ユダヤ人虐殺は有用性が高いか?

 ユダヤ人虐殺は有用性が高い」という主張を見たとき、ノータイムで「その評価が正しいかどうかは、設定した目的による」と考えられない人は思考力が低いと言って差し支えない。
 
今回は、おそらく思考力の低い人によって書かれたブログ記事を紹介しつつ、その誤りについて示す。

 まあ、「誤り」というより、基本的な考え方の「できてなさ」への指摘ではあるのだが(別にナチスドイツのユダヤ人虐殺に限定されない)。

 

hokke-ookami.hatenablog.com

 まずこの発端として、次のようなツイートがあったそうだ。

 

 慶応志望の女子が「統治」に関するテーマで、ナチスの政策がいかにすばらしいかということを超論理的に書いて提出してきた。

内容はおよそ高校生が書くものではなかった。

つまり、文体や論理性がずばぬけているのだ。

しかし、「虐殺の有用性」は明らかに倫理に反する。
この答案の採点には困った。

要するに答案としては「満点」なのだが、思想的な側面で無条件で「不合格」にされる可能性があると思ったからだ。

 

  我々は「慶応志望の女子」が書いたという小論文の本文は読めない。だから、私もその小論文について真に評価することはできないが、話を進めるために、上記ツイートの評価はいったん正しいとする(実際の小論文が正しくなくても、「もしも正しく書かれていた場合……」で考えるという意味)。

 

 上のツイートを受けて、hokke-ookami 氏は手短にではあるが次のように反論している。

 

どちらがとはいわないが、予想以上に中学二年生かと思った。いや、中学三年生か*2
たとえ倫理を無視したとしても*3、収容や侵略や殺戮による収奪でいつまでも経済を動かせるわけもないだろうに。

 

 なぜ、「いつまでも経済を動かすこと」を目的として、有用性を測定するのだろうか?

 もちろん、問題の小論文のタイトルが「経済の長期的繁栄のための虐殺の有用性」であれば分かる。その場合、虐殺が長期的には経済に悪影響を与えるとする何らかの根拠を示せば、一応まっとうな反論になる。しかし、目的に関する情報はせいぜい「統治」としか与えられていない。反論者側の都合で勝手に目的を設定し、その目的が虐殺という手段によっては叶えられないことを示しても、反論にはならない。

 

 簡単な例で説明する。

 私が「コピー用紙を切るには、ハサミが有用である」と主張したとする。「コピー用紙を切ること」が目的で、「ハサミを使うこと」が手段である。この時日常的な感覚に照らし合わせて、ハサミは有用性が高いと言ってもいいだろう。一方で、目的が「鶏肉を切ること」であれば、ハサミよりは包丁を使った方がいい。このように、目的が変われば「ハサミを使うこと」という手段の有用性についての評価は変わる。

 そして、私が「コピー用紙を切るには、ハサミが有用である」と主張したのに対し、反論として「しかし、ハサミで鶏肉は切りにくい。ゆえにハサミが有用だというのは間違いだ」と話すのは明らかに間違っている。「そんな話はしていない」の一言で終わる。

 

 ハサミに限らない。あらゆる手段は、何らかの目的が設定されて初めて、有用かどうかが考えられるのである。更に踏み込んでいえば、どのような手段も、目的を適切に選択すれば、有用であると言えるし、有用でないとも言えるのである。

 

 また、反論者側の都合で目的を作り出すことを認めるなら、再反論で同じことをしてはいけない理由もなくなる。つまり、批判された側としても、また新たに目的Xを設定し、「目的Xを叶える上では、ユダヤ人虐殺は有用性が高い」と後付けで言っていい。もちろん、再々反論で「目的Yを叶える上では、ユダヤ人虐殺は有用性が低い」とも言えるのだが、もはや収拾はつかないだろう。議論は完全に破綻する。

 

 以上は「目的を反論者側で勝手に設定してはいけない」という一般論だが、そもそも『収容や侵略や殺戮による収奪でいつまでも経済を動かせるわけもないだろうに。』という主張単体での正しさにも個人的に疑問が残る。まあ、ついでなので述べておく。

 

 「収容や侵略や殺戮による収奪」によって繁栄した国家はいくらでもある。というより、少なくとも主要国では、そのような国しか残っていない。日本とて、「収容や侵略や殺戮」を繰り返す戦国時代を経て徳川幕府が成立し、国としてのまとまりを得た。であれば、「収容や侵略や殺戮による収奪」は、歴史を省みるなら、統治のうえで有用どころか、必要不可欠なプロセスではないか。それとも、ナチスドイツを含む枢軸国が行ったのは悪い収奪だが、連合国が行ったのは善い収奪だったという区分でもあるのだろうか。

 むろん、収奪をずっとやっていたわけではないが、「ずっとやるつもりはない」のは当たり前である。侵略して獲得した領土は「自分のもの」なのだから、自分に従う領民を住まわせて農業や商業を営んでもらう平和的体制に移行させるに決まっている。ヴァイキングじゃあるまいし、「(原始的)収奪でいつまでも経済を回そう」なんて発想はナチスドイツすら抱いていなかっただろう。

 

 更に、上で述べたことと矛盾するようだが、今の世界経済は収奪によって回ってはいないと自信を持って言えるだろうか。私には少々難しく感じる。

 例えば、現実問題として、世界の富の80%は、上位1%の富裕層によって占められている。これはあくまでも誠実な経済活動を行った結果、しかるべき人々が、しかるべき配当を受けているだけなのだろうか?

 

 「いつまでも」経済が回るかどうかは、人類の歴史が終わっていないので分からないにせよ、収奪でも結構長い時間(少なくとも数百年レベルでは)回せる気がしてならない。