がない。患者救済も『論語』なんて読むより、六法全書の中の福祉関連法を熟読した方がいいに決まっている。

(『犬儒派だもの』呉智英, p.146-147)

 

  はじめの文で、加地は、明らかに目的として「コンピューター技術への理解」と「ハンセン病に関する政策決定」を設定している。そしてその目的を達成する手段として、それぞれ『易経を読むこと』と『論語を読むこと』を挙げている。

 しかし、それらの目的と、それぞれの手段は合理的にはつながらない、と呉智英は言っているのである。二段構えで「提案された手段では達成されないこと」を述べた上で、「もっと目的を達成しやすい手段」をも代案として提示している。

 

 私が最初にしたアナロジーは「わかりやすい」が、現実でこの論法が使われている実践例をたくさん知らないと、「活きる」知識にはならない。これまた1例に過ぎないのではあるが、「目的と手段の相性を検討する」ことが実践的なテクニックであることをもう少し評価してもらうきっかけとなってくれれば嬉しい。

目的と手段の相性という考え方/議論で「ゆっくりする」ためには

 皆さんゆっくりしていますか? 私はゆっくりしています。Togetterのコメントがたくっさんっ来たから、とってもゆっくりできてるよ!

 それでは、前の記事で『定義』について述べたので、今度は『目的と手段』という基本的なモノの考え方を紹介する。まずはとても簡単なアナロジーから。

 

 この世界には「爪切り」というものがある。「爪切り」は爪を切ることに最適化された形状をしており、爪を切ることを目的とすれば、最適な手段である。しかしながら、目的が野菜を切ることならば不適切である。その場合は、おそらく「包丁」と呼ばれる別種の刃物を使った方が良いと考えられる。

 

 とても簡単な話だが、白熱した議論になればなるほど見逃されやすいポイントである。大事だから、上のパラグラフはゆっくりと100回ほど音読してほしい。それだけの価値がある。もしあなたが議論において「ゆっくり出来る側」になりたいなら、この「爪を切ること」「野菜を切ること」といった【目的】と、「爪切り」「包丁」という【手段】の相性を意識するのは必須だ。

 

 Togetterコメント欄で、私は「手嶋海嶺が提唱する手段では、味方であるべきアンチフェミニストがゆっくりできない気分になり、彼らに言うことを聞いてもらえないだろう」という反論を受けた。つまり「爪切りで、野菜は切りにくい」みたいなことを言われた訳だ。それは確かにそうだろう。私も「爪切りで野菜が切りにくいこと」には同意せざるを得ない。とても正しいと思う。

 しかし、私の目的は本当に「野菜を切ること」=「言うことを聞いてもらうこと」なのだろうか? ここはゆっくり考える必要がある。慌ててはいけない。ゆっくりだ。というのも、私がそんなことを全く目的にしていなかった場合、「いや、爪切りで野菜を切るつもりはないのだが」という一言で再反論が終わってしまうからだ。

 答えをいえば、私とて「野菜を切ること」が目的なら、包丁なりキッチンバサミなりを使う。これらが無くても、爪切りを使うよりは手で直接ちぎったほうが良い。そのほう目的を迅速に達成することができ、空いた時間でゆっくりできるだろう。

 

 議論において、有効な反論をもし為したいのであれば、論敵の【目的】は慎重にゆっくりと確かめる必要がある。その上で、「その目的を達成したいなら、その手段ではゆっくりできないよ!」とか「もっといい手段があるよ!」などと言ってやることだ。

 おそらくだが、「相手に言うことを聞かせる」(=テロリストの語の定義を『手嶋流』に合わせてもらう)ことを目的とするなら、理屈をこねて説得するよりも、「言うことを聞いてくれたら10万円あげます!」と言うほうがずっと早くて確実である。少なくとも私がアンチフェミニスト流のテロリストの拡大定義を採用してほしいと10万円とともに言われたら、ゆっくりしないですぐにその定義を採用するだろう。

 

 とはいえ、違憲・違法なテロリズムはやはり別格なので、こちらには「超テロリズム」などと適当な別の呼び名を与えてはおこう。クレームの電話を一本入れるレベルのことは「テロ行為」と呼び、暗殺や放火に至ったら「超テロ行為」と呼ぶ。それでいい。前の記事で述べたように、定義は任意で、自分が感じるメリット・デメリットに基づいて決めるものだからだ。ある定義に「10万円もらえる」というはっきりしたメリットが生じたら、そちらに切り替えるのは当然である。(あなたがお金持ちで10万円と10円の区別がつかない生活をしているなら、あまりメリットと感じられず、定義を変更しない可能性もある。しかし幸いなことに、私は10万円を嬉しがる貧乏人である)

 

 「有効な反論」は、何も「目的と手段の相性の悪さを説く」ことだけには限られないが、少なくともそのうちの一つには数えられる。緊急に議論の要が生じた際には、思い出して是非ともご活用いただきたい。

 むろん、この程度は、ゆっくり虐待界隈の人であれば、「論破モノ」を読むうちに自然と熟知される基本事項であるのだが。(ただし、ゆ虐の「論破モノ」で得られる中で最も大事な知見は、「完全なゲスゆっくりは論破することができない。死ぬ目に遭っても無理である」という厳然たる社会的現実である。)