ヤフー知恵袋の「素晴らしい回答」が全く素晴らしくないことを示す試み

 下記のツイートを見た。

  ヤフー知恵袋「弱いものは淘汰されても仕方ないのではないか」という主旨の質問がなされ、その回答が最高だというので読んでみた。もちろん本当に「最高」である可能性には期待していなかった。

 生物学が専門でなさそうな人が「淘汰」とか「適者生存」とか言い出したら怪しいサインである。まあ、そもそも「適者生存」自体、生物学者ではなく哲学者がいいだしたことだったりするのだが(ハーバート・スペンサー, 1864年)。

 

 まずは質問文を読んでいこう。例によって、私が特に問題と感じた部分は太字下線で強調する。

 

弱者を抹殺する。

不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。

自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

でも人間の社会では何故それが行
われないのでしょうか?

文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。

優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。

今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。

 

 質問者は、「弱肉強食」は「人間の社会では行われていない」という認識のようだ。しかし、その認識は正しいだろうか。いまだ世界中で紛争やテロは起きているし、また世界の富の82%はたった1%の富裕層に集中している(また別の表現として、世界のトップ26人の超富裕層の総資産額が、世界人口の半分が持つ総資産額と同じになっている)。

 このような格差社会=経済的搾取の仕組みがある中で、弱肉強食がまるで行われていないというのは、単に現実認識として間違っているのではないだろうか。確かに、富裕層は弱者を直接殴って殺すわけではなく、また殺した後で人肉を食べるわけでもないが、経済的搾取によって人を貧困に追い込み、自分は豊かな生活をするというのは間接的な殺人だ。実際、貧困層は病気にかかる率が高く、病気になっても適切な治療が受けられない。毎日の食事もやっとだから、栄養バランスに気をつけた食事など望めない。ゆえに寿命が短い。また俗に「人生詰んだ」と言われる状態になりやすいから、自殺率も高い。このような「追い詰められた」人々が生み出す富を寡占することによって、先進諸国の豊かな生活は成立している。

 

※ご指摘を受けて追記※

 

 グローバルな絶対的貧困については改善傾向にあるため(後述)、上記の文章は正確ではなかった(書いている最中はおおむね日本社会が念頭にあったが、「世界の富は……」と記載した通り、世界的視野の話をしており、それを踏まえると内容が適切でない)。

 「なかったこと」にして削除、変更するかとも考えたが、訂正文をこのように追記していれば本記事がアジテーションの源泉となる恐れはないと思われるため、間違えた証拠として残しておく。

 

※追記部分終わり※

 

 日本内部に限定しても当然、経済的な弱肉強食は作用している。我々がスーパーやコンビニ、100円ショップを利用する時、そこで働いているのはたいてい最低賃金の労働者だ。彼らが時給1,000円程度でいつまでも貧乏な生活を送ってくれているおかげで、どんな金持ちでも安く買い物ができる。あなたの年収が2,000万円であろうと、スーパーの10個パックの卵は100~200円で買える。経済的強者は、ますます安上がりになっている人件費でますます相対的に強くなり、経済的弱者は更に追い詰められる。

 

 ちゃんとデータも見てみよう。『データで見る社会の課題』から引用した。

 

 日本で年収200万円以下で暮らす人の割合は、2000年には18%程度であったのに対し、2014年では24%近くにまで増えている。

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 また、非正規雇用で不安定な生活をする人の比率も増加する一方となっている。

 

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 他にもジニ係数(格差の指標)や自殺率の推移、生活保護世帯の増加など色々なデータが出せるが、総合すると「人間社会はふつうに弱肉強食で動いている」と評して差し支えないように思われる。

 

 また質問者は『今日の社会では弱者を税金だの何だので、生かしています』と言う。私の答えは「いや、殺している」だ。

 税金に話を限定しても、例えば消費増税貧困層ほど相対的負担が重い。直接的には生活が苦しくなり、また中長期的には消費活動が制約された結果として、さまざまな小企業が倒産する。社長・店主や、そこで雇用されていた人たちの一部が自殺する。

 肝心の回収した税金も、法人税の減額でほぼ相殺されている。つまり貧困層から税金を取り、富裕層の税負担を軽くしている。

 

消費税収282兆円 法人税減税で消えた

 

 質問者が言うところの「弱肉強食」という「理に適った世界」は、確かに実現されているので、安心してほしい。

 

※ご指摘を受けて追記②※

 

 以上は日本に限定した話であったが、ツイートで浅井ラボ氏より次のご指摘を受けた。

 

 

 

 世界的視野においては、絶対的貧困は改善されつつあり、弱者救済措置にも力が入れられているとのこと。 このあたりに関しては私の知見が薄く(あるいは古く)、不徹底な記述だった。

 

※追記部分終わり※

 

 では、次に「最高」とツイートで言われていた回答の方を見ていく。こちらは何やら生物学的な回答っぽいが、実は生物学とは程遠い。ひとつひとつ説明しよう。

 

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります

 

 「適者生存」は「個体が生き延びるという意味ではなく、遺伝子が次世代に受け継がれるという意味だ」と回答者は解説しているが、そもそも「遺伝子が次世代に受け継がれた」と言うためには、次世代の個体が誕生し、かつその個体が次の個体を産むまで生き延びなければならないので、この2つを別々に論じることは不可能である。

 例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は更に次の世代の子を産むことに成功し、その後も数千万年にわたって繁栄したが、「1年しか生き延びなかった親が生んだ10匹の子」の方は次世代を産む前にあえなく全滅し、結果それが最後の一撃で種としても絶滅してしまったとしたら、「適者として生存した」のは明らかに前者だ。

 多産であるのが有効とは限らないというだけの話だが、妙なのは、この文章の前で、回答者もそれを認識しているかに思える点である。

 

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります

多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、

あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

 

 「1匹の子と10匹の子」の話からすると、「多産のほうが少産よりも生存戦略として適している」と読んでしまう。この回答文はずっとこうなのだが、基本的に話に一貫性がない。

 

 「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する

個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します

 

 この部分も二重三重に間違っている。まず、「長期の生存が不可能な個体」を「質問主さんがおっしゃる"弱者"です」と決めつけているが、質問文には弱者の定義は書かれていない。また、前提にしている「弱者も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化できる」という話に根拠がない。ここでいう「子孫の繁栄」は、すぐに『どれだけの個体が生き延びられるか』と述べている通り、単純に個体数を指すものと考えられる。ではなぜ、貧困国よりは先進国のほうが、先進国でも昔よりは現在のほうが、「高度に機能的な社会」であるにも関わらず、少子化問題が深刻化しているのだろうか。あるいは、貧困国で人口爆発が懸念されているのだろうか。

 

 そして、回答者は『どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します』と言うが、比例とはy=axで表すことのできる定量的な関係である。『社会の持つ力』とやらは、一体何で表現されるのだろう。仮に社会福祉の充実度あたりをどうにかして数値に落とし込み、それを「社会力」と呼ぶとしても、本当に「個体数=A×社会力」で表せるか。また、「社会力=個体数/A」になるか。中国やインドの個体数(人口)が多いのは、中国やインドの社会力が高いからか(弱者救済措置からは程遠い国々に思えるが)。

 

人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう
生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません

 

 回答者は自分で(生存戦略として)『多産なもの少産なもの』もいると書いていたはずである。この『生物が子孫を増やすのは本源的なものであり……「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません』とは合わない。少産を選ぶ合理的理由がまったくないはずだからだ。

 

遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

 

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

 

 なぜ、「有利」だけを考えているのだろうか。「不利」も考えなくてはならない。ある遺伝子によって発現される形質が『どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能」であるならば、同様に不利に働くかも計算不可能である。であれば、「できる限り多くのパターン」を抱えておくことのメリットとリスクの比較ができない。なぜ、「できる限り多くのパターン」があったほうが生存に有利だと分かるのだろうか。「計算不可能」であるならば、「有利とは分かる」こともない。

 そもそも「不利なパターンを抱えたせいで絶滅する」という現象が起きないとでも思っているのだろうか。例えば羽が美しいことから人間に乱獲された朱鷺は、美しくなければ生き延びられたであろうことを考えると、不利な形質を発現させたせいで絶滅したとも言える。

 

 回答者はパターンを多くすること(多様性をもつこと)を「保険」になぞらえているが、その「保険」は無料ではないし、ノーリスクでもない。ゆえに、生物界はやたらめったら多様性を確保するという選択はしていない(無料かつノーリスクな保険なら加入しまくればいいはずだ)。親と子は「だいたい似ていて、少し違う」くらいのバランスである。私が子をもうけた場合、その子にはおそらく羽は生えていないだろうし、エラ呼吸もできないだろう。全身を犬めいた毛皮で覆われているということもあるまい。ただ私とそっくり同じでもない。これはだいたいは似ていなければ親と同じ生物学的環境に適応できないからだし、全く同じであっても(長期的には)環境の変化に耐えられないからである。個体数にしても多様性にしても同じだが、これらはただひたすら高めれば良いような単純なパラメータではないのだ。

 

 「今の環境で生き延びること」と「将来の環境に備えること」はしばしばトレードオフの関係になる。「今の環境」に最適化しすぎると、その環境が続く限りは強いが、変化が起きたときに弱くなる。一方、「将来の環境」に備えようと多様性を高めすぎると、それは役立たない形質を発現させた個体が多いということにほかならず、今の環境での競争力が弱くなる。つまり「将来」が来る前に絶滅するリスクを抱える。だから、極端なことはやらないのである。

 

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです

「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです

 

 結局「社会科学」らしい。まあ、少なくとも生物学ではないのはこれまで述べてきた通りに確かである。

 そして、その「社会科学」の見解はといえば――って、これ質問文と何の関係があるのだろうか? 「闘争と協働のどちらが人間社会にとって本質的か?」という問いはなかったように思われるが……。

 

 それはさておき、この答えとやらを単独で読んでも意味が分からない。闘争・協働はどうも人間同士の話のようであるが、「闘争」を戦争・紛争・テロといった直接的な攻撃行動に限るとしても、「協働」とどちらが最後になるかは人類の歴史が終わってみるまで分からない。例えば人口が増えすぎ、利用可能な資源が枯渇に近づいていけば、最後は「闘争」しないと生き延びられないとも言える。そこからまた「協働」になるのかもしれないが、しかし当然また「闘争」も起きるだろう。最後とはどこでどうやって区切った場合の話だろうか。