【批判】ネット記事『弱者男性論は差別的か?』の粗雑さについて

少し前、杉田俊介氏の次の記事がTwitterで話題になった。

当該記事の内容は悪い意味での抽象論に終始しており、悪文・駄文が幾重にも積み重なっている。そして、間違いだらけである。

このように私が判断した理由を、具体的な記述を取り上げながら以下に論ずる。

 

bunshun.jp

さっそく大きな問題がある。タイトルである。

この記事のタイトルは、上記のとおり『ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?』である。疑問文だ。よって、読者は、「弱者男性論は差別的である。なぜなら……」または「弱者男性論は差別的ではない。なぜなら……」のどちらかの形式で、筆者なりの「答え」が示されるものと期待して読む(むろん、中間的に「弱者男性論のAという点は差別的だが、Bという点では差別的ではない。なぜなら……」もありうる)。

事実、私もそのように期待した。しかし、記事は次のように漠然とした話から始まり、いっこうに「答え」が示されない。

 

 大ざっぱにいえば、2010年代の反差別論が「ネトウヨ歴史修正主義者は差別者」というものだったとすれば、2020年前後の反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。ごく一部の極端な差別者のみならず、マジョリティであることそのものの日常的(everyday)な差別性が問題視されるようになってきた。

 その一つが「男性特権」であり、不公平で不平等な性差別的構造に対するマジョリティ男性たちの無自覚な加担の問題である。しかし、マジョリティとしての多数派男性の特権性の問題を自分事として引き受けることに、まだまだ戸惑いや違和感を覚える男性たちも多いように思われる。

 そうした状況の中で、あらためて、「弱者男性」論がネットを中心に注目されている。

 

タイトルで「弱者男性論は差別的かどうか?」というテーマが明確に設定された以上、まともな読者はそれを念頭において読む。上述の引用部は、タイトルの疑問にはまだ答えていない、いわゆる「まえおき」である。最後にはテーマと関連してくるのかもしれないが、現時点では不明である(なお、オチを先に言えば、最後まで関連してこない。筆者は「弱者男性論は差別的かどうか?」という問いに正面から答えていない)。

しかし、この3つのパラグラフまでの範囲でさえ、既に複数の欠点・欠陥がある。

たとえば、次の文章である。

 

 大ざっぱにいえば、2010年代の反差別論が「ネトウヨ歴史修正主義者は差別者」というものだったとすれば、2020年前後の反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。ごく一部の極端な差別者のみならず、マジョリティであることそのものの日常的(everyday)な差別性が問題視されるようになってきた。

 

初めの一文は、「A=aだったとすれば、B=bである」という文章である。だが、これは論理的に間違っている。

「A=aだったとすれば、A=b」なら真でもありうる。たとえば「Xが4で割り切れる整数だったとすれば、Xは2でも割り切れる」は成り立つ。しかし、「Xが4で割り切れる整数だったとすれば、Yは2でも割り切れる」は論理的な推論として成り立たない。Xが4で割り切れる整数であることと、Yがどのような数かは無関係である。よって、この文章は本来、「~だったとすれば、……」という型では書いてはならない。

 

――いきなり細かいと思うかもしれない。なんとなくの表現だろうから勘弁してやれと思うかもしれない。ただ、この筆者は全文がこの調子なのである。全文が「なんとなく」であり、「粗雑」なのである。

 

さらに、この文は、主語・述語のどちらにも問題がある。装飾語を省き、後半部の主語と述語だけ取り出すと、『反差別論は……進んできた』となる。

 

まず、主語の『反差別論』がきわめて抽象的である。この名称で指し示されるような「論のまとまり・体系」を考えるのは極めて難しい。不可能と言っても良い。

素直に解釈すれば「反差別論」とは「差別に反対する論の全体」である。しかし、そうであるなら、控えめに言っても、天賦人権説が提唱されるようになった明治時代初期(1870年代前半)から現在までのすべての「反差別論」を指すことになる。また、もっと控えめに、文章にある2010年以後の日本だけを考えるとしても、「反差別論」は明らかに一枚岩的ではない。むしろ相互に矛盾衝突もするような、多種多様な論が含まれている。

たとえば、「ネトウヨ歴史修正主義者」の代表格であろう【在日特権を許さない市民の会】(在特会)にしても、要は在日外国人が持つとされる「特権」をなくし、公平・平等にせよと主張しているのだから、外形的には反差別論である。

在特会は極端にしても、「反差別論」などとひとまとめに言われても、一体どこからどこまで含まれるのか不明である。しかも、それが「進んできた」などと言われても、困惑するばかりである。おそらく確定させる方法もないだろう。フェミニスト女性差別をやめろと言っている。障害者は障害者差別をやめろと言っている。オタクはオタク差別をやめろと言っている。これらがしばしば両立しない主張を含むのはもちろんのこと、同じ「女性差別をやめろ」でさえ、個別の主張には相当な違いがある。これらをひとまとめにして「反差別論」と呼ぶのは、ただ議論を曖昧にするだけで何の意義もない。

 

次に、述語の問題である。筆者は、『反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。』および『……差別性が問題視されるようになってきた。』という2つの文を書いている。

「段階が進んだ」「問題視されるようになった」ということは、段階が進む「前」の時点、問題視されるようになる「前」の時点では、反差別論は「マジョリティによる無自覚な差別」の問題を扱っていなかったか、または扱ってはいてもその規模が著しく小さかったことになる。それは正しいか? 全く正しく無い。

 

これまで日本では、男女差別、障害者差別、部落差別(同和問題)など多様な差別が社会問題として提起されてきた。その中で反差別論者たちは、常に『差別構造に無自覚に加担するマジョリティ』を問題視し、批判してきた。それが差別問題の是正を図る場合の必然的態度だからだ。

差別主義者たちは通常、「自分たちの言っていること・やっていることは差別だ(悪いことだ)」とは認めない(自覚していない)。たとえば、江戸幕府から慣例的に続いていた士農工商の身分制を、維新政府が「四民平等」を謳って廃止した当時、まだ大半の国民はその新しい思想に同調してはいなかっただろう。実態としては、当の維新政府でさえ、外国との対応のため、「やむをえず」公布しただけでもあった。少なくとも「自分たちは『差別』という悪いことをしている」という自認はなかったはずである。

差別との戦いは、まずあなたがたは差別をしているのだと伝える(自覚をもたせる)ことから始まる。また、マジョリティ(社会的強者)による差別のほうが、マイノリティ(社会的弱者)による差別よりも影響力が大きい――それこそ「致命的」に大きい――から、当然、優先して取り上げる。

したがって、『差別構造に無自覚に加担するマジョリティ』は、扱われてこなかったどころか、常に中心的課題として扱われてきたと考えるのが道理だろう。筆者の言うように、反差別論の『段階が進んで』、ようやく2020年になってから扱われるようになったのではない。

 

つぎに筆者は、弱者男性論の曖昧さを次のように指摘する(私はどうしても「自分の論の曖昧さを棚上げにして」と付けたくなるが)。

 

 とはいえ、そこで言われる「弱者」の基準は、今もまだはっきりしない。それは労働の非正規性や収入の話なのだろうか。「キモイ」と言われるような容姿の問題なのか。「コミュ障」とも自嘲されるコミュニケーション能力の問題なのか。あるいは実際に恋人や結婚相手などのパートナーがいるかどうか、という話なのか。「キモくて金のないおっさん(KKО)」と言われるように、それらの連立方程式のような話なのだろうか。

 

 「弱者」の基準がはっきりしていないことには同意する。しかし、様々な変数を含めて「弱者かどうか」を決定する基準を数学的に定めるなら、立式すべきは連立方程式ではなく、多変数関数である。細かいだろうが、これはどうしても指摘しておきたい。

たとえば、収入・容姿・コミュ力(モテ力)をそれぞれ変数x, y, zとしたとき、弱者男性度 F(x, y, z)は次のような多変数関数で表される。

 

F(x, y, z) = ax + by + cz (a, b, cは定数)

F(x, y, z) > 100のとき、弱者男性とする。(適当に基準を定める)

 

このとき、x, y, zには分かっている値を代入する(例えば収入がいくらかは給与明細を見れば良い)。求めたいのは最終的な弱者男性度  F(x, y, z)である。筆者がしたいのは本来こういう話だろう。

一方で、連立方程式は、F(x, y, z)の値が複数のケース(方程式)で分かっているが、しかし変数x, y, zが分からない時に、方程式の組み合わせによってx, y, zの値を求めるものである。つまり、弱者男性度は分かっているが、収入やコミュ力が不明である、という時に連立方程式を解くのである。

 

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むろん、これは本論と直接の関係があるわけではない「初歩的な間違い」ではあるが、この筆者が何もかもを雑に書いていることを示す一例ではあるので、取り上げた。実際、私はこの記事を初めて読んだとき、1ページ目でツッコミ所が多すぎ、この「連立方程式」という語句を見たときついにある種の限界を超えたため、一度ブラウザを閉じている。

 

次。これも問題がある。ちなみにこれは2ページ目なのだが、まだテーマである「弱者男性論は差別的か?」への直接的な回答は示されていない。ずっと周縁的な話をしている。

 

 これもしばしば指摘されるように、「弱者男性」と言っても、発達障害精神疾患の傾向のある人や、「軽度」の知的ハンディのある人や、虐待やイジメの被害者など、様々な問題が絡み合っているし、グレーゾーンの人もたくさんいるだろう。

 それに対して、「ちゃんとした理由があるからあなたはマイノリティ男性、それ以外は男性特権に居直った無自覚な男性たち」とわかりやすく線引きすることができるだろうか。たとえば障害者介護の経験から私が学んだのは、個人や実存のレベルで考えるかぎり、比較や優越はもとより、そもそも安易に他者を線引きするべきではない、ということだ。曖昧な領域にはっきりと線を引くこと自体が暴力であり、支配になりうるから。

 

『個人や実存のレベルで考えるかぎり、比較や優越はもとより、そもそも安易に他者を線引きするべきではない』とのことだが、本当にそうか。何事も「安易に」してはならないのは当然としても、通常、線引きはお互いのために必要である。

知的障害を抱えている人に何か説明する際には、普段よりもゆっくり話し、必要に応じて繰り返し説明する。こんなことも、ある種の線引きである。健常者と比較してその違いを考慮し、対応を変えている。また「おそらくこの人は、自分や障害のない他の人よりも、理解力が低いだろう」という点で『優越』(※「優劣」の誤記か?)も判断している。

加えて、我々は、親しい人・親しくない人、先輩・後輩、上司・部下、親・子供など関係性や立場によって線を引き、ふさわしい対応を考えて行動する。親しい間柄ではくだけた口調で楽しく話し、上司には敬語・丁寧語を使う。

むろん「白人専用バス」のような悪い線引きもある。しかし、それは線引き自体が必要であることを否定しない。

 

また、『曖昧な領域にはっきりと線を引くこと自体が暴力であり、支配になりうる』と述べているが、実際、上で述べたような個人間ではもちろんこと、社会福祉制度等を整備する場合、尚更に線は引かざるを得ない。また、「線を引かない」というのも暴力になりうる。

たとえば障害者学級制度は「障害者の児童とそうでない児童」の間に線を引くことで成立している。ここで線を引かず(筆者の言い方にならえば「暴力」を振るわず)、一緒くたにするのは本当に良いことなのか。個人レベルでも同様であるが、それが正義や道徳に適うのか。

グレーゾーン問題への対処は、線引きの精度や柔軟性、基準を見直すことによって行なうべきであり、線を引くのをやめることで行なうのではない。現にある障害児教育も生活困窮者への生活保護も、曖昧な領域を含みながらも、何らかの線を引くことで実現されている。では、これらはすべて暴力なので、筆者はやめるべきだと考えるのか。もしこの疑問への回答が「すべてではない」としたら、筆者は「やめるべき線引き」と「やめるべきでない線引き」はどのように区別・判別しているのか。言い換えれば、どのように線を引いているのか。おそらく筆者はこれに回答できないだろう。

 

そして、3ページ目でようやく本論への回答が(やや間接的だが)与えられる。

なお、この一連の文章の前には、小見出しとして『反差別的で脱暴力的な「弱者男性」はあり得るか?』と書かれている。つまり、「弱者男性論=差別的」だというのは、筆者の中では説明するまでもない前提だったらしい。そういうことは先に書け。

 

  他方で、こうも考える。ここには、どうしても、いったん、「弱者男性」とは異なる概念が必要なのではないだろうか。「弱者」という言葉が、すでに、アンチフェミニズムやアンチリベラルを強く含意してしまうからである。
 アンチフェミニズムやアンチリベラルへと向かう欲望を切断して(「あっちが批判してきたから言い返しているだけだ」という被害者意識を断ち切って)、「弱者男性」の問題を再定義できないだろうか。
 もちろん「弱者男性」たちが主にネット上で集団的な攻撃性を発揮してきた、という文脈や歴史はすでに消し去ることができないとしても、そうした攻撃性から身を引き剥がそうとする当事者性を帯びた「弱者男性」の概念が再構築されてもいいだろう。
 すなわち、ミソジニストやヘイターやインセルにならないような、反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、どういったものだろうか。日々のつらさや戸惑いや取り乱し、あるいは足元の問い直しとともにある「弱者男性」たち――これがたんなる抽象論だとは思わない。私のまわりの同年代の男性たちや、非常勤講師の授業でであった学生さんたちの中にも、そういうタイプの男性たちがたくさんいると感じるから。

 

『「弱者男性」の問題を再定義できないだろうか』

『反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、どういったものだろうか』

などとやたらと質問してくるが、それは筆者自身が考えて実装するべきである。私なら「不可能」と回答する。なぜなら「弱者男性」を定義するということは、「弱者男性とそうでない男性」に線引きすることに他ならず(これは「定義」の本質的意味そのものだ。たとえば「猫を定義する」とは、猫と猫以外の線引きを言語化することである)、そしてそれは筆者によれば「暴力」だからである。よって、「脱暴力的な弱者男性の再定義」は論理的に全く不可能である。自分で論理的に不可能な条件をつけておいて、他人にやらせようとするな。自分でやれ。

 

このあたりで私は「この記事は終わった」と判断した。

あとは流して軽いコメントを付していく。

 

「異性からの承認待ち」ではなく、「自分たちで自分たちを肯定する」という自己肯定の力がもっとあっていいのではないか。そのためには、SNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、ゲーム感覚で他者を叩くことから、自分たちの日常を解放する必要がある。

 

具体的に弱者男性論を引用し、その誤りを論理的・実証的に明らかにしたわけでもないのに、「こう改善せよ」と要求するのは無礼・失礼である。「ゲーム感覚で他者を叩いている」と決めつけているが、筆者がそう判断した(そして、読者も同じ判断に至れるような)根拠をこの記事で全く述べていない。無礼・失礼である。

あとaddict(中毒)はどうして英語なのか。謎だ。

 

 ここまで「弱者男性」という言葉を使ってきたが、この言葉はどうしても女性や性的マイノリティとのコンフリクトを前提としてしまう(そして女性に対する憎悪や嫌悪を増幅してしまう)から、異なる概念がいるのではないか、と述べてきた。それをここでは、「非正規的なマジョリティ男性」と呼んでおく。

 すなわち、正規の雇用、正規の家族像、正規の人生、あるいは正規とされる「男らしさ」、覇権的な男性性、等々から脱落し逸脱した多数派の男性たちのことだ。

 

「非正規的なマジョリティ男性」など、曖昧語を曖昧語で言い換えているだけで、何の定義にもなっていない。「私は『非正規的なマジョリティ男性』に該当するのか、そうではないのか?」と考えた時、この文章を読んでも判断がつかない。その意味で空虚であるし、明確に判断できたらできたで、今度は筆者が定めた「曖昧な領域への線引きをした」=「暴力的」というルールに引っかかる。どうしようもない。

 

 男がつらい。多数派の男性たちであっても、ひとまず、そう言っていい。声に出していい。

 

筆者の許可など不要である。別に言いたいときに言う。

 

いずれにしても「男がつらい」のその「つらさ」には、さまざまな複雑な要因が絡まりあっているはずだろう。

 

何事もそうである。単に呼吸することですらさまざまな複雑な要因が絡まり合っている。スーパーでトマトを買うときにも、さまざまな複雑な要因が絡まり合っている。つまり事実上、何も言っていない。この手の内容空疎な文が、記事全体を通して非常に多い。

 

重要なのはそれを男性たちが内側から――もちろんマイノリティたちの実践から学ぶこと、他者たちの声に耳をすませながらそうするのは望ましいことだ――解きほぐしていくことである。

 

『他者たちの声に耳をすませ』る作業、『解きほぐしていく』作業は、これまで私が批判してきた事柄を考えると、おそらくこの筆者にはできない。

 

 このような言い方をすれば、やはり、抽象的な理想論に聞こえるかもしれない。しかし、問いはすでに、たんなる個人的で実存的な問題の閾を越えて、「非正規的な男性たち」や「弱者男性たち」が自分たちにとっての新しい生の思想をどうつかむか、という次元にある。私はそう考えている。

 

勝手に決めつけて考えてはいけない。

「実存的な問題の閾を越えて」とは何か。いつの間に閾値(threshold)の定義をしたのか。(そしてついでに言えば、「越えて」ではなく、「超えて」である。)

 

非正規男性(弱者男性)としての当事者性を自覚していくこと。承認から自覚へ。そして責任へ。そうした意識覚醒が必要ではないか。

 

宗教か? 意味不明である。

 

 誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。

 

ここでも論理破綻がある。『誰からも愛されず、承認されず』と『後続する男性たちの光となり、勇気となり』は明らかに両立しない。「誰からも」なら、肝心の「男性たち」からも承認されていないはずである。また「あの人みたいになりたい」と思われるなら、その時点で承認されてしまっている。論理的に両立しない。

 

むろん、意図を汲んでやることは出来る。そう文字通りに読まないで、「本当は、こういうことが言いたいのだろう」と「お迎え」を出すことは出来る。最初のほうで「連立方程式」を「多変数関数」に言い換えたように。

 

しかし、たしかに1回や2回ならいいが、この記事に対してそうする場合、ほとんどすべてのパラグラフをこちら側で「書き直す」羽目になる。ここまでだらしなく、たるんだ文章ばかり書く人が、まともに物事を考えられるとは到底思えない。いわゆる「最大限好意的な解釈」で内容を拾っても、大した話は出てこないだろう。

また、私が書いているこの記事のテーマは、タイトル通りに「ネット記事『弱者男性論は差別的か?』の粗雑さについて」である。はじめに筆者の論が粗雑であることを明らかにすることを約束した。その約束は果たしたつもりである。