議論は『引用』でゆっくりできるよ!

 些末なストレスに悩まされず、ゆっくりとした生活を送るためには、ゆっくりした思考回路を持つ必要がある。ゆっくりしていない思考回路を持つ人としては、例えば本日私をブロックしたこの人が挙げられる。

 

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Twitterは下から上に読む(この2ツイートは連続である)

 

 渡辺ペコ氏は、ある長たらしい批評を『あの回答』に対して下していた。『あの回答』がどの回答であるかは、さしあたって今は良いだろう(「これではないか?」とリプライで親切な方から頂戴した情報はあるのだが、渡辺ペコが問題視した『あの回答』と同一かは確証が取れない)。それを読んだ私は、引用画像の通り『批評するなら出典を明記するべきだろう』と述べた。

 それがどうも気に入らなかったらしい。渡辺ペコ氏は『知りたきゃ自分で調べろ』『批評として参考にしてほしいなんて一切書いてない。』と憤ってみせた。

 

 しかし、私は指摘したのは、「出典が明記されていないと、批評文中で取り上げられた相手の主張が、正確に原文を反映しているか確認できない。ゆえに、批評するなら出典を明記すべきである」という一般的問題である。個別案件として『あの回答』がどれのことなのか知りたい訳ではないし、ましてや渡辺ペコ氏の批評を「参考にしたい」訳ではない。渡辺ペコ氏の言い方に倣えば、私は「『あの回答』がどれのことか知りたいのです」とも「あなたの批評を参考にしたいのです」とも一切書いてないのである。逆に『参考にする価値はなさそう』とははっきり書いたのだが、こちらは見落とされたようだ。残念である。

 140字未満のツイートの読解がうまく出来ないなら、たぶん140字を超えるであろう『あの回答』の読解もうまく出来ていない可能性が高い、と私なら見る。むろんこれは憶測であるが。

 

 これもまた、先日述べた「相手の目的をゆっくり見極めること」がちゃんと出来ていないために起きる典型的な誤読と言えよう。ゆっくりした思考回路を持っていないのだ。渡辺ペコ氏は目的を見誤ったまま暴走を続け、ミソジニーのリレーバトンなどと意味不明の話をしだした。氏の見解によれば、「批評するなら出典を明記せよ」と述べた人は、ミソジニスト(女性嫌悪者)になるらしい。どうやれば繋がるのか。私には分からない。こうなると始末に負えないので、『もう来るな。』に対し、私も「いや、あなたの集落に行きたいなんて一切書いてないし」とささやかな皮肉で返すのが関の山である。我が身の無力を痛感するばかりである。(2ツイート目は手嶋海嶺のことを指してない、として躱す手はあるが、やや苦しい言い訳だろう)

 

 前置きが長くなった。本題は「引用」についてである。

 「相手の目的をゆっくり見極めること」と言えば簡単に聞こえるが、実践するのは容易ではない。ごく短い文章の読解でさえ無様にコケまくった渡辺ペコ氏を見れば分かるだろう。ゆ虐クラスタにいるとどうしても感覚が鈍りやすいが、出来て当たり前のことではないのである。

 しかし、優れた対策はある。それこそが「引用」である。明確に相手の言葉を引用すれば、批判が加えられるかどうかは自然と意識される。……って、渡辺ペコ氏は「引用RT」を使った上で、いわゆる「ごらんの有様」じゃないか。じゃあ引用しても駄目ではないか。私の話がやりにくいぞ。(脳内反論で死んだ)

 

 本来なら、「引用する」という作業をすると、相手の主張に対して「噛み合った」反論をしやすくなるはずなのである。ディベートや議論法、文章作法の教本でもたいていそう書かれているし、私も引用に気を配ることが、ふつうは有効な対策になると思って賛成している。ふつうは。

 おそらく引用RTの場合は、1クリックで出来てしまうのがかえって良くないのだろう。コピペでも駄目かもしれない。タイピングするなり紙に筆写するなりして、「噛み合った反論をするぞ」と意気込み、最後に「よし!」と発声する。これでいこう。

 

 例えば、私が「テロリズムの定義」について話したtogetterのコメント欄でも、私を「フェミニスト擁護派」と見做した人が散見された。むろん誤解である。彼らは決まって、なぜ手嶋海嶺がフェミニスト擁護派と判定できたのか、その根拠を具体的に私の発言を引用することによっては示さない。結果、漠然とした印象論に頼ることになり、的外れになる。もし私から「そう判定した根拠を、私の発言を引用して示せ」と言われたら、出来なくて窮地に陥る。過去のツイートを探しても、逆に「アンチフェミニストであること」「表現の規制に強く反対していること」の発言記録が見つかるばかりだ。

 注意事項として、引用は「概括」であってはならない。一言一句間違えずに「そのまま」を引用すべきである。出典明記が必要なのも当然である。

 これに関しては、教育学博士の宇佐美寛が極めて的確に述べているので「引用」する。

 

 全て、主張には証拠が要る。文章で何かを主張する場合、主張の証拠をその文章に書きこまねばならない。前述のように、事例も強力な証拠になる。また、他の文章の内容について主張するためには、その文章からの引用が不可欠である。

 他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。証拠も出さずに何かを主張しているわけである。

 また、読者にも〈どんな素材で論じているのか〉、〈どんな証拠で論じているのか〉を示さねばならない。引用が要る。

 要するに、引用によって、筆者と読者、そして対象である文章の筆者は、同じ素材を共有し、平等の関係になるのである。

…(中略)…概括(要約)は必ず勝手な色づけになる。原文に対して正確なものかどうか疑わしくなる。

 だから、概括ではなく、必要な部分をそのまま引用すべきなのである。引用は原文のとおりなのだから疑いようがない。

 また、責任は引用者にはない。そう書いたもとの筆者が自分の責任でそう書いたのである。これに対して、概括をすると、そう概括した者の責任になる。

 概括すれば、必ず原文との間にずれが生ずるのだから、概括者は責任を負いきれるものではない。

(宇佐美寛『作文の論理 [わかる文章]の仕組み』, 東信堂(1998), p.33-35.)

 

 何というゆっくりした(素晴らしい)文章だろうか。知的であるとはこういうことである。私は初読時は高校生くらいであったが、涙が出そうになったことを憶えている。『全て、主張には証拠が要る。』から始まり、一文一文が明晰で、折り目正しく、力強い。

 これを読んだ上で、発端となった渡辺ペコ氏のツイートを読んでみよう。いささか残酷な対比になるが、「ゆっくりしていない例」として他山の石にしてもらいたい。

 

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  まず『あの回答』がどれのことなのか分からない。『殴ってみせた』というのは「概括」の一種だが、正しく概括されているのか甚だ疑わしい。『糸井サイコー!氏が歓喜の声をあげて』もやはり引用がない。歓喜の声だったかどうかも概括的な印象論である。『編集者かマネージャー的な女性』などは発言者すら確かでない。『うっとり感嘆』していたか確かめようがない。『Tweetしてる』にも引用がない。

 

 私が渡辺ペコを評して「蛮族」というゆっくりしていない言葉を迷いなく選んだのは、もちろん『他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。』が念頭にあったからだ。皆様には蛮族の真似をすることなく、今後ともゆっくりした知的生活を送っていただきたい。