【ゆっくりぱちぇりーのお散歩】青識さんからもらったリプライへの反論、あるいはヒトシンカさんとの対談が流れて残念だったこと。

ちょっと!! Twitterスペースでの青識亜論さんとヒトシンカさんの議論が流れちゃったじゃないの!?

ぱちぇ(私)、それのみを楽しみにして、今日は残業をガン無視して帰宅したのよ。ちなみに月末業務をすっぽかしたから結構ヤバいわ。月曜日に何を言われるか大体予想はつくけれど、まあ基本的にだいたい「ゆっくり死ね!」で返せば大丈夫よね? 社会人になると、とにかく他人の死を祈りがちになるの。仕方のないことね。

やっぱりTwitterスペースの配信機能はまだまだテスト運用段階というか、YouTubeLiveとかTwitcastingに比べると全然安定しないわね。むっきゅり……残念だわ……。

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両名とも押しも押されもせぬネット論客として、勇名を馳せた兵(つわもの)の衝突――どんな鋭い論理が出現するかとか、更にそれに対してぱちぇには思いもよらぬ絶妙な切り返しがあるかとか色々期待してたのよ。

そのスペース配信の前にちょーーっとだけ、ぱちぇもいっしょ噛みして、私も青さんからリプライを一つもらったわ。これよ。この記事のメインテーマでもあるわ。

 

 

藤本先生がどうとかの背景はさておき、このツイート単体にも言いたいことはあるから、今回はこれを題材にぱちぇの管見を述べてみることにしましょう。ただ、これフェミからの流れまで真剣に踏まえてしまうと話がとっ散らかるから、これだけね。

実は直接の返事はもうしていて、それがこれ。

 

 

要は先送りにしました、と、そういうワケよ。よく考えたら「返事をした」はあくまで形式上のことで、べつに厳密には返事になってないわね。

じゃあ、真面目にやってみるわね。

まず青さんの主張は「「これから論破ゲームやりま~す」みたいなことを明らかに口に出すことは、はっきりと望ましくない」ね。

 

で、ぱちぇは、「論破ゲーム宣言的なことが望ましくないなんて、そんなの『はっきり』してるしら?」と考えてるわ。

 

方法・やり方の「望ましさ」は目的次第~原理編~

まずはかなり原理的な話をさせてもらうわね。

ある方法・やり方に対する「望ましくない」という評価は、原則として「その方法・やり方は、ある目的を達成する手段として考えた時、合理的ではない。」という意味になるわ。(実は他にも「道徳的・倫理的にダメ」なんかもありうるけど、さすがに「論破ゲーム宣言ってちょっとお行儀が悪いよね。」という自明かつ浅薄なお話ではないはずだと信じてるわ。)

 

例えば、ある場所に向かうための交通手段としての「クルマ」を評価して、「クルマを使うのは望ましくない。」とだけ言われても、意味がわからないじゃない? とりあえず「目的地はどこよ?」って話になるでしょう。

もし、ぱちぇのおうち(関西地方でゆっくりしているわ!)から東京に行くなら、つまり「東京に行くこと」が目的なら、まあクルマを使うのは「望ましくない」わ。東京は駐車料金が高いし、道路も混んでるものね。実際、クルマよりは電車やバスの方が良さそうよ。

でも、目的地が近所のスーパーだったら、まあクルマでいいわよね。クルマが望ましい手段だわ。

 

このあたりの原理を踏まえて、「論破ゲーム宣言的な言論活動は望ましくない」を解釈すると、

①論破ゲーム宣言よりも、他に目的を達成する優れた方法・やり方がある。
②論破ゲーム宣言では、実は目的は達成できない。(あるいは逆効果である。)

このくらいの含意があると推察されるわ。

 

もちろん、論破ゲーム宣言(およびそれに類する言論)「望ましくない」かどうかは、完全に目的次第よ。そして、何が目的かは人によるわ。青さんは「はっきり望ましくないと思います。」って言ってたけど、ぱちぇとしては、まず原理的なところとして、「それは論破ゲーム宣言的なことをする人の目的次第だし、かつそうである以上、少なくとも「はっきり」はしてないんじゃない?」と思うのよ。

例えば、相手の論をズタボロに批判する一連の言論を、エンタメ的なコンテンツとして読者に提供することが目的なら、「論破ゲーム宣言」は望ましい方法・やり方だわ。「今から提供するのは、こういう種類のコンテンツですよ!」と読者さんに初めにお知らせ(約束)するのは客商売の基本よね。論破ゲームが見たいって人はそれなりにいるでしょうし、そういう読者さんはどうぞ来て下さいね、って話よ。

 

もちろん、青さんには青さんの目的があって、その目的に照らし合わせると、論破ゲーム宣言が「望ましくない」のは「青さんの中では」はっきりしているんでしょう。

それはまさに、ぱちぇが東京に行くのに電車を使い、近所のスーパーに行くのにクルマを使うのが望ましい交通手段と考えてるのと同じことよ。

でも、青さんのリプライは、そういう風に自分の中に限定した主張ではないわよね? もしぱちぇが今後「論破ゲーム宣言」的なことをして、それをたまたま青さんが読んで、しかもちょうど時間があったなら、「それは望ましくないですよ。」と批判するでしょう? なら、自分だけで済ませず、他人にも当てはめる心算はあるわけよね。

 

とはいえ、目的地が東京と近所のスーパーレベルで全然違ったら(論破エンタメ・コンテンツがやりたいレベルで違ったら)さすがに適用できないのは当然だし、それは青さんも分かっていらっしゃるでしょう。

つまり、目的が自分(青識亜論)と同じであれば、論破ゲーム宣言が望ましくないという判断に(論理的に考えるなら)たどり着くはずだ。」が、初めの「「これから論破ゲームやりま~す」みたいなことを明らかに口に出すことは、はっきりと望ましくない」という発言の根底にあるロジックね。異論もあるかもしれないけれど、とりあえずぱちぇはそう読んだわ!

 

目的が共有できていても「はっきり」はしない~具体編~

これは今までの青さんのTwitterやnoteでの発言からの憶測になっちゃうけれど、おそらく目的は「表現が焼かれない(批判はされても抹消はされない)寛容な社会を作る。」あたりだと思うのよ。これを実現する方法として、これまたおそらく方法としてフェミニストと友好的・生産的な対話して、相互理解を深める。」あたりを考えてる、といったところかしら?

まあ仮定に仮定を重ねたから、ぶっちゃけ外してる可能性はあるけれど、違ってたらごめんなさいと言うことにして、とりあえずこの目的と方法の設定で話を進めるわ。

 

で、ぱちぇとしては、対話・相互理解路線が「望ましい」ものかは、別にはっきりしていないと思っているわ。同様に、この路線に反する論破ゲーム宣言的な言論活動が「望ましくない」かも、やっぱり別にはっきりしていないと思っているわ。

というのも、「どういう社会運動をすれば実際に社会に変革を起こすことができ、かつその変革を維持できるか?」なんて超巨大問題、今のところ誰も答えを知らないからよ。

 

実際、今後、表現が焼かれない社会にしていくにあたって、フェミニスト」を戯画化・悪魔化して殴り倒し、最終的には「あの連中はカルト集団だ。」とでも世間様にも認知させていく方がいいのか、それとも、青さんや藤本さんの言うように、対等な相手として扱って対話していき和平を進めた方がいいのかと考えると、そうね、ぱちぇなら別にどちらの立場でも「それなりー」に説得的な議論が構成できるわ。だから「厳密には分からない」(=はっきりしていない)が答えね。

 

後者の立場からの意見の例は青さんがやってくれているから良いとして、ぱちぇが前者の立場を採ると、即興だとこんな感じに書くわ。

 

対等な立場をもって、丁寧かつ礼儀正しく対話を進めるのは確かに素晴らしいが、ほとんどの人には読まれないだろう。大半の人々は、もっと部分的な記述だけを拾って、その印象で味方か敵か、好きか嫌いかを判断する。そういう人々に対して「わかりやすい」言論として、戯画化や皮肉のような「悪い」表現を駆使するのは、どう忌み嫌おうとも社会運動をしていくためには必要である。民主主義の中で勝利を目指すには、内容は正しいが誰にも読まれない学会誌のような言論だけでは成り立たない。我々には、俗悪なコンビニ雑誌も必要なのだ。

 

今はこの論旨の細部を詰めるのが目的ではないから、ここまでで簡単に済ませてしまうけれど、更にデータをつけて、社会運動や政治体制の勃興と衰退、それに付随してきた様々な表現の歴史なんかも引いていけば、わりと見栄えのする記事にできると思うわ。

本当かって? ――だったらそうね、具体的には、共産主義を戯画化して攻撃した歴史を参照するのはどうかしら?

ご存知の通り、日本でも共産主義のことはかなり戯画化して、当然「共産主義者」を悪魔化したわ。そういうプロパガンダ表現の中には、相当程度に、事実と反する部分や、そして何より相手を対等な存在として扱ってない部分があったでしょう。

それでも、日本は今も共産主義国家になっていないという意味で「勝った」じゃない? なら、戯画化・悪魔化のプロパガンダは、政敵を打倒するために有効な政治的手段である、という主張も「それなりー」に成立するわ。「やったほうがいい理由」として成功例をひとつ挙げたわけだから。

 

もちろん、あくまで「それなりー」であって、厳密な話ではないわよ? 実際、もっと歴史を振り返れば、戯画化して逆に失敗した例もたくさん参照できるでしょう。そもそも政敵の戯画化・悪魔化表現が関与しなかった政治闘争なんて歴史上存在しないから、勝った側で成功例、負けた側で失敗例にできちゃうのよ。

まあ、成功例についても「戯画化・悪魔化によって成功したわけではない。」と反論することが可能よね。でも、同様に「戯画化・悪魔化によって失敗したわけではない。」とも言えるわ。――まあ、このへんはぱちぇ一人で全部できるわ。ヒトラーの部下で宣伝全国指導者を務めたヨーゼフ・ゲッベルスは、ある一つのテーマに対して、4つの異なる説得的な議論を即興で作れたらしいわね。そこまではいかないにせよ、ぱちぇも2つくらいなら出来るのよ。

 

ところで――これはちょっと余談だけど――ナチスドイツのプロパガンダを「成功」と見るか、「失敗」と見るかはちょっと興味深い問題よね? とにかく政権がとれて一定期間維持できたのだから「成功」と見ることもできるし、最終的に負けちゃったから「失敗」と見ることもできるわ。あるいは、武力による威圧もあったから「戯画化」の政治的成功例としては「ナシ」にする判断もあるでしょうし……あと、プロパガンダの成功・失敗を「それが通用した期間の長さ」で判定するなら、パックス・トクガワーナとか日本の現代的民主主義の期間より普通に長くて、じゃあ戦国時代に徳川さんがやってたことが「良かった」の? 「民主主義」より「封建主義」の方が優れているの? って話にもなるわ。「結果」で「方法の良さ」を判定していいのかしら? 戦国時代にバシバシやってた時は、明らかに「対話路線」「相手を対等な存在として扱う」ではなかったし……あと共産党が勝ったままの現代中国とかどうなんだとか……まあ色々ね!

 

結局のところ、「戯画化・悪魔化=政治的な勝利を目指すなら悪手である」っていうのは、「それなりー」な、「何かそれっぽい、説得力のありそうな話」または「そうだったらいいなという程度の話」に過ぎず、厳密な話ではないのよ。いずれにせよ崩すのは簡単。あるいは、いずれにせよ正しいと信じるのは簡単と言ってもいいかもしれないわ。

さすがにここまで論じれば、「安易な相対主義に走って問題をごまかしている!」というありがちな反論は受けないで済むと思うわ。そうじゃないと言える程度には説明したつもりよ。

 

長くなったわ。まとめましょう。

 

青さんは「はっきりしている」と言うけれど、ぱちぇは「はっきりしていない」と言うわ。これが「賛否ある」といったうちの「否」の部分ね。

ちなみに「賛」の部分は、行儀よく論敵を対等な存在とみなして対話するのは、それ単体では普通に良い心がけだと思うし、ぱちぇも出来るだけそうありたいからよ

ただ、ぱちぇは、他人がやる戯画化・悪魔化をさほど非難はしないわ。その人の裁量と責任で戯画化・悪魔化表現をやっていく分には自由でしょうし、こっちに噛み付いてこなかったらぱちぇは別に止めないわ。(噛み付いてきてもいいわ。ゆっくりお相手するわ。)

 

以上が結論よ! ゆっくりしていってね