誰かと議論するつもりはなくても、議論技術はゆっくりするために大事である

 長めの記事タイトルで言いたいことを言い尽くした。

 したがって、本文ではゆっくりするとしよう。そんな訳にもいかないか。確かになあ。

 

 ゆっくり虐待界隈の皆様には今更説明するまでもないが、「議論技術」というのは少々世間に軽んじられ、しかも誤解されているようである。実際、「口論に勝つ技術」だとでも思われている節がある。そのために「論理学」を学べとも言われる。目的も手段も違う。

 「口論に勝つこと」が目的ならば、「どうやって自分の意見を押し付ける権力を確保するか」が本質的な問題となる。ありうる手段のうちの一つは、たしかに言語力・論理力の向上かもしれない。が、その寄与率は残念ながら甚だ低い。「横暴な」親や教師、上司に悩まされたことのある人は多いだろう。現実的な前提にたち、極めて論理的に推論を進め、自分の意見を結論として美しく導いたとしても、ただお小遣いの減額や停止が言い渡されるだけに終わることはしょっちゅうである。だとすれば、どうすれば自分が「権力のある側」すなわち「お小遣いを渡す側」になれるかを考えるべきである。その時、論理学がたしかに役に立つと期待できる場合に限って、論理学を学べば良い。

 

 議論技術の真価は、「意見の取捨選別」にある。別に相手と直接やり取りする必要はない。例えばTwitterで流れてくるツイートを目にする。そこには何らかの意見が書かれている。それは賛成し、取り入れるべきものだろうか。それとも反対し、自分のものとはしないべきだろうか。結論をいえば、「反論」でグチャグチャに潰せる意見は当然、取り入れるべきではない。逆にどんなに「反論」しようと思っても、ついに否定しきれなかった意見は、当面は取り入れても良かろう。「意見」というのは、「悔しいが、今は認めざるを得ない」という心理によってのみ受容されるべきなのである。

 この『どんなに「反論」しようと思っても』が大事である。議論技術のストックが乏しいと、「生き残る意見」がすぐに見いだせてしまう。そして、初めて見た動くものを親だと判断するヒヨコのように、つまらない意見にずっと付いていく羽目になる。それではゆっくりぷれいすは遠くなる。

 

 たとえば「民主主義はゆっくりできる」などと思っている人は、この症状が深刻に表出している。ゆっくり虐待界隈ならば、まず有り得ない話である。物事を民主的に決定する群れは滅ぶ。それが我々の認識する「テンプレ」である。それ以外にない。

 ゆ虐を知らないのであれば、ちょっとした思考実験を試してみてほしい。現在の日本において、民主主義のイデオロギーは「すでに」強く、ある意見が民主的でないとすると、それはただちに間違っていることになる「楽な立場」にある。イスラム教国において「イスラム的に正しい」ことが「正しい」とほぼイコールであるのと同じである。イスラム教国では「コーランの正しさ・良さ」から説明する必要はない。「イスラム教的ではない」という反論に備える必要があるが、「そもそもイスラム教が良くない」という反論に備える必要はない。

 では、そういう状況でなくなったらどうだろうか。すなわち、民主主義が当然とは是認されていない環境において、「他の統治形態よりも民主主義が優れている」と示すことは可能だろうか?

 

 当たり前だが、仮想論敵の設定はLunatic(東方Projectにおける最高難度)とする。すなわち、平均的なゆ虐界隈の人々と同程度の教養はあると考えればよい。

 つまり、歴史に関しては古代ギリシャὀχλοκρατία衆愚政治)批判論から始まり、第一次世界大戦における民衆の熱狂による全体主義=ファシズムの抬頭、「市民が立ち上がって声をあげて」行われた言論弾圧・排外行動、ポピュリストに集中する政治の「人気投票化」問題、グローバル資本主義による組織票操作、高齢化社会のため老人擁護に偏る政策(いわゆるシルバー民主主義)といった程度は軽やかに、かつ具体的に引用してくるし、また理系的な観点からもコンドルセパラドックス」や「アローの不可能性定理」程度は当然持ち出してくる。

 「いや、そんな相手に勝ちようがない」と思うのであれば、おそらくあなたは民主主義を支持するべきではない。

 

 ただし、同じことは逆にも成り立つことには注意が必要だ。反民主主義の立場から、Lunaticレベルの民主主義者を相手に勝てそうかも試してみるべきである。そいつはやはり当然、衆愚政を避けるべく工夫された「リベラル・デモクラシー」や「熟議型民主主義」といった知見を駆使してくるし、「民主主義の失態」と考えられる歴史的事件に関しても、「それは民主主義の手続きを守っていなかった」(例えばナチズムの抬頭は、議会の武力占拠があったので民主主義とは言えないなど)と論理的かつ実証的に対抗してくるだろう。弾幕をしのぎ切れるかが問われる。

 

 これらは一人で脳内でやる勝負だが、この勝負を「ちゃんとやる」ためには議論技術が必須である。

 加えて、自明であるが、一定の知識がないとまともな勝負は展開できない。たとえば「コンドルセパラドックス」(投票の逆理)を初めて聞いた人は、少なくとも現時点において、民主主義について何も言わない方が良い。賛成も反対もすべきでない。それは、そもそもルールを把握していないかのような、勝負以前の問題である。