目的と手段の相性~実例1

 議論における「目的と手段の相性」について爪切りと野菜のアナロジーを使って説明したが、簡単すぎて「実際にそういう反論方法って採用されてるの?」と思う人もいるだろう。「ていうか、そもそも『その程度のミス』を人がやってしまうものなの?」とかも思うかもしれない。

 

 評論家・呉智英の著書から実例を引用してみよう。

 学生に古文・漢文を教えることの意義は今でも思い出されたようにネット上でも議論になる。

 大阪大学名誉教授の加地伸行は、次のような「持論」を展開することで、古典的教養の意義を支持した。

 

 加地は、風雪に耐えた古典の重さを強調する。ヨーロッパの学生はラテン語学習によって古典に通じ、学生としての知性や品格を備える。ヨーロッパにおけるラテン語古典に相当するのが、日本では漢籍である。坂村(※引用注:加地の論敵で、古典教養不要論者)の言う科学技術にしても、コンピューターの二進法は『易経』の陰陽思想と起源を同じくしている。ハンセン病患者に対する政策決定も、癩を病む弟子に対する孔子の思いやりが描かれた『論語』の記述にこそ学ぶべきである。「少年ジャンプ」で、古典から与えられる感銘が得られるか。と、こちらはこちらで格調高い。

(『犬儒派だもの』呉智英, p.146-147)

 

 しかし、呉智英はこの見解に反論する。まさしく、「目的と手段の合致」に着目したやり方で対抗する。

 

 コンピューターを操作するのに『易経』の知識なんぞむろん何の役にも立ちはしない。ハンセン病を治療するのに必要なのは新薬の開発であって、『論語』の素養は全く必要がない。患者救済も『論語』なんて読むより、六法全書の中の福祉関連法を熟読した方がいいに決まっている。

(『犬儒派だもの』呉智英, p.146-147)

 

  はじめの文で、加地は、明らかに目的として「コンピューター技術への理解」と「ハンセン病に関する政策決定」を設定している。そしてその目的を達成する手段として、それぞれ『易経を読むこと』と『論語を読むこと』を挙げている。

 しかし、それらの目的と、それぞれの手段は合理的にはつながらない、と呉智英は言っているのである。二段構えで「提案された手段では達成されないこと」を述べた上で、「もっと目的を達成しやすい手段」をも代案として提示している。

 

 私が最初にしたアナロジーは「わかりやすい」が、現実でこの論法が使われている実践例をたくさん知らないと、「活きる」知識にはならない。これまた1例に過ぎないのではあるが、「目的と手段の相性を検討する」ことが実践的なテクニックであることをもう少し評価してもらうきっかけとなってくれれば嬉しい。