【批判】トゥーンベリ・ゴン氏の『社会活動家に求められる資質』に寄せて

 トゥーンベリ・ゴン氏が次のnote記事を公開した。私は普段の氏の論には賛成するところが多いのだけれど、今回の記事については欠陥や粗が目立つと思ったので、批判しつつ紹介する。

 

note.com

 「社会活動家」という一般名詞で書かれているが、『フェミニズム問題は儲からない』や『社会活動家の中には「わきまえない」と名前の前につけて』とあるように、想定されているのは、いわゆるツイフェミのようである。

 記事は次の文章から始まる。

 

 まずは社会活動家の皆さん、いつも市民の代わりに声をあげて頂きありがとうございます。あなた達の立派な正義感によって救われた人は沢山いると思います。この場を借りて感謝の気持ちを示したいと思います。

さて、そもそも社会活動家とは一体なんなのでしょうか?どういう権限を持って勝手に市民の声を代弁しているのか、まずは単語の意味を調べてみます。

『社会活動家に求められる資質』(トゥーンベリ・ゴン, 2021/04/27確認)

 

 そう言って、Wikipediaの『社会活動』の項を引いてみせる。Wikipedia曰く、『社会活動(しゃかいかつどう)とは、人間によって行われる活動の中でも、社会に参加して社会のために貢献をするようなもののことを言う。』――だそうである。

 

 この時点で、私は既に4つはツッコミを入れたい。

 

  1. 『市民の代わりに声をあげて』『代弁』等とあるが、外国籍の人間であるなど特殊な事例を除き、たいてい本人も市民の一人には違いないのだから、「代弁」は違うのではないか。
  2. どのような政治的意見も、それを肯定する人数はn≧2ではあるだろうし、加えてマイノリティの主張も民主主義社会において重視されることを考えると、声をあげること自体に『勝手に』などとネガティブな形容を付けるのは不適切な印象誘導ではないか。
  3. なぜ、Wikipeidaなのか。もう少しましな出典はなかったのか。
  4. 意味を調べる語は本当に「社会活動」で適切か。記事の続きの内容からすると、「社会運動」または「政治活動」で辞書を引くべきではないか。

 

 おそらく3と4は問題の根本が同じである。実は「社会活動」はいわゆる普通の国語辞典に立項されていない。少なくとも私が確認した限り、デジタル大辞泉と新明解と岩国にはない。一方で、「社会運動」と「政治活動」はどの辞書にもある。

 

 デジタル大辞泉
・社会運動:社会問題の解決や、社会制度そのものの改良・変革を目的として行われる運動。
・政治活動:個人または集団が政治に関して行うさまざまな活動。

新明解(7版)
・社会運動:①社会問題に関する運動。②社会主義的社会を実現しようとして行なう運動。
・政治(活動):住みやすい社会を作るために、統治権を持つ(委託された)者が立法・司法・行政の諸機関を通じて国民生活の向上を図る施策を行なったり、治安維持のための対策をとったりすること。

岩国(8版)
・社会運動:社会問題に関する運動。経済組織、社会・法律制度などの欠点を改めようとする運動。
・政治(活動):国を治める活動。権力を使って集団を動かしたり、権力を得たり、保ったりすることに関係ある、現象。

 

 日本語として定着しており、ツイフェミなどの活動の実態とも適合する「社会運動」か「政治活動」の方が良かったように思われる。例えば石川優美氏による#KuTooは、一応、『社会問題の解決や、社会制度そのものの改良・変革を目的として行われる運動』または『個人または集団が政治に関して行うさまざまな活動』には含まれるだろう。内容への賛否さておき、社会のあり方に対する変革を求めた活動ではあるので、社会運動または政治活動には該当する。別に内容の是非、善悪や妥当性、合理性までは問われないからだ。ちなみに私は石川氏の活動に1ミリも賛同してない。

 

 さらにトゥーンベリ・ゴン氏は、『社会貢献』をWikipediaで、『独善的』をデジタル大辞泉(=goo辞書)でそれぞれ別個に引く。なぜ最初からすべてデジタル大辞泉で引かないのか疑問に思うが、ともかく次のような論理を展開する。

 

 これを最初の社会活動の定義に当てはめてみると、

社会活動とは、人間によって行われる活動の中でも、社会に参加して社会のために貢献をするようなもののことを言う。

社会活動とは、人間によって行われる活動の中でも、他人のことはかまわず、自分だけが正しいと考えるさま。ひとりよがりであるさま。

とも言い換えることができます。掘り下げてみると、自称社会活動家達はちゃんと社会活動家だったみたいです。

 

 さて。ロジハラをして申し訳ないが、矢印の前後が論理的に同値ではないので言い換えは成立していない。論理式φ, ψが論理的に同値である (あるいは単に,同値である,ともいう)とは, φ, ψに含まれる命題変数のあらゆる真理値割り当て M に対して M[φ] = M[ψ] となることをいう.』(京都大学 数理論理学入門より)とされる。トゥーンベリ・ゴン氏の話でいくと、たとえば命題変数に「河川敷でのゴミ拾い」を代入した場合、前者の文言(社会のために貢献するようなもののことを言う)では真になるが、後者の文言(他人のことはかまわず、自分だけが正しいと考えるさま)では偽としか言えない。少なくとも常識的な感覚だとそうだろう。かくして真理値割り当てが一致しない以上、繰り返しになるが、論理的に同値ではなく、言い換えられない。

 

 続きにいこう(※「社会活動」という語の不自然さに関しては以降はつっこまない)。

 

1.社会活動家は金銭的にも時間的にも余裕のある成功者がするべきである

 いきなりハードルが高くてごめんなさい。とりあえず現在フリーター(大して稼げない)をしている社会活動家さん達は即刻退場して下さい。

あえて叱咤激励をするために厳しいことを言いますが、自分の身の回りのことも満足に出来ない人間に社会を変えることは不可能です。

加えて、家賃が払えなかったり、その日食べる物に困ってるような人間が「この世の中を変えたい」と泣き喚いたところで、結局お金欲しさにやってるようにしか見えません。発言に説得力がないんですよ。

もっと厳しいことを言えば、自立してない人間(大して稼げない人)が社会に対して何かを訴えたところで、それは「クレーム」「ワガママ」「ゴネ得狙い」にしか見えません。

 

 トゥーンベリ・ゴン氏は、『大して稼げない人』が社会活動しているのを見たとき、『「クレーム」「ワガママ」「ゴネ得狙い」にしか見えない』のかもしれないが、それが一般感覚・一般常識を代弁するものと言える論拠は挙げられていない。個人的には、生活困窮者が群れをなして「生活保護制度を充実させてくれ」とデモ行進をしていたら、変に穿った見方をしなければ、普通に「切実に苦しいのだな」と思う。その一方で、たいへん稼いでいるであろう経団連の幹部連中が、いつものように「法人税を下げろ!」などと叫びはじめたら、私は「死ね」と思う。……おっと、言葉が悪いか。「ワガママ」「ゴネ得狙い」だと思う。

 主張者の属性で説得力を判断するというのは、意見内容で是非を検討する当然あるべきステップを飛ばしていてよろしくない。例えば、アンチフェミニストの敵とみなされつつある社会学者たちは、みな大学に籍があったりして、とりあえず生活困窮者ではない(むしろ、自立してよく稼いでいる方だろう)。しかし、よくご承知の通り、彼らの意見に説得力があるかというと全く別問題だ。それと同様に、生活困窮者でも、何かやたらと調べて緻密なロジックを組む人はいる。つまり、「言うほど関係ないのでは?」と思う。というか、社会的弱者が声をあげる勇気を、わざわざ「ムダだぞ!」と言い聞かせることで妨害しようとしているように見える。あと、この「社会活動は金銭的にも時間敵にも余裕のある成功者がするべき」論は、KKO(キモくて金のないおっさん)も社会活動から退場いただくことになるが、色々と大丈夫だろうか。

 

 で、どうやら「大丈夫ではない」とトゥーンベリ・ゴン氏本人も気づいたらしい。訂正が入る。

 

2.社会活動家はマナーやルールを守り、礼儀を持って人と接する事が出来る常識ある人間がするべきである

 1.の成功者に関しては少しハードルが高かったかもしれません。即刻退場しろは言いすぎました。反省します。

金銭的・時間的余裕がなくても、心に余裕のある人間はいますし、主語でかく人を排除するのは良くなかったです。私もまだまだ人間として小さいですね。ごめんなさい。

心に余裕のない人間に、金銭的・時間的余裕がないケースが多かったとしても、金銭的・時間的余裕がない人間=心に余裕のない人間 とは断定できません。

むしろ、社会活動をする上での絶対に必要なもの、は今から説明する2.常識人の資質だと思います。

 

 それは良かった。しかし、『常識人の資質』というのも怪しげに感じる。警戒しつつ読みすすめることにしよう。

 

社会活動をしていくためには、まずは人間としての「型」、つまりマナーやルールや礼儀という基本的なものを学び、実践しないといけません。

それすら出来ない人間が、型を破って破天荒に「わきまえない」を実践しても、ただの異常者の危険人物である自己紹介にしかなりません。

そんな人間の掲げる社会活動になんて誰もついていきませんし、誰も金を払いません。

あなた達は「わきまえない」のではなく、ただの「恥知らず」なんです。

 

 これは実質的に個別の事案(「わきまえない」運動)に対する批判なのだから、何かしら引用するべきだと思うが、それはそれとして、『そんな人間の掲げる社会活動なんて誰もついていきませんし、誰も金を払いません。』事実関係として偽である。私自身、「わきまえない」の活動および意見内容を一切肯定的に評価していないが、「ついていく人がいること」「(活動家に)お金を払う人がいること」は事実なので否定できない。ロジハラをして申し訳ないが、「誰も……いない」と書いた以上、反例がN≧1あれば棄却されてしまう。

 まあ、さすがに「誰も」は修辞表現だとして多少割り引くとしても、実際そこそこいると思う。なにしろオウム真理教だって決して少なくない信者と資金が獲得できた世界である。オウム真理教よりは相対的に――あくまで相対的にだが――穏当かつ常識的なフェミニズムにそこまで人が集まらないとは思われない。

 トゥーンベリ・ゴン氏は、「そんな活動に人も金も集まってほしくない」という願望と、「オウム真理教並のクソみたいな活動であっても、人も金も集まる時は集まる」という現実が区別できていないように見える。後者はたしかに残念なことではあるが、現実から目を背けても仕方ないだろう。テロだって応援してる人は応援してる。それは決して善いことではないが、現実である。

 

3.社会活動家は個人の利益を追求しない人間がするべきである

 この話は1.の成功者と繋がる部分もありますが、個人の利益を前面に出してしまったら社会活動家としては終わりなんです。

社会貢献をするのであれば、手っ取り早く慈善事業に寄付をすれば済む話です。それを社会活動家という個人に対してお金を求めるのであれば「金クレ」だけは絶対にしてはダメなんです。

人間だから誰だってお金は欲しいです。お金はあって困るものではありませんし、あるに越したことはありません。私だってお金は欲しいです。

しかし社会のため、つまり公益を求めるのであれば、私益は対極にあるものであり、どっちも手にすることは現実的に難しいものなんです。

稼ぐことが悪いのか!?という不満はわかりますが、稼ぐことが悪いのではなく「社会のため」と言いながら「自分のため」が前面に出てしまっているのが問題なんです。要するに下手くそなんです。

まずは、お金が欲しいことは全力で隠さないとダメです。お金は後からついてくるものなんです。本当に人から感謝されて、その人を応援したいと思ってもらえれば自然に支援をしてもらえるものなんです。

 

 ある社会活動が、完全に私利私欲でしかないと露呈した場合、たしかに成功しないだろう。ただ、これは抽象的に扱うからそうなるのであって、個々の具体的事例について『「自分のため」が前面に出てしまって』いるかどうかは判断が分かれるだろう。例えば、フェミ松速報にはアフィリエイトリンクがベタベタと貼ってあるが、これは「前面に出ている」状態なのか、そうでもないのか(念の為にいうと、私は別に儲けていて良いと思う)。また、本を出版したり、AbemaTVに出演したり、有料の(参加料を徴収する)トークイベントや勉強会を開催したり、YouTube動画を収益化したりすることはどうだろうか。「社会活動だというのなら、あまり利益を堂々とは言うべきではないね」程度の話であれば、さして異論もないが。

 次にいこう。

 

断言しますが、社会は社会活動家を必要としていません。もちろん声を上げることは大切ですし、実際にネットの小さな声から一大ムーブメントとなり、社会のルールが変わった例もあります。

しかし、それが社会活動家によるものなのかどうかは、やはり根拠が乏しいです。

大企業側が「社会活動家の〇〇さんの影響により、会社の規定を変更します。」と公式に声明文を出した事例はありません。

結局のところ、社会活動家は何か変化があった時に後付けで「これは私のおかげ」と言い張ることしか出来ていないんです。

もはや雨乞いや神頼みと同じレベルなんです。後付けでこじつけて、それを実績にして越に浸っても無意味です。都市伝説はやめましょう。

 

 なぜ、トゥーンベリ・ゴン氏は「社会」を代弁できるのだろうか? トゥーンベリ・ゴン氏は「社会は……」と述べることができて、社会活動家は「社会は……」と述べてはいけないのだとしたら、その根拠は何だろう?

 また『大企業側が「社会活動家の○○さんの影響により、会社の規定を変更します。」と公式に声明文を出した事例はありません。』と、ここまでかなり一般論的・抽象論的に話を進めてきたにも関わらず、いきなり論理的にきつい条件(AかつBかつCかつDをすべて満たす)を設けているのはなぜか? 大企業で(つまり中小企業や公的機関ではダメで)、どの個人の影響か明示された上(○○団体のご指摘を受け……だとダメ)、しかも規定に関する変更を(掲示物の取り下げ等では「規定」まで変わってないのでダメ)、公式に声明文を(黙って変更したらダメ)出した例でなければ「反例」にならない書き方である。これは、ちょっとでも条件を緩めたら「実例がある」から都合が悪いのか? そんな勘ぐりもしてしまう。

 

  長くなってきた。最後の批判を加えたいのは、次の文である。

 

社会活動家として実績を残していきたいのであれば、もっと賛同者を増やして、政治や経済に切り込んでいかないとダメです。

少数のイエスマンで周りを固めて、気に食わない意見は全て「嫌がらせ」として晒しあげ、争いや分断を煽るような行為は、社会活動家としては完全に逆行しています。

地道なプロモーション、広報・営業活動をして、下げたくない頭も下げながら、敵を作らずに仲間を増やし、性別関係なく対話を繰り返して、コミュニケーションを密に取っていくしかないんです。

自分のカリスマ性だけで引っ張っていけると思ったら大間違いなんですよ。社会活動を舐めんなと言いたいです。

 

 その方法で上手くいくかいかないかは、人類の歴史が終わるまでわからない。歴史を通じて、数々の政治的・宗教的イデオロギーが支配的価値観の地位を担ってきたが、その変化のプロセスはといえば、『地道なプロモーション、広報・営業活動をして……コミュニケーションを密に取っていくしかない』と限定されるようなものでは断じてなかった。「社会活動」が社会を変革しようと試みる活動全般を指すならば、フランスで人権思想を確立するまでには多くの人をギロチン台に送り込まねばならなかったし、アメリカで奴隷制を廃止するには南北戦争が必要であったし、中国やロシアでは言うまでもなく共産主義による粛清があった。日本にしても戦国時代を経て徳川幕府によるパックス・トクガワーナが訪れ、明治維新で政権が取って代わられるまでのプロセスで数多くの「地道ではない」活動が行われた。

 とはいえ、歴史規模・世界規模にまで話を拡大させず、ここ半世紀くらいの状況から、この先10~20年程度の日本のみを見据えるなら、地道な活動のほうが良さそうだと私も思う。

 とはいえ、『政治や経済に切り込んで……』に「軍事」が入ってないの少し気になるか。ミャンマーで軍事クーデターがあったというか、いまも続いている。これは絶対に対話路線ではないが、そのあたりはいかがだろうか。’(「長期的には成功しないはず」という答えがあるかもしれないが、それは「長期的」の期間によるのと、どんな思想・主義もいずれは倒れてきたという歴史的事実を考えるとあまり慰めにならない)

 

 以上、ロジハラをし過ぎている気もしましたが、私もトゥーンベリ・ゴン氏を応援したいので、心を鬼にして書きました。ゆっくりしてくだされば幸いです。