引用がないという致命的欠陥~「フェミニズム叩きの問題」論について~

  次の記事を読んだ。

 

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 現代ビジネスのネット記事に高い品質など元来求めるべくもないが、相変わらず批判的意見を述べる際の最低限の規則が守られていない。ここで言う最低限の規則とは、「批判対象の言説は正確に引用すること」(少なくとも出典を明らかにすること)である。

 

 筆者であるベンジャミン・クリッツァー氏は、上記の記事中で「仮想敵」を叩くことの非妥当性を問題視する。彼によれば、弱者男性論者たちは、「女性」や「フェミニスト」といった属性を「仮想敵」として叩くことで、日頃の憂さ晴らしをしているという。そして、そうした言説には妥当性がなく、かえって弱者男性自身を追い詰める始末になっていると分析してみせる。

 

 しかし同時に、クリッツァー氏のこの記事自体も、「弱者男性論者たち」を「仮想敵」として叩いてしまっている。

 記事では「弱者男性論者たちは……」という表現が繰り返し出てくる。しかし、弱者男性論者の個別具体的な主張は全く引用されていない。ただクリッツァー氏による「弱者男性論者たちの主張の要約(概括)」が一方的に提示されるだけだ。

 

 要約は、結局のところ「もとの文章」とは異なる。要約する場合、要約者による歪み・ずれが必ず生じる。それはまさに「仮想敵」問題を引き起こしてしまう。加えてクリッツァー氏は出典も書いていないから、「正しく要約されているのか?」と確かめることもできない。

 例えば、次の3つの文章は、すべてクリッツァー氏による要約である。「もとの文章」はどこにあるのか、誰が言ったのか、全く不明である(強調は引用者=私による)。

 

弱者男性論者たちは「リベラル」以上にフェミニズムに対して批判的な立場をとる。彼らは、女性の「幸福度」は男性よりも高いという調査結果があることや大半の女性は男性に比べて異性のパートナーに不足していないことなどを指摘しながら、女性のつらさは男性のそれに比べて大したものではない、と主張する。そして、女性に有利になるような制度改革やアファーマティブ・アクションなどの必要性を論じるフェミニズムの主張を批判するのだ。

 

弱者男性論者がよく取り上げるトピックに「女性の上昇婚志向」がある。統計的にみて、女性は自分よりも年収が高い男性を結婚相手に選びたがり、いくら自分の年収が高くても自分より年収が低い男性とは結婚したがらない傾向がある。弱者男性論はこの点を強調したうえで、年収が低い男性は経済的に不利であるだけでなく異性のパートナーも得られないことで二重につらさを感じている、と指摘する。

そして、年収が低い男性が感じるつらさの原因を女性の上昇婚志向に求めて、女性たちは年収の低い男性とも結婚するように選択を改めるべきだ、と論じるのである。

 

弱者男性論の多くは、男性のつらさの原因は「女性」にあるとして、女性たちの問題や責任を述べ立てることで女性に対する憎しみや敵意を煽ることに終始しているからだ。

 

 内容を検討する以前の問題である。読者は、クリッツァー氏による要約の正しさに確信が持てない。というより、おそらく正しくないであろうと思わされる。実際、「批判・否定しやすい主張だけ恣意的に取り出しているのではないか?(≒仮想敵を叩く藁人形論法/チェリーピッキングに陥っているのではないか?)」と指摘された場合、クリッツァー氏には返せる言葉がない。

 

 そもそも、「男性論者たちは……と主張する(と指摘する、と論じる)」という構文で書くなら、「……」の部分に入れていいのは、もとの文章(原文)だけである。自己都合によって歪む勝手な要約を入れてはならない。記事では、クリッツァー氏による要約が入ってしまっている。不正行為だと評されても文句は言えない。

 またクリッツァー氏は、「女性」や「フェミニスト」という「属性」(集団)を叩くのを、仮想敵に対する不当な攻撃だとしている。それはそうかもしれない。しかし、そうであれば、「弱者男性論者たち」という「属性」(集団)を叩くのも不当な攻撃だろう。「弱者男性論者たち」もまた、ある特定の思想を(いくらかの異同を含みながら)共有する集団に他ならない。結局、クリッツァー氏は自分で主張したルールさえ守れていない。弱者男性論者たちを『叩いて溜飲を下げて』も、『幸せにはなれない』のではないかと心配である。

 

 教育学者の宇佐美寛氏は、「要約」について次のように述べている(例によって強調者引用者である私による)。

 

 要約(概括)は、要約者がどんな観点で要約するかによって、いろいろに異なってくる。もちろん読者の頭にある要約とも異なる。

 文章を書くのは、読者に読ませ何ごとかをわからせるために書くのである。そのためには、読者と同じ素材を共有しよう。同じ素材を使って、どう思考が進むのか読者に見える文章を書こう。読者といっしょに思考を進めつつある文章を書くのである。

 他の文章を読んだ上でその内容について書く文章をここでは論じているのである。素材を読者と共有してそのような文章を書くためには、要約に頼ってはならない。筆者の頭の具合いで歪みが生ずる。また、前述のように、筆者によって多様な要約があり得る。

 では考え、書くための素材をどう共有するか。引用によってである。要約するのではなく、そのまま引用するのである。

(宇佐美寛編著『作文の論理:[わかる文章]の仕組み』東信堂(1998), p.32)

 

 また続けて、次のようにも書いている。

 

 全て、主張には証拠が要る。文章で何かを主張する場合、主張の証拠をその文章に書きこまねばならない。前述のように、事例も強力な証拠になる。また、他の文章の内容について主張するためには、その文章からの引用が不可欠である。

 他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。証拠も出さずに何かを主張しているわけである。

 また、読者にも〈どんな素材で論じているのか〉、〈どんな証拠で論じているのか〉を示さねばならない。引用が要る。

 要するに、引用によって、筆者と読者、そして対象である文章の筆者は、同じ素材を共有し、平等の関係になるのである。

(同書, p.33)

 

 全くその通りである。引用は必須である。宇佐美寛氏はまた「引用無きところに印象はびこる」(波多野里望編著『なぜ言語技術教育が必要か』明治図書(1992), p.151)とも述べているが、これも覚えておきたい。まさに引用がないことによって、粗雑な印象論に陥ったのがクリッツァー氏の記事であった。