神崎ゆき氏『「名誉男性」は、なぜ差別用語なのか』について

神崎ゆき氏が次のnote記事を公開した。ひとつひとつ、根拠を明示しながら丁寧に主張されており、私などがこう評するのも僭越ながら、大変素晴らしい記事と感じた。読者諸賢の皆様にも、ぜひご一読を願いたい。

 

note.com

 

私が以前書いた記事についても、批判的に言及されている。喜ばしいことである。党派性で馴れ合い、褒め合い、「敵」の悪口を言って盛り上がるのは、言論界のあり方として健全ではない。批判・異論・反論が活発に交わされるべきである。

とはいえ、そうした議論は、下手をすれば相手が「参りました。」と言うまで粘着するような、非建設的な内ゲバにもなりかねない。それはそれで不健全であるし、神崎氏が望むところでもないだろう。

ゆえに、私なりに論の相違点を明確にし、読者に向けて明らかにすることを以て、本件についての私の見解は締めくくりたい。(むろん、神崎氏を初め、他の方々がさらなる批判を加えるのは自由である。)

 

名誉男性」という語について

記事では、神崎氏は「名誉アーリア人」「名誉白人」の歴史的経緯を説明したのち、現代日本のインターネットにおける「名誉男性」の使われ方を次のように述べた。

 

名誉男性」の使われ方に共通するのは。
「自称もしていない、男性側から称号も与えられていないにも関わらず、特定の女性の内心を想像で決めつけ、批判する目的で付与される」
そんな実情なのです。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

その根拠は、記事で紹介された3つの記事(こからじさら氏、河崎環氏、アルテイシア氏のもの)による。

 

このうち、こからじさら氏・河崎環氏の記事に関しては、私も『特定の女性の内心を想像で決めつけ』るものと同意する。邪推であり、不当な評価(ラベリング)である。

しかし、アルテイシア氏の記事は他2つとは趣旨が異なる。

 

名誉男性とは、ざっくり言うと「男尊女卑的な価値観に染まってしまった女性」である。
たとえば、後輩女子からセクハラや性差別について相談された時に「私だったら笑顔でかわすけど」「そんな大げさに騒ぐこと?」などと返す女性がいる。
その手の女性は「相手も悪気はなかったのよ」と加害男性を擁護したりもする。
(中略)
男尊女卑に迎合するか、抵抗するか?
その選択を迫られた時に「そりゃ迎合して、都合の良い女になった方が得でしょ」と開き直る女性には「自分さえ良けりゃいいのか?」と聞きたいし、弱い者を踏みつけて成功するような生き方を、私は選びたくない。

名誉男性|「マイナビウーマン」

 

一般論として述べており、個別具体的な「特定の女性」の話ではない。記事全体としても、「男尊女卑的な価値観に自ら染まるな」という主張に力点があると解するのが自然だろう。そして実際、記事中で想定・仮定されているような女性は実在するであろうし、それが問題だという指摘には一定の正当性がある。(むろん『セクハラや性差別』が事実だという仮定の中での話である。)

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』でいえば、そのような女性は「カポー」に近いと思われる。

 

ここで語られるのは、「知られざる」収容者の受難だ。特権を示す腕章をつけず、カポーたちから見下されていたごくふつうの被収容者が空腹にさいなまれていたあいだ、そして餓死したときも、カポーたちはすくなくとも栄養状態は悪くなかったどころか、なかにはそれまでの人生でいちばんいい目を見ていた者たちもいた。この人びとは、その心理も人格も、ナチス親衛隊員や収容所監視兵の同類と見なされる。彼らは、今、罪に問われているこれらの人びとと心理的にも社会的にも同化し、彼らに加担した。カポーが収容所監視兵よりも「きびしかった」こと、ふつうの被収容者よりいっそう意地悪く痛めつけたことはざらだった。たとえば、カポーはよく殴った。親衛隊員でもあれほど殴りはしなかった。一般の被収容者のなかから、そのような適性のある者がカポーになり、はかばかしく「協力」しなければすぐさま解任された。

ヴィクトール・E・フランクル『新板:夜と霧』みすず書房(2002)

 

「カポー」は、ユダヤ人被収容者から選ばれた特権者であり、ナチス親衛隊員に加担した。むろん、フランクルは彼らを「名誉アーリア人」とは言わなかったが、同じ被差別者の立場から「被差別者が差別に加担している」という構造を問題視した上で、「名誉アーリア人め!」言ったのであれば、私はその正当性を認めたくなる。

また南アフリカ共和国における「名誉白人」の例についても同様である。もし被差別者である黒人の誰かがが、白人専用のベンチやバスを堂々使う特権的な人々を見て、憎らしそうに「名誉白人どもが、畜生め。」と言ったとすれば、私は彼を非難する気持ちにはなれない。

告発者の属性と内容(特に「差別への加担」が事実であるか)によっては、私は「名誉男性」という言葉を用いた批判も正当でありうると考えている。

 

あまりにも程度が異なる話であると思われるかもしれない。それこそ「実情」として、『名誉男性』は、上の例ほど人としての同情を禁じ得ないような、「やむにやまれぬ事情」によって発されることは少ないだろう。

 

しかし、『セクハラや性差別』もそれを擁護する女性もいるのも事実である。卑近な例を取り上げてみよう。昨今のコロナ禍によって、私が勤める会社でもマスク着用と手洗いが徹底されるようになった。また出勤時に体温を測定することになった。問題はこの体温測定だった。

体温の測定結果は、測定器のすぐ横に設置された掲示板の表に書き込むことになっていた。氏名とともに毎日の体温が並んでいる。ある日、それを見た男性社員が、女性社員の体温変化を見て「『あの日』(生理)に入ったんじゃないか。」と、こともあろうに本人に言った。

この発言がセクシャル・ハラスメントであることについて、私は何の異論もない。氏名と体温変化を誰の目にもふれる掲示物にしていた会社も問題だが、発言者の加害性も当然問われる。事実、問われ、発言者は厳重注意処分となった。掲示はやめることになった。(処罰が軽いのではないかという論点は省く。)

一方で、男性社員の発言を間接的に擁護する女性社員もいた。それこそ「私だったら笑顔でかわすけど」「そんな大げさに騒ぐこと?」「相手も悪気はなかったのよ」式の擁護であった。被害者本人はそれを「名誉男性的言動」だと指摘し憤った訳ではなかったが、つらかっただろうと思う。仮に彼女が「名誉男性どもめ!」と言ったとしても、私は語句を改め訂正せよとは要求しないだろう。

 

 上の理由により、私は「名誉男性」の使用をある限られた範囲で擁護するのであるが、神崎氏による次の指摘は、私の論にも不備があったと認めざるを得ないものであった。

 

「女性に名誉男性の称号を与えている男性などいない」ということ。
 記事の執筆者は「男性に迎合する女性」を示して「名誉男性」と使っていますが、それは男性側から与えられた称号ではありません。
 実は、この点がホロコーストアパルトヘイトと状況が異なる部分であり「名誉男性はなぜ差別用語なのか」を考えるに当たって重要な部分となります。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

 確かに「名誉○○」とは、歴史的経緯からいって、上の立場から下の立場へ与える称号である。したがって、私が例にしたような「ある被差別者が差別者を擁護したとき、同じ被差別者の立場からその人を非難すること」に使うのは、不適切な【応用】【転用】に該当ではないか――これは妥当な指摘でありうる。

 

ただ、この語を使う・使わないに関わらず、「被差別者みずからの差別への加担・再生産」に関しては、問題意識として持っておきたい。少なくともアルテイシア氏の記事に関しては、「名誉男性」の語の使用のみによって、論旨の全体を棄却できるものではない筈だ。

 

 

「ツイフェミ」について

ツイフェミの使用については、私は前回記事と意見を変えていない。使ってよいという意見である。(そして、現実的な社会運動を重視して「フェミニスト」を使うのも理解はする、という意見である。)

神崎氏は、私との見解の相違について次のように述べている。

 

「蔑称ではあるが、差別用語とまでは言えない」
 そのうえで。
 私と手嶋海嶺氏の意見の違いは「それでもなお『ツイフェミ』という呼称を使用するか否か」という点にあります。
 この論点を考えるには。
 『ツイフェミ』という用語の使用用途である「"本来のフェミニスト"と区別する」という問題に関わります。
 本来のフェミニスト
 例えば、手嶋海嶺氏は『ポルノグラフィ防衛論』を執筆した、リベラル・フェミニストであるナディン・ストロッセン氏を挙げています。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

この部分は訂正しておきたい。上の文だけを読むと、私が「リベラル・フェミズムが"本来のフェミニズム"であり、その他のフェミニズムは、いわば"偽のフェミニズム"である。」と主張しているように誤解されかねない。

多種多様な○○・フェミニズムは、いずれもすべて「本来・非本来」とか、「真偽」があるわけではない。

私は前回記事で次の通りに述べた。

 

フェミニスト」だと、人物でいえば、メアリ・ウルストンクラフト(1759年-1797年)や平塚らいてう1886年-1971年)から、それこそ現代日本で活動する「ツイフェミ」まですべて含まれてしまう。また、思想でいえば、ラディカル・フェミニズムもリベラル・フェミニズムも、その他の○○・フェミニズムも、すべて含まれることになる。

「ツイフェミ」という呼称の使用をやめるべきか? - 手嶋海嶺のゆっくり生活(ネット議論・日常生活)

 

『「フェミニスト」だと……すべて含まれることになる。』という主張はした。また「すべて含まれては困る」理由として、次のようにも書いた。

 

フェミニスト」概念の高い抽象度は、特に批判する場合に都合が悪い。論者が「何を」批判しているのかという焦点がぼやける。論に正確を期するなら、「分けられる限りは分ける」べきなのである。分割のサイズは小さければ小さいほど良い。当然最も良いのは、ある個人の特定の発言を一字一句違わず引用し、それに対して批判することである。むろん、述べたい論旨によって拡張せざるを得ない時は拡張する。しかし、それでも「必要最小限」になるようには努める。そうすれば、隙のない、厳密な批判がしやすくなる。

「ツイフェミ」という呼称の使用をやめるべきか? - 手嶋海嶺のゆっくり生活(ネット議論・日常生活)

 

もっと念入りに書くべきだったが、私がフェミニスト呼称を避けるのは、「本来のフェミニズムとそうでないフェミニズムを区別したいから」ではない。そうではなく、「批判対象を明確にしたいから」である。あえて断言すれば、ラディカル・フェミニズムもリベラル・フェミズムも、マルクス主義フェミニズムも、そしてツイッターフェミニズムも、すべて「本来の」「真の」フェミニズムである。

 

そもそも辞書的定義では、フェミニズムの語は「女性の社会・政治・法律上の権利の行使を擁護し、性差別の克服をめざす考え方。」(岩国8版)という程度の説明になっている。「性差別の克服をめざす考え方」であれば、フェミニズムとしては「真」である。

つまり、主張が的外れであるとか、事実に立脚していないとか、かえって別の差別を助長しているとか、実態として性差別に加担しているとかは、フェミニズムそれ自体の真偽判定には関わりがない。「めざして」いれば良いので、個別の主張の妥当性や、実際に性差別が克服できるという結果が伴うかは別である。

私が個人的にラディカル・フェミニズムを否定・拒絶するとしても、それは「ラディカル・フェミニズムは偽物だから」だと思っているのではない。

 

 異論――というより軽微な修正であるが――があるのはこの点だけである。

 

少し神崎氏の論を紹介しておく。

 

 実際、学問的フェミニズムに携わる人々で。
 『ツイフェミ』の言動を批判せず、それでいて『ツイフェミ』をフェミニストと見なして批判するアンチ・フェミニズムだけを批判する……という、頭がこんがらがりそうな不可思議な主張をすることがあります。
 また、「過激さ」だけで言えば『ツイフェミ』以上の発言をしているフェミニズム研究者もおります。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

実態としてそのような責任回避・恣意的選別が行なわれているので、それを批判する意味でも「フェミニスト」「フェミニズム」の呼称に統一するのが大事である、という趣旨だと私は解した。(誤解であればご指摘いただければ幸いである。)

私のもとの記事でも述べた通り、この点には同意する。

神崎氏は続けて、青識亜論氏のツイートを引用し、『ツイフェミ』以上に過激な発言をしているフェミニズム研究者を取り上げている。ぜひ神崎氏の記事を読んでご確認いただきたい。(私は彼女らを個別に批判する意思はあるが、特に統一した呼称は用いない。)

 

あとは読者のご判断に委ねる。繰り返しになるが、私は神崎氏と泥仕合的な非難合戦がしたいのではない。おそらく神崎氏もそうであろうと思う。意見の相違点を明らかにすることに努め、「相手に参ったと言わせる」ような粘り方はしない。

 

人物や思想ではなく「行為」に名前をつけること

最後に、新規に出された論点について扱い、終わりとしたい。

神崎氏は次のように述べている。

 

 ひとまず現段階の私自身の結論として、1つ提案をします。
 人物や思想ではなく「行為」に名前をつけるということです。
 例えば、キャンセル・カルチャー(コールアウト・カルチャー)は原義からは多少ズレますが「Twitterで過激な言動を繰り返すクレーマーの行動」を包括して示しています。
(中略)
 人物や思想や価値観ではなく、具体的な行為に対してラベリングする。
 これが、現時点では価値中立かつ建設的ではないかと思います。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

『ツイフェミ』の件について、キャンセル・カルチャー(コールアウト・カルチャー)と呼称するのは良い案のひとつであると思う。

しかしながら、個別具体論ではなく一般論とするなら、私には受け容れられない。「○○イズム」「○○主義」といった名称すべてが使えなくなるからである。たとえば「民主主義者」や「共産主義者」とさえ言えない。名称をつけ、整理・分類することは思考のために欠かせないプロセスである。むろん、その整理・分類が、正当・妥当かどうかが個別に議論されるべきであるだろう。しかし、思想や価値観へのラベリングそのものを拒絶するのは「やり過ぎ」ではないか。

 

 以上。なお末筆であるが、たいへん興味深く、また勉強になる議論の機会を提供していただいた神崎ゆき氏に改めて感謝を。また、ここまでお読みいただいた読者の方々にも感謝したい。ありがとうございました。

 

手嶋海嶺(ゆ虐クラスタ