なぜLGBTクラスタは「ゆっくりできない」存在でしかないか?

 私はLGBTPZNという権利活動に賛成している。聞き慣れない人もいるかもしれない。LGBTPZNとは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーLGBT)に加え、ペドフィリア小児性愛)、ズーフィリア(動物性愛)、ネクロフィリア(死体性愛)にもやはり性的な満足を追求する権利があると主張する人が自ら名乗る呼称である。

 もちろん、信条としてLGBTPZNを掲げる人は、必ずしもPZNだけを対象にしているのではない。他にもさまざま多様にありうる性的傾向を擁護するにあたり、さしあたり「わかりやすい」3つを取り上げているだけである。「あらゆる人々は、具体的な他人の人権を侵害しない限り、ゆっくりしてよい」という理念を表現したのがLGBTPZNである。

 PZNの権利擁護に熱心な私だが、さすがに実在の小児と性交渉を認めるわけではない。また実在の動物虐待にも賛成しないし、死体の使用を許可してやれと言うつもりもない。 しかし、現実の犯罪ではない限り、すなわちフィクション(小説、イラスト、ドール等)である限り、欲望を満たす手段は封じてはならないと考えている。

 まずもって、現代の人権思想は自由が原則であり、自由を制約するには「本当によっぽどの理由」が認められる場合だけである。当然それは「不快に感じるから」という曖昧で程度の低いものであってはならない。このような理由で「PZNの迫害を正当化された」とみなせるなら、およそどのような人権侵害も素通しになってしまう。数学でいえばゼロ除算を認められないのと同じく、これは「人権」という考え方そのものを台無しにしてしまう。

 私の見解を簡単にまとめれば、『「LGBT」という言葉には、それ自体で「PZNの排除」が暗黙のうちに含意されてしまっている、だから賛成できない』という点に尽きる。PZNを排除したLGBT活動とは、人権を重視するのであれば、「やってはいけない」のである。「自分たちの属性だけが助かればよい」というのは、「白人だけが助かれば良い」または「白人と、裕福で教養のある黒人だけが助かれば良い」と主張するのと全く同じである。ゆえに私は「LGBT活動」を、「人権擁護の権利活動」とも「反差別のための戦い」とも認定してやることが出来ない。彼らはお得意の「性的指向性的嗜好」という卑劣な分断政策で、「LGBT」と「PZN」を切り離す。その「切り離す」挙動こそが、人権侵害といい、差別だといって批判するのが本来の人権思想のあるべき姿である。