ヤフー知恵袋の生物ネタの記事についたコメント(長文)への返答

 以前に公開した私のこちらの記事について、長文のコメントが寄せられていることに気づいた。日付を見ると、12日前。無視しているようになってしまい、大変申し訳なかったと思う。

 

teshima-kairei.hatenablog.com

 コメントをくださったのはheaven氏である。パラグラフごとに引用し、私からの補足説明または再反論、あるいは「その点についてはそちらが正しい」等と述べていく。

 

いくつか指摘をします。
”「遺伝子が次世代に受け継がれた」と言うためには、次世代の個体が誕生し、かつその個体が次の個体を産むまで生き延びなければならない”
いきなりよくわからないのですが、”遺伝子が次世代に受け継がれた”というためには次世代が生まれればいいだけで、なぜ次々世代の発生まで前々世代が生き延びる必要があるのでしょうか。

 

  確かに「遺伝子が次世代に受け継がれた」という状態を成立させる要件は、次世代が生まれただけで満たされる。これは次に書いたこと(適者生存度の高低を、出産時の個体数だけで判断することはできない)に意識があって、この時点での論理的正確さを欠いてしまった。申し訳ない。

 

”例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は(中略)「適者として生存した」のは明らかに前者だ。”
これは「同種族が同環境で同じように生き残った場合」の話だと思うので、10年1匹の個体が数千万年にわたって繁栄できる環境なら、1年10匹の個体はその次世代も1年で子を10匹産むとして、10年1匹が1匹生むまでに2^10で1024匹、個体数で言えば1000倍以上繁栄します。その逆も然りです。

これはこの後も頻発することなので恐らく悪癖なのだと思いますが、「仮に」や「例えば」と前置きをしながら持論に都合のいい論理展開だけをする(その「例え」の妥当性を無視する)のであれば、その結論も都合の良い何でも有りになり、反論足り得ないと思います。

 

 私が『「仮に」や「例えば」と前置きをしながら持論に都合のいい論理展開だけをする』というのは誤りである。説明しよう。

 問題にされている私の文章は次の部分であろう。

 

 例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は更に次の世代の子を産むことに成功し、その後も数千万年にわたって繁栄したが、「1年しか生き延びなかった親が生んだ10匹の子」の方は次世代を産む前にあえなく全滅し、結果それが最後の一撃で種としても絶滅してしまったとしたら、「適者として生存した」のは明らかに前者だ。

 多産であるのが有効とは限らないというだけの話だが、妙なのは、この文章の前で、回答者もそれを認識しているかに思える点である。

 

 ここで私が説明しているのは、『多産であるのが有効とは限らない』ことである。注意していただきたいのだが、私が使った「10匹は全滅して、1匹は次世代を産み、その後も繁栄できたケース」は、あくまでも『多産であるのが有効とは限らないこと』を示すための一例である。当然、「多産であるのが結果的に有効に働いたケース」もあるだろう。

 

 ただ、前述のような現実的に想定可能な反例があがる以上、「10匹生んだ個体の方が、1匹しか生まなかった個体よりも適者生存したと言える」という言説は間違いか、少なくともひどく大雑把で不正確である。これは私の「ご都合主義的な」思考実験だけに基づいて言っているのではなく、実際に「1匹しか生まなかった個体の方が長く繁栄する」ケースも生物史を眺めれば普通に確認できるだろう。そうでなかったら、生物は皆もっと多産方向に進化するはずだ。だが、現実はそうなっていない。

 

 よって「適者生存度」を1世代の出産個体数だけで決めるのは不合理であり、非科学的である。それを説明するために「反例」(だけ)の存在を指摘するのも、『持論に都合のいい論理展開だけ』をする、『悪癖』とは考えない。むしろ、まっとうな議論である。一般論の主張に反論するには、反例が1つ以上あれば十分である。もっとも、生物が対象の場合は、反例はもっとずっと莫大な数になるものと思われる。

 

”そして、回答者は『どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、(中略)中国やインドの社会力が高いからか(弱者救済措置からは程遠い国々に思えるが)。”
ここでもそうですが、仮にと言って社会福祉の充実度をどうにか数値に落とし込んだのは貴方の都合です。仮定で都合のいい反証をする前に、インドや中国が弱者救済措置(福祉制度)から程遠いのに社会力が高いとするのは疑問、とするのは独り相撲です。では社会力とは福祉制度以外の別の何かではないかと、自身の分析や仮定を見直すべき場面だと思います。

 

 そもそもヤフー回答者がいう『社会がもつ力』とやらが謎である。本来は「障害者などの弱者を生かすこと」が大事だというヤフー回答者が、その主張の基盤となる『社会がもつ力』が何たるかを説明しなくてはならない。

 

これは多分もう一つの悪癖で、文や言葉の意味がわからないので多分これのことだろうと解釈した、するとおかしな結論になるので元の文章の言ってることはおかしい、という論理展開が頻発します。こう書かれれば分かるかと思いますが、疑うべきは解釈のほうです。

 

 この点、悪癖というのはそうかもしれない。ただ、コメント主が考える「悪癖」とは異なる。「私なりに精一杯好意的に解釈して、もしかしてAという意味ですか? でも、Aだとしてもおかしいと思うのですが……」と丁寧かつ下手に出たのが間違いだった。

 そうではなく、むしろもっと簡単に、「『社会がもつ力』などという漠然としたパラメータを未定義で提示されても、それが本当に個体数の多い・少ないに比例しているのか第三者は確かめることもできない。つまり、他者がその妥当性を検証できるような、いわゆる『まともな』考察になっていない」と切り捨てるべきであった。

 この悪癖には、以後注意したいと思う。

 

”回答者は自分で(生存戦略として)『多産なもの少産なもの』もいると書いていたはずである。(中略)少産を選ぶ合理的理由がまったくないはずだからだ。”
それは恐らく少産を選ぶ理由があるのではなく、「多産を選べない合理的理由」があるからです。ちなみに「適者であること」を優先したが故に多産をできなくなった顕著な例はホモサピエンスです。要因は複数あるとされていますが、子を成すのに生物学的に十数年、生態的には二十数年を要する動物種は寡聞にして知りません。

 

 「多産を選べない合理的理由があるから」と「少産を選ぶ合理的理由があるから」は実質的意味が全く同じである(また後述するが、これについてはr戦略とK戦略への不理解または無知が残念ながら作用してしまったものと思われる)。

 また、「適者であることを優先したが故に多産ができなくなったホモサピエンス」も、「適者であること=(出産)個体数が多いこと」としていたヤフー回答者の考えと異なる。「出産個体数を多くすること(適者であること)を優先したがゆえに、多産ができなくなった」と読むしかないが、明らかに妥当な主張として成立しない。優先できていないからだ。つまり、この「適者」判定を出産個体数に基づいて定めるという方法の妥当性に関しては、ヤフー回答者とコメント主の考えは異なると理解していいか。

 

なぜ、「有利」だけを考えているのだろうか。(中略)不利な形質を発現させたせいで絶滅したとも言える。”
有利不利は結果論です。羽が美しいことで絶滅に瀕するなら、その中で羽が美しくなかった個体が生き延びることになる。それを生き延びられる者こそその環境で「有利な性質を持った適者」であり、羽が美しい種の中で羽が美しくない個体の発生頻度や総数を増やすには、早熟多産は効率的です。

 

 有利不利は結果論であることに私も同意する。「やってみなければ分からない」と思う。地球環境の今後の変化まで予測しきらなければ有利不利の判定など出せない。よって私もヤフー回答者のように「計算不可能」と思う。何が有利に働くか、何が不利に働くかは分からない。したがって私は「早熟多産という形式もまた、有利か不利か(効率的か非効率的か)、最終的には結果でしか分からない」と答える。どうして「早熟多産が効率的」なのがあなたには分かるのか。

 早熟多産な種は概して個体としては死にやすい。一方で、晩成少産の種は、個体としては相対的に死ににくいが、1匹死んだ時の損害が大きい。

 このことは、生物学において、r戦略とK戦略と呼ばれる個体数に関する理論で説明される。

 

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r-K戦略説

 heaven氏への回答は以上である。

 

 もうひとつ、てぬ氏から以下のコメントを頂戴したの紹介する。

 こちらのコメントには私も大筋で同意している。

 

ブログ主さんは人間社会の実際と照らし合わせた議論をしていますが、私はそもそも元の知恵袋の回答は生物学的に間違っていると思います。回答者さんの言っているような群淘汰の話は基本的に現代の生物学では否定されており、個体が集団のために行動することはありえません。個体は自分の子孫を残すことだけを考えて行動しています。社会性の昆虫や霊長類は一見他個体のために行動していますが、それらは血縁淘汰や互恵的利他行動などで説明がなされており、結局は自らと同じ遺伝子を残すことが目的です。

 

  異論・反論というわけではないが、生物学を厳密に扱うなら、「目的」という概念の導入には慎重になる必要がある(一般向け説明として「わかりやすい」ので、活用することを否定する意味はない)。「生物学への目的論の導入」は、次に出てくる「自然主義的誤謬」の亜種、「人間中心主義的誤謬」という側面が作用していることが否めない面もある。

 特に分子生物学に目を向ければ、そこで描き出されているのは物理的・化学的反応の絶え間ない連鎖であり、「Aを目的としてBをしている」は、人間の素朴な思考ないしは常識感覚による「解釈」だと考えられる。

 とはいえ、こうした目的論の活用は生物科学で広く認められているところではあり、そう細かく詰めていってもあまり実りは期待できないから、というのも現実論と捉えている。

 

 なお、『人間社会の実際と照らし合わせた議論をし』たことについては、私も妥当性を欠いたものと考えます。失礼しました。

 

また、以上のような生物学的な論理の間違いに加え、そもそも生物学の話を人間社会に安易に当てはめようとすることは、自然主義的誤謬と呼ばれており(元の意味とは少し違うらしいですが)、非常にナンセンスです。生物学でそうであるからといって、人間社会がそうであるべきという論理はおかしく、両者は切り離して考える必要があります。もちろん一切参考にするなという訳ではありません。生物学は上手に扱うことができれば、人間社会にとって有益なものとなります。

以上のような理由で私は元の回答を全く評価しませんが、多くの人が元の回答を絶賛しているところを見ると、大衆の科学リテラシーの低さや、いかに現代において科学が宗教化しているのかが分かり、私は少し怖いです。

 

 『生物学の話を人間社会に安易に当てはめようとする』ことには私も反対する。例えば、一部の動物は「子殺し」(間引き)を行う。明らかにこれは人間社会に適用するわけにはいかない。良くも悪くも、私もやはり切り離して考えるべきという認識である。

 

 大衆の科学リテラシーの低さは、「ありがとうと唱えれば水がきれいになる」などでもたいへんな絶望を味わいました。少しでもよくなっていけばいいのですが。