目的と手段の相性という考え方/議論で「ゆっくりする」ためには

 皆さんゆっくりしていますか? 私はゆっくりしています。Togetterのコメントがたくっさんっ来たから、とってもゆっくりできてるよ!

 それでは、前の記事で『定義』について述べたので、今度は『目的と手段』という基本的なモノの考え方を紹介する。まずはとても簡単なアナロジーから。

 

 この世界には「爪切り」というものがある。「爪切り」は爪を切ることに最適化された形状をしており、爪を切ることを目的とすれば、最適な手段である。しかしながら、目的が野菜を切ることならば不適切である。その場合は、おそらく「包丁」と呼ばれる別種の刃物を使った方が良いと考えられる。

 

 とても簡単な話だが、白熱した議論になればなるほど見逃されやすいポイントである。大事だから、上のパラグラフはゆっくりと100回ほど音読してほしい。それだけの価値がある。もしあなたが議論において「ゆっくり出来る側」になりたいなら、この「爪を切ること」「野菜を切ること」といった【目的】と、「爪切り」「包丁」という【手段】の相性を意識するのは必須だ。

 

 Togetterコメント欄で、私は「手嶋海嶺が提唱する手段では、味方であるべきアンチフェミニストがゆっくりできない気分になり、彼らに言うことを聞いてもらえないだろう」という反論を受けた。つまり「爪切りで、野菜は切りにくい」みたいなことを言われた訳だ。それは確かにそうだろう。私も「爪切りで野菜が切りにくいこと」には同意せざるを得ない。とても正しいと思う。

 しかし、私の目的は本当に「野菜を切ること」=「言うことを聞いてもらうこと」なのだろうか? ここはゆっくり考える必要がある。慌ててはいけない。ゆっくりだ。というのも、私がそんなことを全く目的にしていなかった場合、「いや、爪切りで野菜を切るつもりはないのだが」という一言で再反論が終わってしまうからだ。

 答えをいえば、私とて「野菜を切ること」が目的なら、包丁なりキッチンバサミなりを使う。これらが無くても、爪切りを使うよりは手で直接ちぎったほうが良い。そのほう目的を迅速に達成することができ、空いた時間でゆっくりできるだろう。

 

 議論において、有効な反論をもし為したいのであれば、論敵の【目的】は慎重にゆっくりと確かめる必要がある。その上で、「その目的を達成したいなら、その手段ではゆっくりできないよ!」とか「もっといい手段があるよ!」などと言ってやることだ。

 おそらくだが、「相手に言うことを聞かせる」(=テロリストの語の定義を『手嶋流』に合わせてもらう)ことを目的とするなら、理屈をこねて説得するよりも、「言うことを聞いてくれたら10万円あげます!」と言うほうがずっと早くて確実である。少なくとも私がアンチフェミニスト流のテロリストの拡大定義を採用してほしいと10万円とともに言われたら、ゆっくりしないですぐにその定義を採用するだろう。

 

 とはいえ、違憲・違法なテロリズムはやはり別格なので、こちらには「超テロリズム」などと適当な別の呼び名を与えてはおこう。クレームの電話を一本入れるレベルのことは「テロ行為」と呼び、暗殺や放火に至ったら「超テロ行為」と呼ぶ。それでいい。前の記事で述べたように、定義は任意で、自分が感じるメリット・デメリットに基づいて決めるものだからだ。ある定義に「10万円もらえる」というはっきりしたメリットが生じたら、そちらに切り替えるのは当然である。(あなたがお金持ちで10万円と10円の区別がつかない生活をしているなら、あまりメリットと感じられず、定義を変更しない可能性もある。しかし幸いなことに、私は10万円を嬉しがる貧乏人である)

 

 「有効な反論」は、何も「目的と手段の相性の悪さを説く」ことだけには限られないが、少なくともそのうちの一つには数えられる。緊急に議論の要が生じた際には、思い出して是非ともご活用いただきたい。

 むろん、この程度は、ゆっくり虐待界隈の人であれば、「論破モノ」を読むうちに自然と熟知される基本事項であるのだが。(ただし、ゆ虐の「論破モノ」で得られる中で最も大事な知見は、「完全なゲスゆっくりは論破することができない。死ぬ目に遭っても無理である」という厳然たる社会的現実である。)