【ゆっくりぱちぇりーのお散歩】青識さんからもらったリプライへの反論、あるいはヒトシンカさんとの対談が流れて残念だったこと。
ちょっと!! Twitterスペースでの青識亜論さんとヒトシンカさんの議論が流れちゃったじゃないの!?
ぱちぇ(私)、それのみを楽しみにして、今日は残業をガン無視して帰宅したのよ。ちなみに月末業務をすっぽかしたから結構ヤバいわ。月曜日に何を言われるか大体予想はつくけれど、まあ基本的にだいたい「ゆっくり死ね!」で返せば大丈夫よね? 社会人になると、とにかく他人の死を祈りがちになるの。仕方のないことね。
やっぱりTwitterスペースの配信機能はまだまだテスト運用段階というか、YouTubeLiveとかTwitcastingに比べると全然安定しないわね。むっきゅり……残念だわ……。
両名とも押しも押されもせぬネット論客として、勇名を馳せた兵(つわもの)の衝突――どんな鋭い論理が出現するかとか、更にそれに対してぱちぇには思いもよらぬ絶妙な切り返しがあるかとか色々期待してたのよ。
そのスペース配信の前にちょーーっとだけ、ぱちぇもいっしょ噛みして、私も青さんからリプライを一つもらったわ。これよ。この記事のメインテーマでもあるわ。
妥当性や明晰さももちろんですし、気遣いもそうですけど、まず対話の相手として承認するということが重要でしょうね。「これから論破ゲームやりま~す」みたいなことを明らかに口に出すことは、はっきりと望ましくないと思います。
— 青識亜論(せいしき・あろん) (@BlauerSeelowe) 2021年7月30日
藤本先生がどうとかの背景はさておき、このツイート単体にも言いたいことはあるから、今回はこれを題材にぱちぇの管見を述べてみることにしましょう。ただ、これフェミからの流れまで真剣に踏まえてしまうと話がとっ散らかるから、これだけね。
実は直接の返事はもうしていて、それがこれ。
青識さんが御指摘の問題については色々と私も考えている所が(賛否両面で)あるのですが、140字で述べるのは些かつらいので、いずれ自分のブログなどでしっかり書いてみたいと思います。
— 手嶋海嶺(ゆ虐クラスタ) (@Teshima_Kairei) 2021年7月30日
ともあれ本日のスペースを楽しみにしております。日頃のご活動、心より応援しております。
要は先送りにしました、と、そういうワケよ。よく考えたら「返事をした」はあくまで形式上のことで、べつに厳密には返事になってないわね。
じゃあ、真面目にやってみるわね。
まず青さんの主張は「「これから論破ゲームやりま~す」みたいなことを明らかに口に出すことは、はっきりと望ましくない」ね。
で、ぱちぇは、「論破ゲーム宣言的なことが望ましくないなんて、そんなの『はっきり』してるしら?」と考えてるわ。
方法・やり方の「望ましさ」は目的次第~原理編~
まずはかなり原理的な話をさせてもらうわね。
ある方法・やり方に対する「望ましくない」という評価は、原則として「その方法・やり方は、ある目的を達成する手段として考えた時、合理的ではない。」という意味になるわ。(実は他にも「道徳的・倫理的にダメ」なんかもありうるけど、さすがに「論破ゲーム宣言ってちょっとお行儀が悪いよね。」という自明かつ浅薄なお話ではないはずだと信じてるわ。)
例えば、ある場所に向かうための交通手段としての「クルマ」を評価して、「クルマを使うのは望ましくない。」とだけ言われても、意味がわからないじゃない? とりあえず「目的地はどこよ?」って話になるでしょう。
もし、ぱちぇのおうち(関西地方でゆっくりしているわ!)から東京に行くなら、つまり「東京に行くこと」が目的なら、まあクルマを使うのは「望ましくない」わ。東京は駐車料金が高いし、道路も混んでるものね。実際、クルマよりは電車やバスの方が良さそうよ。
でも、目的地が近所のスーパーだったら、まあクルマでいいわよね。クルマが望ましい手段だわ。
このあたりの原理を踏まえて、「論破ゲーム宣言的な言論活動は望ましくない」を解釈すると、
①論破ゲーム宣言よりも、他に目的を達成する優れた方法・やり方がある。
②論破ゲーム宣言では、実は目的は達成できない。(あるいは逆効果である。)
このくらいの含意があると推察されるわ。
もちろん、論破ゲーム宣言(およびそれに類する言論)が「望ましくない」かどうかは、完全に目的次第よ。そして、何が目的かは人によるわ。青さんは「はっきり望ましくないと思います。」って言ってたけど、ぱちぇとしては、まず原理的なところとして、「それは論破ゲーム宣言的なことをする人の目的次第だし、かつそうである以上、少なくとも「はっきり」はしてないんじゃない?」と思うのよ。
例えば、相手の論をズタボロに批判する一連の言論を、エンタメ的なコンテンツとして読者に提供することが目的なら、「論破ゲーム宣言」は望ましい方法・やり方だわ。「今から提供するのは、こういう種類のコンテンツですよ!」と読者さんに初めにお知らせ(約束)するのは客商売の基本よね。論破ゲームが見たいって人はそれなりにいるでしょうし、そういう読者さんはどうぞ来て下さいね、って話よ。
もちろん、青さんには青さんの目的があって、その目的に照らし合わせると、論破ゲーム宣言が「望ましくない」のは「青さんの中では」はっきりしているんでしょう。
それはまさに、ぱちぇが東京に行くのに電車を使い、近所のスーパーに行くのにクルマを使うのが望ましい交通手段と考えてるのと同じことよ。
でも、青さんのリプライは、そういう風に自分の中に限定した主張ではないわよね? もしぱちぇが今後「論破ゲーム宣言」的なことをして、それをたまたま青さんが読んで、しかもちょうど時間があったなら、「それは望ましくないですよ。」と批判するでしょう? なら、自分だけで済ませず、他人にも当てはめる心算はあるわけよね。
とはいえ、目的地が東京と近所のスーパーレベルで全然違ったら(論破エンタメ・コンテンツがやりたいレベルで違ったら)さすがに適用できないのは当然だし、それは青さんも分かっていらっしゃるでしょう。
つまり、「目的が自分(青識亜論)と同じであれば、論破ゲーム宣言が望ましくないという判断に(論理的に考えるなら)たどり着くはずだ。」が、初めの「「これから論破ゲームやりま~す」みたいなことを明らかに口に出すことは、はっきりと望ましくない」という発言の根底にあるロジックね。異論もあるかもしれないけれど、とりあえずぱちぇはそう読んだわ!
目的が共有できていても「はっきり」はしない~具体編~
これは今までの青さんのTwitterやnoteでの発言からの憶測になっちゃうけれど、おそらく目的は「表現が焼かれない(批判はされても抹消はされない)寛容な社会を作る。」あたりだと思うのよ。これを実現する方法として、これまたおそらく方法として「フェミニストと友好的・生産的な対話して、相互理解を深める。」あたりを考えてる、といったところかしら?
まあ仮定に仮定を重ねたから、ぶっちゃけ外してる可能性はあるけれど、違ってたらごめんなさいと言うことにして、とりあえずこの目的と方法の設定で話を進めるわ。
で、ぱちぇとしては、対話・相互理解路線が「望ましい」ものかは、別にはっきりしていないと思っているわ。同様に、この路線に反する論破ゲーム宣言的な言論活動が「望ましくない」かも、やっぱり別にはっきりしていないと思っているわ。
というのも、「どういう社会運動をすれば実際に社会に変革を起こすことができ、かつその変革を維持できるか?」なんて超巨大問題、今のところ誰も答えを知らないからよ。
実際、今後、表現が焼かれない社会にしていくにあたって、「フェミニスト」を戯画化・悪魔化して殴り倒し、最終的には「あの連中はカルト集団だ。」とでも世間様にも認知させていく方がいいのか、それとも、青さんや藤本さんの言うように、対等な相手として扱って対話していき和平を進めた方がいいのかと考えると、そうね、ぱちぇなら別にどちらの立場でも「それなりー」に説得的な議論が構成できるわ。だから「厳密には分からない」(=はっきりしていない)が答えね。
後者の立場からの意見の例は青さんがやってくれているから良いとして、ぱちぇが前者の立場を採ると、即興だとこんな感じに書くわ。
対等な立場をもって、丁寧かつ礼儀正しく対話を進めるのは確かに素晴らしいが、ほとんどの人には読まれないだろう。大半の人々は、もっと部分的な記述だけを拾って、その印象で味方か敵か、好きか嫌いかを判断する。そういう人々に対して「わかりやすい」言論として、戯画化や皮肉のような「悪い」表現を駆使するのは、どう忌み嫌おうとも社会運動をしていくためには必要である。民主主義の中で勝利を目指すには、内容は正しいが誰にも読まれない学会誌のような言論だけでは成り立たない。我々には、俗悪なコンビニ雑誌も必要なのだ。
今はこの論旨の細部を詰めるのが目的ではないから、ここまでで簡単に済ませてしまうけれど、更にデータをつけて、社会運動や政治体制の勃興と衰退、それに付随してきた様々な表現の歴史なんかも引いていけば、わりと見栄えのする記事にできると思うわ。
本当かって? ――だったらそうね、具体的には、共産主義を戯画化して攻撃した歴史を参照するのはどうかしら?
ご存知の通り、日本でも共産主義のことはかなり戯画化して、当然「共産主義者」を悪魔化したわ。そういうプロパガンダ表現の中には、相当程度に、事実と反する部分や、そして何より相手を対等な存在として扱ってない部分があったでしょう。
それでも、日本は今も共産主義国家になっていないという意味で「勝った」じゃない? なら、戯画化・悪魔化のプロパガンダは、政敵を打倒するために有効な政治的手段である、という主張も「それなりー」に成立するわ。「やったほうがいい理由」として成功例をひとつ挙げたわけだから。
もちろん、あくまで「それなりー」であって、厳密な話ではないわよ? 実際、もっと歴史を振り返れば、戯画化して逆に失敗した例もたくさん参照できるでしょう。そもそも政敵の戯画化・悪魔化表現が関与しなかった政治闘争なんて歴史上存在しないから、勝った側で成功例、負けた側で失敗例にできちゃうのよ。
まあ、成功例についても「戯画化・悪魔化によって成功したわけではない。」と反論することが可能よね。でも、同様に「戯画化・悪魔化によって失敗したわけではない。」とも言えるわ。――まあ、このへんはぱちぇ一人で全部できるわ。ヒトラーの部下で宣伝全国指導者を務めたヨーゼフ・ゲッベルスは、ある一つのテーマに対して、4つの異なる説得的な議論を即興で作れたらしいわね。そこまではいかないにせよ、ぱちぇも2つくらいなら出来るのよ。
ところで――これはちょっと余談だけど――ナチスドイツのプロパガンダを「成功」と見るか、「失敗」と見るかはちょっと興味深い問題よね? とにかく政権がとれて一定期間維持できたのだから「成功」と見ることもできるし、最終的に負けちゃったから「失敗」と見ることもできるわ。あるいは、武力による威圧もあったから「戯画化」の政治的成功例としては「ナシ」にする判断もあるでしょうし……あと、プロパガンダの成功・失敗を「それが通用した期間の長さ」で判定するなら、パックス・トクガワーナとか日本の現代的民主主義の期間より普通に長くて、じゃあ戦国時代に徳川さんがやってたことが「良かった」の? 「民主主義」より「封建主義」の方が優れているの? って話にもなるわ。「結果」で「方法の良さ」を判定していいのかしら? 戦国時代にバシバシやってた時は、明らかに「対話路線」「相手を対等な存在として扱う」ではなかったし……あと共産党が勝ったままの現代中国とかどうなんだとか……まあ色々ね!
結局のところ、「戯画化・悪魔化=政治的な勝利を目指すなら悪手である」っていうのは、「それなりー」な、「何かそれっぽい、説得力のありそうな話」または「そうだったらいいなという程度の話」に過ぎず、厳密な話ではないのよ。いずれにせよ崩すのは簡単。あるいは、いずれにせよ正しいと信じるのは簡単と言ってもいいかもしれないわ。
さすがにここまで論じれば、「安易な相対主義に走って問題をごまかしている!」というありがちな反論は受けないで済むと思うわ。そうじゃないと言える程度には説明したつもりよ。
長くなったわ。まとめましょう。
青さんは「はっきりしている」と言うけれど、ぱちぇは「はっきりしていない」と言うわ。これが「賛否ある」といったうちの「否」の部分ね。
ちなみに「賛」の部分は、行儀よく論敵を対等な存在とみなして対話するのは、それ単体では普通に良い心がけだと思うし、ぱちぇも出来るだけそうありたいからよ。
ただ、ぱちぇは、他人がやる戯画化・悪魔化をさほど非難はしないわ。その人の裁量と責任で戯画化・悪魔化表現をやっていく分には自由でしょうし、こっちに噛み付いてこなかったらぱちぇは別に止めないわ。(噛み付いてきてもいいわ。ゆっくりお相手するわ。)
以上が結論よ! ゆっくりしていってね!
新シリーズ「ゆっくりぱちゅりーのTwitterおさんぽ」 Vol.01 手始めに質問にゆっくり答えるわ!
ネット議論お嬢様シリーズではお嬢様文体を使ったから、新しいこの「ゆっくりぱちゅりーのTwitterおさんぽ」シリーズでは、ゆっくり文体を使うわ。
ぱちぇはぱちぇよ! ゆっくりしていってね!!!!
※ゆっくり小説の典型的世界設定において、「ゆっくりぱちゅりー」の一人称は「ぱちぇ」です。
さて。企画はしていたものの、どのネタでこのシリーズを始めるか迷ってたのだけれど、幸いにも……と言うと失礼かしら……ゆっくりしたフォロワーさんから御質問を頂戴したわ。こちらにぱちぇなりにお答えすることで、このシリーズの第一弾とさせてもらうわね!
頂いた質問はこれよ!
今日色々あって、恐らく私が女性蔑視をしているであろう事を知りました。
「社会は女性に甘く、男性に厳しい」といった感じの内容です。
私の中では男女平等で物事を考えているつもりだったので、無自覚でそういう思考になっていたんだと思います。手嶋さんはブログやツイートで批判をしておられ、私が見た限りでは中立の立場で物事を考えられる方であると認識しております。
そこで、例えば「男A対女B」のような話があった時、中立の立場で物事を考えるにはどうしたら良いのか、教えて頂きたいです。
手嶋海嶺を褒めてもらえて嬉しいわ。そう、まるでぱちぇ自身のことかのように、とても嬉しいわ。
それにしても、なんだか意識の高いことでお悩みね? でもたぶん、ぱちぇが明晰にお答えすることが可能なテーマだわ。
まず、とりあえず「中立の立場で物事を考えるにはどうしたら良いのか」がメインの御質問よね? なるほどだわ。ええ、難しいわよね、中立思考。
なにしろ、ぱちぇも中立思考なんてやってないくらいだから。
――って、いきなり突き放すようだけれど、ちゃんと理由があるからゆっくり聞いてほしいわ。
そもそも「中立であること」って、特に正しいワケでも何でもないのよ。
「中立」って、単に「ある問題(物事)について2つ以上の対立する意見があるとき、そのいずれにも与していない状態」よね? まあ問題によって中立が正しいこともあるでしょう。けれど、間違っていることも多々あるわ。例えば、血液型性格診断には肯定派と否定派がいるけれど、だからといって「中立」を選ぶのが正しいのかっていうと、なんか、そうでもないじゃない? それに「中立」=「公平」でもないのよ。(でも、どちらかといえば、「公平に考えるにはどうしたらいいか?」と質問されているのかしら?)
加えて、ここが一番大事なのだけれど、質問主さんは順序を間違えているわ。
冷静に考えてみましょう。
普通、「色々と調べて考えた結果として、どの立場(肯定・中立・否定)を採るかが決まる」のであって、「どの立場を採るかを先に決めておいて(中立にする)、それに合うように考え方を調整する」のは「違う」でしょう?
質問主さんは、前者ではなく後者をやろうとしちゃってるように見えるわ。そういう風に「結論ありき」で物事を考えていると、Twitterを徘徊しているネット議論お嬢様に「えいえんにゆっくり」させられるわよ。
ぱちぇとしては、正しい順序で考えるのをオススメするわ!
次にいきましょう。
質問主さんは、その前に「男女平等で物事を考えているつもり」と言っているわね? これもぱちぇからすると、「そんなことできる?」って思ってしまうわ。というのも、「男女平等」は物事を考える方針として「あやふや」すぎるからよ。
質問主さんが仮に会社にお勤めだとして、もし社長さんが「みんなから愛される会社を目指そう!」なんて方針を打ち出したら、困ってしまうでしょう? 何をどうしたらいいのかしら。「みんな」っていうのは誰かしら。まさか本当に全人類? それともある程度の優先順位があるの? 「愛される」も何を基準に判断するのかしら。うーん……ってなってしまうわ。
一方で、「売上を増やそう!」だったら社員さんたちも分かるわよね。たぶん新規の顧客を開拓したり、魅力的な新商品を開発したり、マーケティング戦略を練って広告を打ったりすればいいんだろうって。そして、実際に採った行動が良かったか悪かったかも、売上の推移をみれば分かるわ。「売上増だから前進してるなあ。」とか「ああ、しまった。後退してる!」とかね。じゃあPDCAを回しましょう、KPIを定めましょう、というお話にできるわ。
で、「男女平等」よ! 平等って言っても色々あるわよね。機会平等? 結果平等? たとえば、アファーマティブ・アクションはやったほうがいいのかしら。それとも、やってしまうと逆差別になるという御意見で、むしろやるべきではないとお考えかしら。
あと本当に「男女」でいいの? 年齢や収入や能力その他の要素は気にせず、「男女」という軸で評価したときに「平等」であればいいの? それとも、必ずしもそうでもない?(ちなみに「すべての軸に対して平等」は理想だけど現実的には不可能だと思うわ。)
ぱちぇがもし「男女平等を方針として物事を考えてください。」と言われたとしたら、端的に「無理。」とお返事するわ。だって、分からないから。
敢えて方針として「男女平等」を掲げたいなら、せめてより小さな目標に「分解」して立て直す必要があるわ。
要するに、「みんなから愛される会社を目指そう!」という正直よくわからない方針を、①顧客満足度を上げる。②社員の離職率を下げる。③地域住民の好感度を高める。④……みたいな感じで「分解」して、「具体的・現実的に取り組める方針」にまで抽象度を下げるのよ!
質問主さんの御質問を拝読していると、抽象度を下げるどころか更に上げる方向で考えてるようだから、そこが問題だと思うわ。「男女平等で考える」→「そのために中立思考で考える」→「中立思考をするコツがあれば……」って流れ、これ完全に抽象度を上げる方向よね?
スタートの「男女平等」の時点で既にかなり抽象度が高くて、「そもそも平等とは何か?」というとても厄介な問題を抱えているのに、さらに「思考法」のレベルまで格上げしたら、本当に何をしたらいいか分からなくなるわよ。
同じような「抽象度を上げてしまうクセ」は冒頭から出てるわね。ちょっと質問文と距離が開いちゃったから、もう一度引用するわね。
今日色々あって、恐らく私が女性蔑視をしているであろう事を知りました。
「社会は女性に甘く、男性に厳しい」といった感じの内容です。
私の中では男女平等で物事を考えているつもりだったので、無自覚でそういう思考になっていたんだと思います。
「社会は女性に甘く、男性に厳しい」も抽象度が高いわ。どういう基準で「厳しさ」を判定しているのか分からないもの。それなのに、この主張をした理由として、さらに抽象度が高い「女性蔑視があった」に繋げているわね? そうではなくて、「厳しさ」を分解して、たとえば「日本社会では、女性よりも男性のほうが自殺率が高く、過労死しやすく、幸福度も低い。」とかにまで抽象度を下げるべきだったわ。これだったら、蔑視も何も、単に事実の問題でしょう?
もちろん、女性は女性で、男性とは異なる厳しさがあって――という話にもなるでしょうけど、それはそれで新たに基準を明確に立てて、別個に議論すればいいのよ。(総合判断でどちらがより厳しいか、も考えたければ考えればいいわ。ただ、基準の作り方が下手だとジェンダーギャップ指数みたいになってしまうけれど。)
とにかく、女性蔑視思想を反省するより、問題を細かく砕いて、論点を明確化した方がずっとゆっくりできると思うのだけど、どうかしら?
そこで、例えば「男A対女B」のような話があった時、中立の立場で物事を考えるにはどうしたら良いのか、教えて頂きたいです。
「中立」で考えるという部分はすでに批判したから、別の点でいうと、「「男A対女B」のような話があった時」は、ぱちぇなら、たぶん普通に双方の要望を聞いて、妥協できる着地点(解決策)を探すわ。
現実にあるそういう状況って、まさか「男A」や「女B」という抽象的な存在と相対しているのではないでしょう? 具体的な特定個人としての「田中太郎さん」や「山田花子さん」がいるのよね。だったら、その人は「性別」以外にもたくっさんの属性(年齢、学歴、収入・貯蓄、能力、会社での役職、趣味嗜好、出身地、宗教……)を持っているはずよ。それなのに、「とにかく男と女で対立しているのだから、男女平等という観点で中立な提案をすれば、うまくいくはずだ。」と、"もし"考えているのなら、それはあんまり上手くいかないと思うわ。
加えて、仮に本当に性別による対立だとしても、対立している意見の中身と、当人の個別的な価値観なんかによるから、「性別による対立を解決する一般的思考法」みたいなものは提案しにくいわ。
いえ、もっとはっきり言うと、不可能だと思うわ。
中立思考を目指すというか、双方の「どうしても譲れない要望」と「最悪妥協できる要望」を聞き出して話し合う(すり合わせる)、じゃダメなのかしら? 一般的に答えられるのは多分ここまでよ。
回答としては以上だけれど、ついでだから「蔑視」と「(男女)平等」に関して私見を述べておくわ。
そもそも「蔑視」して、あるいは「蔑視」されて、何か悪いことあるかしら?
人はそれぞれ、自分なりの価値観で他人を尊敬したり軽蔑したりするものよ。ぱちぇも職場で、「機械類のトラブルを解決できるステキなゆっくり」として尊敬のまなざしを受けることもあれば、「オタク趣味で恋ゆんのいない独身ゆっくり」として蔑視されることもあるわ。
でも、それが何なのかしら? まったくもって、好きに思ってくれて構わないわ。
ぱちぇはぱちぇで、自分なりの価値観で「この人はすごくゆっくりしているわね!」と尊敬することもあれば、「こいつは本当にゆっくりしてないわねぇ……」と軽蔑することもあるのよ。考えてみれば勝手な話だけれど、特にそれで生活に支障がなければ、いちいち「改善」しようとは思わないわね。せいぜい名誉棄損罪や侮辱罪に該当しないように気をつけてるくらいよ。
「(男女)平等」についても、実生活、それこそ職場や家庭のレベルで考えてみると、「平等にすること」=「その場の人々にとって望ましいこと」ではなかったりするのよね。
例えば――さっきも言ったけれど――ぱちぇは職場の中で相対的に機械類トラブルを解決するのが得意だし、外部との交渉事も「それなりー」の自負があるわ。実際、そういう仕事は基本的にぱちぇに回ってくるのよ。ぶっちゃけてしまうと、ぱちぇの職場の女性は機械トラブル対応と交渉対応がすごく嫌いみたいで、悪くいえば押し付けられてるわ。
ただ、ぱちぇの方も、細かい作業(書類の不備チェックとか)はすごく苦手で、そこは女性陣にやってもらってるのも事実よ。これについては、悪くいえば押し付けてるわね。
こんな感じだから、少なくとも外形的にはかなり「不平等」かつ「不公平」な状態だと言えそうね。だって、「同じ部署の同じ役職の社員同士」なのに、業務の種類によって誰が負担するかが偏ってるもの。「女性社員といえば、お茶くみとコピー」の世界にちょっと近いと言われても、否定はできないわ。(ぱちぇのやっているような仕事がやりたいと女性社員から希望があれば、もちろんやってもらうから、機会平等を奪ってはいないし、また「対等な関係の中で合意された不公平は、不公平ではない。」という考え方もあるでしょうけど、このへんは「真の平等・公平とは何か?」の難しい話になってくるから棚上げするわ!)
ともあれ、ぱちぇとしては、特にそれで不満がないなら、無理に「平等化」「公平化」する必要はないと思うのよ。不平等・不公平だからこそうまく回っていて、みんな「自分の仕事はラクだ。」と思いながら過ごせるのよ。この「しあわせー!」は壊したくないわね。
ぱちぇの実生活レベルでの「平等」は、あくまでも身近にいる個別具体的な人々を幸福にするための「手段の一つ」よ。とりわけ不平等にしておくほうがみんなが幸福なら、ずっと不平等にしておくわ。
たとえ、女性陣がぱちぇのことを「不注意で不器用なゆっくりだ。」と蔑視していて、ぱちぇが女性陣を「こんな簡単な機械トラブルも解決できないのか。」と蔑視していてもね。そんなことはどうでもいいの。(自分が不在時でも何とかトラブル対応できる程度の教育はしておかないといけないとかはあるわ。)
平等化・公平化するのは、そうしないことで不満が生まれている時だけでいいわ。それとも、あくまでも平等・公平それ自体を「達成されるべき目的」と考えるかしら?
……と、こんなものかしらね!
色々書いちゃったから、まとまりの悪い部分もあるかと思うけど、何かの参考になれば幸いよ。「ここがわからない。」「ここは間違っていると思う。」もバンバン言ってくれて大丈夫よ! むきゅ!
それじゃあ――ゆっくりしていってね!!!!
ネット議論お嬢様 Part.9:「この指とめよう」という茶番に対する"tu quoque"
「この指とめよう」に集まった「おまいう」
今月、一般社団法人「この指止めよう」が、SNSでの誹謗中傷を止めるための広告企画を発表なさいましたわ。それと同時に、団体の構成員・関係者も明らかにされました。
さて。「ある団体が、SNSで誹謗中傷を抑止する活動をするらしい。」と「その活動に関わる人々はA氏、B氏、C氏……であるそうだ。」という2つの情報さえ分かったら、おネット議論クラスタのお嬢様たちが必ずやることがありますわね?
ええ、そう。――――『おまいう』(お前が言うな)要素探しですわ。
誹謗中傷をするなと人に説教を垂れるその口で、かつて誹謗中傷をしてはいなかったか? またその誹謗中傷について、謝罪も反省もなく未だに放置してはいないか? これらは当然、問われることですわ。発言者は誰であれ、自分の過去の言動に責任を持つべきですわ。
というわけで、今回のテーマはこの『おまいう』でしてよ!
《偽善の抗弁》 tu quoque
とはいえ、『おまいう』は、気品あるお嬢様が使うには少々相応しくないネットスラングですわね? 修辞学(レトリック)のちゃんとした用語に直しますと、これは『偽善の抗弁』(tu quoque)と言いましてよ。tu quoqueはラテン語で、直訳するなら「あなたもだ」という意味ですわ。「おまいう」とほぼ一緒ですわね。また、ラテン語由来という時点で、とても昔からある論法ということが分かりますわ。まあ記録が残っていないだけで、たぶん旧石器時代でも使われていたでしょうね。
例えば、「どうしてもっとイノシシを狩ってこないんだ? しっかりやれ!」と、ぜんぜん狩りの成果がない人から言われたら、さすがの原始人も「てめえも狩ってこれてねえだろうが!」くらい言い返したはずですわ。まさしく『偽善の抗弁』ですわ。
ただ、この『偽善の抗弁』は、長いこと誤解にさらされていましたの。修辞学の領域でもある時期までは詭弁の一種に分類されていましたわ。というのも、『偽善の抗弁』は相手の主張を直接否定できる訳ではないからですわ。例えば、Wikipediaでも当該論法は次のように詭弁(誤謬)の一種として説明されていますわ。
お前だって論法(引用者注:『偽善の抗弁』の別名)は、次のようなパターンをとる。
人物Aが、Xを主張する。
人物Bが、Aの行動や過去の主張などは、主張Xに沿ったものではない、と主張する。
したがって、主張Xは誤りである。このような例として次のようなやりとりが考えられる。
ピーター:ビルは税金を騙し取っている。
ビル:お前だって未払いの駐車料金が20件もあるくせに、よくもそんなことが言えたもんだ。相手の道徳上の性格や、行動は、一般的に議論の論理性とは無関係であり、これは誤謬である。この手法は、燻製ニシンの虚偽を用いた戦術でしばしば用いられる、人身攻撃論法のひとつであり、そこではなんらかの主張なり議論が、それを唱えたり、支持したりする者に関する事実によって拒まれることになる。
「誤謬である。」とばっさりですけれど、あの、普通に考えてくださいまし? ピーターは未払いの駐車料金をさっさと払うべきですわ。「ふっ……誤謬だな! はい論破!」ではないですわ。何を開き直っていますの?
確かに、純粋に論理的に考えた時、『偽善の抗弁』を相手の主張を否定することに使うのは間違いでしょう。実際、相手が駐車料金を滞納しているという事実を指摘しても、自分が騙し取った税金を返さなくていいということにはなりませんわ。
けれど、この論法が批判の対象にしているのは、そもそも発言内容ではなく、発言行為(態度)ですの。他人の悪は口やかましく咎めるのに、自分が犯している同種の悪については知らん顔をしているという、その不公平で矛盾した態度を問題にしているのですわ。
上の例で、なるほどピーターは「ビルは税金を騙し取っている。」と時系列的には先に指摘しています。けれど、それはたまたま先に口を開いたのがピーターだったからに過ぎませんわ。
偶然生じた順番で議論に応じなければならないというルールは無いのですわ。というより、そのようなルールを作るのは、建設的な議論をかえって阻害しますわ。だって、とにかく「先出し」さえすれば、自分ですら解決できない(解決していない)問題でも、一方的に相手だけに説明責任をなすりつけられるルールでしょう? そうであれば、わたくしも一切の自省なく、他人の粗探しだけしますわよ。「お前はどうなんだ?」と言われても、「それは詭弁だ!」とはねつけていればいいのですわよね。
『偽善の抗弁』をその論理構造だけで詭弁と判定するのは、自分のことを棚上げして他人ばかりを責める、お排泄物系お嬢様に不必要かつ有害な特権を与えるだけですわ。
それに、どちらが先に自己正当化の答弁をしなければならないかと言えば、それはむしろ「払うべき金を払っていない」という問題を持ち出してきたピーターの方ですわ。ピーターの側が問題意識をもって指摘したのですから、その問題意識がきちんと首尾一貫していて、決して恣意的で一方的な非難ではないことを、まず説明しなくてはなりませんわ。いわば、ピーターは議論の場に立つ資格が問われているのですわ。
もし、ピーターが「駐車料金を払わないのは、金に困っていたからだ。」という論で駐車料金の未払いを正当化するとしましょう。それなら、ビルも「俺もそのとき金に困ってたんだ。」と同じ根拠を(使えるなら)使って正当化できますわ。あるいは、ピーターも一応のところ反省はしつつ、「その時は金がなかったからやむを得ず滞納したが、今月中には駐車料金を払うつもりだ。」と言ったら、ビルは「なるほど。支払いまである程度の準備時間は見てもいいと君は考えている訳だ。ならば私も今月か、来月には騙し取った税金を返そう。」と言えますわ。
お互いに共通した問題については、先に問題を提示した側が、自己正当化または反省・謝罪の答弁をしてルールを確定させる。次にそれに応じる形で相手が答弁する。これこそ、公平で正しい議論の順序というものでしょう。(「税金を騙し取る」と「駐車料金の未払い」が共通の問題といえるのか怪しい気はするのですけれど、便宜上、共通しているものと仮定して扱いますわ。これはWikipediaの例示が悪いと思いますわ。)
自分が抱えている同様の問題についての説明はこっそり隠しておいて――しかも隠していることを指摘されたら「『偽善の抗弁』という詭弁だから答えない。」などと言い逃れをして――相手にだけ説明を求めるのは、「ずる」以外の何でもありません。はっきり申し上げれば、そいつは卑怯者お嬢様ですわ。『偽善の抗弁』は詭弁ではなくってよ!
論点の摩り替えにはあたらない
これまた議論の基本ですけれど、ある論点を単に時系列的に先出しされたからといって、その論点を「本当に」先に扱うべきだとは限らないのですわ。実際、提示された論点よりも先に解決しておかなくてはならない論点、いわゆる『先決問題』が存在するケースがありますわ。その場合は、それが先決問題に該当する根拠を述べた上で、堂々と論点を変更すればいいのです。「先に提示された論点を先に扱う」のはバカ正直なだけでしてよ。ちゃんとした根拠があるなら、「論点の摩り替え」には該当いたしませんわ。
聖書でも、イエス・キリストが次のように述べておりますわ。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。(Luke 6:42)
他人の目にある「おが屑」(木材を削った時に出る小さい木片ですわ)よりも、自分の目にある丸太のほうが先決問題だと仰っているわけですわね。たとえ話ではありますけれど、どちらが時系列的に先に指摘したとかではなくて、中身で見て「丸太」>「おが屑」という優先順位があるという指摘ですわ。
ただ、だからといって『偽善の抗弁』が常に優れた反論方法であるという訳でもないですわ。先程チラッと「税金を騙し取る」と「駐車料金を滞納する」は本当に同じ扱いでいいのかと述べましたが、ここが重要でしてよ。要するに、この論法は「あなた『も』やっているが、それはどうなんだ?」と問いただす方法ですから、同一性がそれなりに担保されている必要がありますのよ。同一性がイマイチだと、「それとこれとは違いますわよ!」という言い返しが刺さって死にますわ。
「論法」という構造よりも、やっぱり中身が大事なのですわ。(ついでにいえば、『偽善の抗弁』と類似した概念のWhataboutismも、詭弁になる時とならない時がありますわ。なお、Whataboutismが気になる方は、適当におググりになってくださいまし。話が重複しすぎますわ。)
古の知恵に学びつつ、素敵なお嬢様を目指しましょう!
ネット議論お嬢様 Part.8:「定義」ってどう扱いまして?
私は2021年5月29日に次のようにおツイートいたしました。
とても興味深い内容でした。私も語句の定義の無分別な拡張路線には反対する者ですので、深く頷きながら拝読しました。 https://t.co/Fmq3citxdy
— 手嶋海嶺(ゆ虐クラスタ) (@Teshima_Kairei) 2021年5月28日
ただ謝罪しなければなりませんの。これ、わたくし引用RTする対象のおツイートを間違えておりますわ。神崎お嬢様のnote記事へのお感想のつもりだったのですけれど、こっちはTogetterまとめですのね。まあ、テーマは共通していますから、大きな齟齬は出ないものの、ちょいミスりましたわ。ごめんなさいね。
それで、いつも仲良くさせて頂いているLlukSお嬢様から次の御質問を頂戴しました。
(※ツイート埋め込み機能を使うと連続リプライは縦長になりすぎるため、文章を転記させてもらいましたわ。太字強調は引用者によりますわ。)
①とても大事な視点であるとは思う。 しかし日本人の言葉へのいい加減さはもはや治らないのではないかと思うのですが、手嶋さんはどうお考えになりますか?
②申し訳ない。仕事終わりの気の緩みから何ともぼんやりしたもののお尋ねのしかたになってしまいました。 「日本人の言葉へのいい加減さ」とは例えばカタカナ翻訳の利便性に依存し、最早新たな言葉として再生産する事に日本人が慣れきってしまっているから、→
③日本語の性質として語句の定義の拡張使用の傾向は素から「在る」ものだ、と考える事はある程度妥当性があるのではないか。これを防ぐ手立ては意義を再生産するカタカナ外来語をある程度危険視する言説が構築されない限り「治らない」ように見える、とやや暗澹たる思いでおりますが→
④手嶋さんは、どのようにお思いですか? という事が先のtweetの趣旨でした。長々と申し訳ないで。出典:
①https://twitter.com/LlukS666/status/1398674459314302977
②https://twitter.com/LlukS666/status/1398679480512573450
③https://twitter.com/LlukS666/status/1398680922359095296
④https://twitter.com/LlukS666/status/1398681156942405632
語句の定義の拡張使用は、「日本人」の「日本語」に特有の性質ではなく、「人類」の「言語」に共通の性質でしてよ。もちろん、各言語を精密に比較するなら、原理的には程度の差が検出できるかもしれませんけれど、「定義の拡張は、日本語で特に発生しやすい。」という論は言語学クラスタお嬢様からは聞いたことがありませんわ。(もっとも、私が聞いたことがないだけで、どこかで言われているかもしれませんわ。)
実際、お学生時代にお英単語を憶えるときも、「多義語」ってやつには面倒な思いをさせられたはずですわ。多義語のすべてが「拡張」によって生まれた訳ではありませんけれど(ぜんぜん違う経路で入ってきたにも関わらず、最終的にひとつの語句に「合流」しちゃったとか、あるいは「拡張」とは逆に、元々はもっと広い意味をもつ語句が「縮小」しちゃったとかもありますわ。)、たとえば"Japan"は「日本」という意味に加えて、「漆器」という意味がありますわね。毛唐どもの言語運用もいい加減でしてよ。
「英語 多義語」とかで検索すれば、お受験用に「憶えるべき多義語のリスト」みたいなのが出てくるでしょう。「どうして、それとそれを一緒にしましたの……?」と疑問に思うものばかりですわ。"book"なんて、「本」という名詞と、「予約する」という動詞が一緒くたになってますわ。品詞レベルで変えるなよって思いません?
さて。カタカナ外来語についても他国の事情とそう変わりませんわ。またお英語の場合で言いますと、いわゆる「英単語」のうち、外来語(言語学的には英語以外の言語からの借用語を指す)が占める比率はオドロキの60%~80%ですわ。あいつら、お意識高い系ビジネスパーソンよりもはるかに外来語を使って喋ってますのよ。英語ネイティブに日本人の和製英語を非難する権利なんて全く無いですわ。どの口がほざきますの? おふざけはおよしになって!
たとえば、英語のuncle(叔父)やcousin(いとこ)はおフランス語ですわ。おフランス語で叔父はoncle、いとこは完全にそのままcousinですわ。一方で、father(父親)やmother(母親)は英語の本来語で、おフランス語とは全く別ですわ。これを日本語でたとえると、「父や母のことは日本語で父や母と言うけれど、兄弟のことは『ブラザー』と呼び、『兄弟』はもう誰も使わない死語・古語になってる。辞書にも掲載されていない。」くらいの状況ですわ。借用語比率が60~80%ということは、こんな状況が英語では当り前だということですわ。
とはいえ、普通に喋ってる日本人が外来語を避けて本来語を使っているのかというと、全くそうではありませんわ。というも、単に「外来語」と言った場合、日本人として真っ先に考えるべきは「中国語」(漢語)だからですわ。
『カタカナ翻訳の利便性に依存し、最早新たな言葉として再生産する事に日本人が慣れきってしまっている』という御指摘がございましたけれど、それはかつて漢語翻訳でやりまくったことですわ。(「利便」も「依存」も「生産」も漢語ですわ。)新しい言葉を受け取るにあたって、「和製漢語はいいけれど和製英語(カタカナ)はダメ」という論もたしかに有り得ますけれど、私から見ると「由来するお国が違うだけではなくて?」と思っちゃいましてよ。翻訳にあたり、いったん中国語を経由するルールにでもしまして?
以上から、『意義を再生産するカタカナ外来語をある程度危険視する言説』はやりにくいと思いますわ。いま現在、欧米が世界の中心みたいなツラをしていらっしゃるので、そのへん生まれの概念をそのままカタカナで輸入する状況は消えないでしょう。ちょっと悔しいですけれど仕方ないですわね。
この件については、以上がわたくしの考えですわ。追加の御質問があればいつでも受け付けましてよ。
それでも、「定義」の拡張を咎める意味
ここまでは言語の在り方として、かなり物分りの良い「定義なんて自由ですのよ~!」的なお話をしましたけれど、それは半分正解で半分間違いですわ。
もちろん原則として、ある語句をどのように定義するかはその人の自由ですわ。「犬という言葉で猫を意味することにする。」なんて定義をしても構いませんわ。定義に真偽なしという言葉通りですわよ。「AはBを意味することとする。」と約束して、それを自分で守れば基本は問題なしですわ。
じつは定義についての考え方は、わたくし既に記事にしておりますわ。次の記事でしてよ。(お時間のあるときにお読みくだされば幸いですわ。)
「定義の拡張」が、「その語句に本来なかった意味を新たに与えること」全般を指すなら、例えば物理学で定義されている「仕事」という語句も問題視することになるでしょう。物理学における「仕事」とは、お高等学校で習う通り、「物体に加わる力と、物体の変位の内積」ですわね?
でも、これに対して「そんな定義でその語句を使うな!」「勝手に拡張するな!」というのは明らかに不毛な批判ですわ。
けれど、神崎お嬢様が問題視した「スラップ訴訟」の拡大については、事情が異なりますわ。神崎お嬢様がお書きになった定義を借用させていただきますと、スラップ訴訟は『個人・市民団体・ジャーナリストによる批判や反対運動を封じ込めるために、企業・政府・自治体が起こす訴訟』(出典:note記事『差別問題に蔓延する「ソリテス・パラドックス」 』)ですわね。明らかに、はるかちゃん氏が石川氏に起こした訴訟は該当しませんわ。
簡単に申し上げれば、わたくしが物理学の「仕事」を咎めないのに、「スラップ訴訟」は神崎お嬢様と同様に咎めるのは、法的な問題に加え、「元々の定義が持つ喚情的意味を都合よく流用しているから」ですわ。(この観点そのものは神崎お嬢様とは異なりますわ。神崎お嬢様は批判するにあたって「ソリテス・パラドックスに陥るから」という理由を採用していらっしゃいますわ。)
喚情的意味というのは、要するに語句が持つ感情を喚び起こす力ですわ。例えば、「テロリズム」や「性的搾取」という語句を目にしたら、私たちは単にその記述的意味として「~のことである。」という情報を受け取るだけでなく、同時に「悪いことだ! 許せない!」という感情も喚び起こされますわよね? 今風にいえば、エモいワードなんですわよ。
「殺人鬼」も「鬼」というエモいワードを付与することによって、「恐ろしいもの、怖いもの」という感情的イメージを与えていますわ。少なくとも「殺人犯」というよりは「殺人鬼」のほうが喚情的意味は強めだといっていいでしょう。だいたいの語句は、記述的意味とそれに付随する喚情的意味を持っていますわ。
わたくしが許せないのは、定義を変更しているにも関わらず、「変更前」の定義しか持っていなかったはずの喚情的意味を、「変更後」の定義にも流用する、その卑劣さですわ。
たとえば、「実在の女性に性的労働を強制し、利益を奪い取る。」という本来の定義の「性的搾取」は、それにふさわしいだけの喚情的意味がありますわ。「性的搾取をやっている人は最低最悪、人類の敵!」と言って差し支えないでしょう。
けれど、「女性キャラの萌え絵を創作・公開すること。」という全く違う状況に対して「性的搾取」という語句を使うのは、本来の「性的搾取」がもつ喚情的意味を流用して「悪いイメージ」を持たせようとしているだけの、極めて卑劣な名付けに過ぎませんわ。本当に図々しいにもほどがありましてよ。あとから現れて、喚情的意味だけウチでも使わせて下さいって、そりゃ通しませんわよ。そっちはそっちで別の語句でおやりになって!
あと、神崎お嬢様が問題視している「ソリテス・パラドックス」および「曖昧な定義」の問題にもおおむね同意いたしますわ。そちらの論は神崎お嬢様のnote記事を参照なさってくださいまし。
とはいえ、ちょっと思うところはありますわ。例えば、「スラップ訴訟みたいなもの」「一種の~とも言える行為」なんて小学生めいた言い逃れが認められるなら、今回の声明を発表した現代書館様を指して、「一種の恫喝とも言える声明を発表した反社会集団またはヤクザみたいなもの」と言い返しても全然OKってことになりますわよね?
であれば、現代書館様に「スラップ訴訟とは異なる。」と御指摘して、「スラップ訴訟そのものとは断言しなかった。だから問題はない。」という反論されたら、仕返しに上の「一種の恫喝とも言える声明を発表したヤクザみたいなもの」と言っても問題はありませんわ。だって「断言していない=セーフ」論法を採用したのはそちらでしょう? 自業自得でしてよ。
まあ、あくまでもそういう言質が取れたらですし、仮に取れてもお嬢様としては品が悪いので、お勧めはしませんわ。というより、最悪、経緯はどうあれ名誉毀損で訴えられかねませんし、やってはいけませんわよ。ーーええ、「お勧めしない」ではなくて「やるな」にしておきますわ。わたくしも犯罪教唆と言われたくありませんわ。危ないですわ。
上品なネット議論お嬢様として、定義を正しく使いこなし、一流を目指して頑張りましてよ!
ネット議論お嬢様講座 Part.7:e-フェミお嬢様のご質問に回答しつつ、「質問」の正しい形を説明しますわ!
わたくしのお相互フォロワーの中でも素晴らしいお方のひとりに、e-フェミお嬢様がいらっしゃいますわ。大体において意見が似通うことが多い方――だとわたくしは勝手に思っている――なのですけども、おタイムラインのおツイートを眺めておりますと、ヒトシンカお嬢様の『ラブタイツ』記事をめぐって、見解が割れていることが分かりましたわ。わたくしは当該記事に対して肯定派、e-フェミお嬢様は否定派ですわ。
今回はe-フェミお嬢様のおツイートにわたくしなりの答えを示しつつ、わたくしが「肯定派」である理由を説明しますわ。
あとついでに、ネット議論講座として『「質問」はどうあるべきか?』なんてお話もしちゃいますわ!
性的搾取という概念を使ったらフェミニストですわ!
うーん、企業のキャンペーンに対して私人が感想を言う際に、一方的とか一方的じゃないとか言う事があるかしら……?
— e-フェミお嬢様 (@4qE3IImfTakKZgd) 2021年5月24日
また、この記事では「フェミニスト」と「一般女性」の違いはかなり重要ですけれど、どう定義されているのでしょう。
性的搾取という言葉を使ったらフェミニスト……? https://t.co/qK1lsbESoz
e-フェミお嬢様が上のおツイートで問題視しているのは、『ラブタイツ』記事の次の部分ですわね。
これ(引用者注:ラブタイツ広告イラスト)にフェミニスト集団が一方的に【性的搾取】、【性的消費】、【男性目線】などのレッテルを貼り、キャンペーンを中止に追い込んだ。
なおこれら「性的搾取」「性的消費」とはフェミニスト用語だが当時トレンド入りするほどバッシング側によって乱用されており、この騒動が「一般女性」ではなく「フェミニスト」によるものであることの明確な証拠となっている。性的消費というのはネット上のフェミニスト、いわゆる【ツイフェミ】が作り出した語義不明瞭なオリジナルスラングであるし、「性的搾取」は実在の女性や児童などを正当な報酬を払わずに性産業に従事させたりすることを指す言葉で、萌えイラストは本来全く関係ない。これらの用語を萌えイラストのバッシングに使うのは唯一日本のフェミニストだけである。
ひとつずつ順番にいきますわね。
e-フェミお嬢様は『企業のキャンペーンに対して私人が感想を言う際に、一方的とか一方的じゃないとか言う事があるかしら』と疑問を感じなさったようですわ。でも、正直「一方的」というワードにそれほど意味はないと思いますわ。感想の送付ってもともと一方的ですし。「少なくとも双方向的・対話的ではない」程度に理解しておけばたぶん十分でしてよ。実際、このワードを使わなくても(省いてしまっても)ヒトシンカお嬢様の論は成立しますから、わたくしとしては、「それは取り上げるほどでもない。」という感覚ですわ。
そして、次の疑問は『この記事では「フェミニスト」と「一般女性」の違いはかなり重要ですけれど、どう定義されているのでしょう。性的搾取という言葉を使ったらフェミニスト……?』ですわね。――これは重要ですので、しっかり説明しますわ!
実はこれを説明するのにうってつけの示唆深い考察を、英文学者のイーグルトンお嬢様が『イデオロギーとは何か』という著書でしておりますわ。引用しますわね。
イデオロギーは、わたしが状況をどう考えているかという問題ではなく、なんらかのかたちで、状況そのものに刷りこまれているものなのだ。わたしが「白人専用」と書かれた公園のベンチに座っているくせに、自分は人種差別には反対であるなどと思いをあらたにしたところで意味はない。白人専用のベンチに腰をおろす行為によってすでに、わたしは人種差別のイデオロギーを支持しその永続化に手を貸してしまったのだ。いうなればイデオロギーは、わたしの頭のなかにあるのではなく、そのベンチのなかにあるのである。
イデオロギーとは何か (平凡社ライブラリー) | テリー イーグルトン, Terry Eagleton, 大橋 洋一 |本 | 通販 | Amazon
上の論を少し展開しましょう。ある人がフェミニストかどうかは、「本人がフェミニストだと自認しているかどうか」ではなく、本質的には「フェミニストと同じ行動・言動をとるかどうか」で判断されるべきですわ。
たとえば、わたくしが「不逞外国人」や「在日特権」といったネトウヨが作り出したネトウヨ御用達の批判概念を好き放題使っておいて、「でも、わたくしはネトウヨではありませんわ!」などと言っても、誰も真面目に受け取らないでしょう? せいぜい「いや、あなたは立派にネトウヨでしてよ。」と言われるのがオチですわ。また、それで妥当・正当ですわ。白人専用のベンチに座りながら「人種差別には反対である。」と考えるのと同じですわ。(私は黄色人種ですから、モンゴロイド専用ベンチと言うべきかしら?)
同様に、萌え絵に「性的搾取」という概念をぺたんこと貼り付けて批判するのはジャパニーズ・フェミニストのやり方なのですから、そのやり口に習って同じことをする人は、自認していようがいまいが、やっぱりジャパニーズ・フェミニストですわ。認定は正しくってよ。
もし、「性的搾取概念を用いて萌え絵を批判していても、ジャパニーズ・フェミニストとは言えない。」と仰っしゃりたいなら、そう言えるだけの何らかの根拠が必要ですわ。たとえば、「物理学クラスタのほうが、萌え絵に性的搾取概念を当てはめて批判している。」とかですわね。まあ、物理学でなくとも、オタククラスタでも経済学クラスタでも何でも結構ですけれど、ぶっちゃけどんなクラスタを比較対照にしても、「萌え絵=性的搾取」論は圧倒的にジャパニーズ・フェミニストクラスタが使っていると思いますわ。これは否定できない現実ですわ。
そのクラスタの特徴に該当する行動・言動をしている人は、そのクラスタにいると判定される――これに異存ありまして?(「不逞外国人」「在日特権」を繰り返し使う人の例とあわせて考えてみて頂きたいですわ。)
立証責任はそちらにありますわ!
次のおツイートに参りましょう。e-フェミお嬢様はこのように述べておられますわ。
資料として……と言う名目の割には、かなり抽象的や主観的な概念が多い印象を受けますわね。
— e-フェミお嬢様 (@4qE3IImfTakKZgd) 2021年5月24日
「フェミニストはオタクヘイトの中年女性が殆どで、若い女性は萌え絵に抵抗がない」と言うのも、断定されている割に根拠に乏しい様ですわ。
ヒトシンカお嬢様が想定している「中年女性」は、宮崎勤事件なんかがあって、マスコミによるオタク・バッシングが特に厳しかった時期に幼少期を過ごした女性ですわね。(記事中にそのような旨の記述がありますわ。)
さて。逆にお尋ねしたいのですけれど、宮崎勤事件から時間が経てば経つほど、相対的にバッシングの勢いは減りますわよね? 流行り廃りとしてそうですわ。また、時期が進むほど、オタク表現はどんどん表の市場に出るようになって、アニソンがオリコンチャートに入るのが「さして珍しくもない光景」になったかと思えば、ニコニコ動画を通じてボーカロイドが爆発的な人気を博し、今ではVTuberなんてのまで人気ですわ。いかにもな萌え絵を使ったおスマホゲーも流行ってますわね。
こうした状況の変化の中で、一体どうやればオタク・バッシング世代である「中年女性」ほどの萌え絵への強烈な抵抗感を、「若い女性」がそのまま引き継いで維持したり、あるいは更に強めたりすることが可能ですの?
「若い女性ほど萌え絵に抵抗感がない。」という推論は、ごく自然に、ほぼ当り前に導かれるものですわ。もう社会通念としてそうだと考えてもいいでしょう。こうした場合、むしろ、疑問を持った側の対抗言論である「若い女性も、中年女性と同程度か、それより強い抵抗感がある。」の方こそ、何らかの『強い証拠』が必要ですわ。
これに併せて、『立証責任』という議論の原則を少し紹介しますわ。今回のケースで私は、「自然な推論」を述べたに過ぎないヒトシンカお嬢様よりも、それに疑問を感じたe-フェミお嬢様のほうに、疑問を付されてしかるべきとする「証拠を示す責任」(=立証責任)があると考えていますわ。
(※引用が長いので、太字だけ読んでもいいですわ。)
すでに存在するものを優先する存在者のトポスが、最も典型的なかたちで現れているのが、議論における立証責任という考えである。立証責任とは、要するに、議論においてどちらが最初に立証する責任を負うかということである。立証責任は元来が法律用語であったが、これを法律以外の、議論一般の問題に応用したのは、修辞学者のリチャード・ウェイトリー(1787ー1863年)であった(『修辞学初歩』1828年)。
ウェイトリーの考えはすこぶる単純である。彼は、現存する制度、規則、また通念や常識のように世間一般に受け入れられている判断、あるいは伝統、慣習、さまざまな分野における権威など、要するにすでに存在しているものに特権的地位を与え、これらは充分な反対理由が示されるまでは存続されるべきであると考えた。したがって、制服着用を義務付けている学校で、制服を廃止すべきか否かと論争が起きたときには、まず制服廃止派が自らの主張の正しさを論証しなければならない。制服存続派が喋るのはその後である。
しかし、それではなぜ、すでに存在するものはこのような特権を享受できるのかという疑問が生じてこよう。これについて、足立幸男氏は次のように解説している。……私見によれば、スタトゥス・クオ(現状、引用者注)の変更は一般にメリットのみならずデメリットをも伴う。しかも、これらのデメリットに対して多くの人々は知識も経験ももたない。そのため、スタトゥス・クオの変更は、時として、大きな社会的混乱をもたらすことになりかねない。その意味で、スタトゥス・クオの変更を求めようとする側に対して、それを主語しようとする側より相対的に重い責任を要求するのは、それなりに合理的な方策であるように思われる。(『議論の論理』1948年)
足立氏が述べていることは性格である。すでに存在しているものについては、われわれは、そのメリットもデメリットも承知している。が、まだ存在していないものは、その正体をはかりかねるのだ。福田恆存氏は、選挙でなぜ大衆が保守党に投票するのかということを、その心理から説明している。
……大衆が諒解してゐる政治といふものは、進歩派の頭のなかにある消毒政治と異り、毒も一緒に飲みこむことなのだ。彼等は資本主義国家にも自由主義陣営にも悪があることを知つてゐる。それがかなり大きなものであることも知つてゐる。同時に、欲する善はその悪と抱合わせにでなければ手に入らぬことも知つてゐる。彼等が保守党を支持するのは、両者の間にさういふ黙契が成立つてゐるからだ。保守党の悪は顕在してゐる。が、革新政党の悪は潜在してゐる。未知のメーカーの新式の機械同様で、売手は従来の品より良いところばかり宣伝するが、どこに狂ひが来るか見当がつかない。国民大衆にとつては、それが気味わるいのだ。さういふ常識を「感情的」なものとして軽蔑したり無視したりすることは出来ない。(福田恆存「常識に還れ」)
こうしてみると、立証責任は、すでに存在するものにわけもなく特権的地位を与えているのではないということがわかる。実際問題として、何かしら現存するものに反対する論者は、まず自らがその反対論を論証してみせなければそもそも説得力をもちえないのである。たとえ立証責任の義務が課せられなくても、一つの提案として認めてもらうためには最初の立証を引き受けざるをえないのだ。だから特権的地位は与えられたというよりも、存在者に最初から備わっているものだといえよう。存在者のトポスが選択のための論拠として機能する秘密もそこにある。
もちろん、どのような言論(ここではヒトシンカお嬢様の仮説『若い女性ほど萌え絵に抵抗感がない。』)に対しても、疑うのはたいへん結構でしてよ。何もかもを疑うべきですわ。ただ、その「疑い」を支える根拠は問われますわ。具体的には、「その仮説と矛盾する事実がある。」(A)とか「それよりももっと有力な(説得力のある)仮説がある。」(B)とかですわね。
このAとBをどちらも全く示さずに、ただ疑問だけ述べても、相手にはかわされてしまいますわ。「根拠が乏しい気がする。」に対しては、たとえば「根拠は十分ある気がする。」とでも答えておけば、それでとりあえず引き分けですもの。だって、証拠レベルが同じですからね。あえてネット議論として評価したとき(本当に純粋な質問だったらごめんなさいね!)、e-フェミお嬢様の質問の仕方では、引き分けか負けしかないのですわ。不利なじゃんけんですわ。
唯一、「ひょっとしたら」の次元で勝ち筋としてありうるのは「質問に対して相手が回答をミスる。」ですけれど、これヒトシンカお嬢様に期待するのは多分ちょっと厳しいですわ。AまたはBを用意して、きっちり『実弾』をブチ込まないと、そいつは殺せませんわ。(ネット議論の経験値が明らかに私より上ですわ!)
立証責任を先にこちらが果たしてもいいですけれど、根拠はかなり簡単に調達できますわ。たとえば、萌え絵文化を創作・消費する人たちの女性比率を見ればよろしいわよね?
本当は時系列で「昔は女性比率が低かった」を過去の別作品を使って出していくべきなのでしょうけれど、なんかもうわりと十分な気もしますわ。『ラブライブ!』が萌え絵的ではないとは流石に仰らないでしょう。ていうか若い世代で「女性比率のほうが高い」まで到達しているのはわたくしも驚きましてよ。(おスマホの性別設定にはあんまりウソはないと仮定していますわ。たぶんおスマホを購入したときの性別欄の反映でしょうし。)
あと、『けいおん!』の視聴者層分析とか、少しググったら色々出ましたわ。おそらくヒトシンカお嬢様の推論を裏書きするデータは、ポンポン並べられますわ。
んん……「フェミニストの相当数がオタクヘイトの中年女性である」と言う主張は「北原みのりさんのメルマガ記事の一文が論拠」という事で宜しいのかしら?
— e-フェミお嬢様 (@4qE3IImfTakKZgd) 2021年5月25日
また「若い女性は萌え絵に抵抗がない」とする根拠はどこで示されるのでしょう? https://t.co/imAkyi444k
一文でも何でも、根拠を1個でも出した側は、1個も出していない側よりも説得力の点で「上」ですわ。加えてe-フェミお嬢様は、疑問の根拠(AまたはB)を提示していないので、素直な質問なのか、「回答ミス待ち」のイチャモンなのか、外形的には区別できませんわ。(※個人的に私がe-フェミお嬢様のことを信じているのは、また別の話ですわ。)
そもそもそういう「相手に論証おまかせコース」みたいなのは駄目なんですの。おまかせしたら相手の好きにやられますわ! きっちり詰めて殺せですわ! どうして否定的証拠を突きつける努力をおサボりになられたの!?
放置していても脅威にならない質問は、放置されますわ。それが議論の摂理ですわ。「答えなければまずい!」「黙殺していれば相手の正しさを認めたことになる!」ような質問を――そのような危機感を与える質問だけを――発するべきですわ!
ネット議論ならば、ですけれども。(純粋な学生風の質問ならこの限りではないですわ。)
と、ガンガン書いちゃいましたけど、e-フェミお嬢様は、今後もわたくしと仲良くしてくださると嬉しいですわ!(相当偉そうに書きましたけど、お気を悪くしてほしくないですわ。これは本当に本心ですわ。)
今回の講座はここまで! わたくしも質問に気をつけて、ネット議論お嬢様として精進して参りますわ!
ネット議論お嬢様講座 Part.6:呉智英お嬢様に学ぶ「帰謬法」
今回は反論法のひとつ、「帰謬法」を扱いますわ。
今日たまたま呉智英お嬢様の『日本衆愚社会』を読んだからですわ。このお嬢様は人権論を手厳しく批判することで有名でして、実際に「差別もある明るい社会」みたいなことを言って物議を醸したこともありますわ。あと民主主義に対抗して封建主義の復権を目指したりもしていますわ。変わったお嬢様でしてよ。
ともあれ、昔から論客として非常にお強いお嬢様ですし、著書の意見内容に賛同するにせよしないにせよ、ネット議論お嬢様の参考になると思いますわ。
呉智英お嬢様は、前記の本の中で、お朝日新聞の松下秀雄お嬢様に次の反論をしておりますわ。
シールズがまだ活動中の2015年10月25日付の朝日新聞に編集委員の松下秀雄がこんなことを書いている。
「私はSEALDsの若者たちに敬意を抱いている。『戦争法反対』と唱えているからではない。主張の中身はさまざまでいい。自分の頭で考え、言葉にする。『私は嫌だ』といえる。空気に流されにくい社会をつくる、それをめざし、圧力に負けずに取り組んでいるからだ。それこそ、この国の民主主義にとって大切だからだ」
シールズより数年前、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が結成された。その名の通り、既成政党や労組とのつながりのない市民一人一人が集まって結成された市民運動団体である。たぶん松下とは「主張の中身」は違うだろうが、それは「さまざまでいい」はずだ。それよりも「自分の頭で考え」「『私は嫌だ』といえる、空気に流されにくい社会をつくる」べく「圧力に負けずに取り組んでいる」ことが「大切だ」。松下はこれにも「敬意を抱」くのだろう。
在特会は「自分の頭で考え」たからこそ駄目なのではないか。馬鹿の考え休むに劣る。朝鮮人は嫌だと言えばいいわけではない。圧力に負けず、空気に流されなければいいわけではない。
松下の小論で評価すべき点が二つある。一、シールズと在特会が同類であることを暗に指摘したこと。二、両者が「民主主義にとって大事」だと、これも暗に指摘したこと。
お朝日新聞の松下お嬢様が漠然とした一般論を根拠にシールズを擁護したので、呉智英お嬢様が「その一般論は在特会にも当てはまるが、お前はそれを認めるということでいいのだな?」と詰め寄っている形ですわね!
これは反論のひとつの形式として憶えておいて良くってよ。名前は「帰謬法」と言いますわ。
この反論法では、相手が自分の主張を正当化するために用いた根拠を利用しますわ。
松下お嬢様の主張:シールズは素敵ですわ!
正当化根拠①:自分の頭で考えることが大事でしてよ!
正当化根拠②:「私は嫌だ」と言えることが大事でしてよ!
正当化根拠③:圧力や空気に負けない(抵抗する)ことが大事でしてよ!
呉智英お嬢様が論じている通り、根拠①~③は在特会にも当てはまりますわ。ですから、松下お嬢様は「在特会は素敵ですわ!」とも必然的に主張しなくてはなりませんわ。それはお朝日新聞の松下お嬢様にはきっと耐え難いことでしょう。
相手が使った一般論に基づいて、相手が認めたくない主張(または、明らかに不条理な主張)を正当化することで、対象の議論が誤っていると示す――これが「帰謬法」ですわ。
(※「帰謬法」はもっと細かい意味、異なる意味もありますけれど、この記事ではこの程度に限定しておきますわ。後々知れば良いことでしてよ。)
とはいえ、注意点もありますわ。
帰謬法を使って批判した場合、相手の開き直りには弱いですわ。この場合ですと、松下お嬢様が、建前論としてでも「ああ、そうだ。在特会の人たちのような主張があるのも大事だし、彼らの意見に賛同こそしてないないものの、敬意は抱いている。」とお返しになった場合、それ以上は踏み込めませんわ。(この言質を取ったことで「議論の目標は達成できた。」と考えることもできますけれど。)
また、後付けでも、両者(シールズと在特会)を差別化できる根拠を述べられた場合、もういっぺん考え直しになりますわ。たとえば、「在特会はヘイトスピーチをしている極めて悪質な集団である。私の考えでは、ヘイトスピーチは民主主義そのものを破壊する言論である。取り上げた一般論だけで何でも同じ扱いにする訳ではない。例えば、単に①~③の条件を充たすだけならオウム真理教もそうだろうが、いちいち『テロ行為をしている場合はこの限りではない。』などと書く必要はないはずだ。」という返しは有り得ますわね?
このあたりは、どちらがより説得的な議論を展開できるかという「力」の勝負になりますわ。自分が誰かの論を批判するのに帰謬法を使う場合は、こうした返し技に注意しつつやっていくことですわ。逆に、自分が立論する場合は、「わたくしが使った根拠は、何か不都合な主張まで正当化してしまいませんこと?」とよく検討することが大事ですわよ。
こんな細かい注意点があっても、「帰謬法」はけっこう強い反論法ですわ。というのも、帰謬法では、相手が使った根拠をそのまま自分の反論の根拠に使うので、相手は「知らねえよ。」と返すことが出来ませんの。
たとえば、論戦の相手がキリスト教徒で、主張を正当化する根拠に聖書の一節を持ち出してきたとしましょう。キリスト教徒ではない私は「知らなくってよ! わたくしには関係ありませんわ!」と返すだけで構いませんわ。
けれど、わたくしが聖書の別の一節を持ち出してきて、相手に「あなたはこれにも従いますの?」(聖書は古い本ですから、現代的な道徳観・人権観とは相容れない記述が多数ございますわ。)と突きつけるのは有効な反論ですわ。キリスト教徒なら、「聖書なんて関係ありませんわ!」とは言えませんものね。
帰謬法はこの性質から、「相手の神を利用して相手を撃つ論法」と呼ばれたりもしますわ。
――と、今回はいつもより短いお記事になりましたけれど、別に長けりゃいいってもんでもないですわ。
一流のネット議論お嬢様を目指して、わたくしも頑張りますわ!
お嬢様のための議論講座 Part.5:青識亜論氏と小宮氏の論争を題材に「ゆっくり」を学ぶ
そう、それは3年前の2018年……皆様は何があったか覚えていらっしゃるかしら?
もちろん、私は全く憶えておりませんわ。
ともあれ、こちらのおブログのお記事が面白かったので、今回はこちらを題材にしてゆっくりすることにしましてよ。
ネット論客・青識亜論氏vs.社会学者・小宮友根氏の論戦ですわね! 『最善の相』というバズワードが誕生したのを覚えているお嬢様もいらっしゃかるかもしれませんわ!(ただし、「最善の相」はご本人が既に取り下げていらっしゃるので、これ以上同じネタでいじるのは失礼でしてよ。これは最後に紹介しますわ。)
まあ「最短で追いつく」も何も、いまは2021年でとっくに終わった話ですが、わたくしはそんなの気にしませんわ。「永遠」はここにあるのですわ。
この論戦は上の記事で紹介されています通り、次のツイートが発端ですわ。
Aさん(Cさんが想定する外国人の友人)「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」
Cさん(瀬戸内快男児氏)「...と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
Bさん(jiji氏)「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。『あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの』なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで『貞操観念をしっかり持ちましょう~』とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
これに対して、青識亜論お嬢様が次のような見解を述べたそうですわ。
(※以下、あくまでもブログ主お嬢様の「まとめ」ですので、実際に青識亜論氏や小宮友根氏がされたツイート本文とは異なりますわ。でも、本講座の題材としては読みやすいので採用させていただきますわ。)
jiji氏の発言は、次の二つの理由で問題である。
①jiji氏の発言は、男性に怒ることを要請しており、男性に強くあるよう求めているのと同義である。
これはHeForSheの理念と矛盾しているから、フェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。
②jiji氏の発言は、「女性は貞淑であるべきだ」という価値観を前提にしており、女性の貞操観念が低いことを否定的に評価するよう求めている。
これはフェミニズムの思想と矛盾しているから、フェミニストがjiji氏を批判しないのはおかしい。
これに小宮友根お嬢様が次のような趣旨で返したそうですわ。
jiji氏の発言の趣旨は、「差別的な価値観に乗るな」である。
だからフェミニストはjiji氏を批判する必要はない。
そしてブログ主お嬢様は、『両者はjiji氏の発言について、どちらの解釈が「より妥当」と言えるのかで論争をしていました。』とまとめておりますわ。
その後に詳細な議論プロセスがブログ主お嬢様の見解とともに書かれていますわ。けっこう長いですけれど面白いので、お時間のあるときに読むと良いと思いましてよ。
ですが、わたくしが扱うのはここまでで殆ど十分ですの。
瀬戸内快男児氏、jiji氏、青識亜論氏、小宮友根氏――4人とも間違っておりますわ!
ゆっくりしていない〈解釈〉は有害無益ですわ!
さあ、スタートしますわね!
最初から検分していきましてよ。まずは発端のこちらですわね。
Aさん(Cさんが想定する外国人の友人)「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」
Cさん(瀬戸内快男児氏)「...と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
Bさん(jiji氏)「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。『あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの』なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで『貞操観念をしっかり持ちましょう~』とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
まず、瀬戸内快男児お嬢様は、イマジナリー外国人お嬢様の「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」という発言を、「貞操観念の低さを問題視した発言」と〈解釈〉していますわ。一方、jijiお嬢様は、同じ発言について「あなた自身(瀬戸内快男児お嬢様)が馬鹿にされてるんだよ。」とやはり〈解釈〉していますわ。
それでは、これらの〈解釈〉はテキストの〈合理的な解釈〉として成立するかしら?
……ちょっとむずかしい気がしますわね?
いえ、成立させることが難しいのではありませんの。なんでも成立させられることが問題ですわ。
〈解釈〉の対象になるテキストは、「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」というたった一言だけですわ。これ以上の情報は一切ありませんわ。この発言の意図を推理するにしても、ほぼありとあらゆる可能性が考えられましてよ。次のようにですわ。
・貞操観念の低い日本女性を馬鹿にして優越感に浸りたかった。(瀬戸内快男児お嬢様?)
・「貞操観念の低い国」「野蛮な国」として日本全体を馬鹿にして優越感に浸りたかった。(jijiお嬢様?)
・自分は近頃日本女性にモテていると自慢したかった。
・純粋に疑問に思ったので、大した考えもなく聞いてみた。
・「日本人女性だらけの日本では、皆さんさぞ簡単におセックスにありついているのでしょうねぇ。羨ましいですわ!」という軽い嫉妬から言った。
・「わたくしには、日本人女性を惹き付ける何か特別な魅力がありまして?」という自分についての質問がしたかった。
・「ちょっと危機意識が足りないんじゃないか? もしくは、嫌でもノーとは言いにくいとか……」と日本人女性を心配していた。
いくらでも出せますから適当に止めますけど、「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」というテキストに適合する文脈は、特にわたくしのようにお小説(ゆ虐小説)を書く文学お嬢様なら無限に思いつくことができますわ。
実際、どの〈解釈〉でも、お好きにおひとつ選んでくださったら、私はそれに「適合する」ような1,000字くらいの小話が作れますわ。外国人お嬢様のキャラクターのディティールを少々付け足して、当該発言に至った経緯を工夫すれば良いだけでしてよ。
私の答えはこうですわ。
一言だけの情報から、いきなり〈解釈〉をはじめた4人のお嬢様は、揃いも揃って慌てん坊お嬢様ですわ。〈解釈〉ではなく、〈質問〉をするべきでしたわ。「おやおや。一体どういうことだい、スティーブ? 今日はずいぶんゴキゲンじゃないか。」とお尋ねするべきでしたのよ。(外国人お嬢様のお名前が「スティーブ」かどうかは知りませんけど、イメージで申し上げましたわ。)
〈解釈〉の〈解釈〉って外れますわよ!
ブログ主お嬢様のまとめが正しければ、「外国人お嬢様の発言」を〈解釈〉したjijiお嬢様の発言を、さらに〈解釈〉したのが青識亜論お嬢様と小宮友根お嬢様ですわ。いわばお互いに〈解釈の解釈〉の妥当性で勝負するって訳ですわね。
なるほどなるほどですわ。へぇー。ふーむ、そういうことですわよね……。
ええと、まあ、その、ごめんなさい。お気を悪くなさらないでくださいまし。
…………頭がおかしいのではなくて?
いやだってそれ外しますわよ。フィルターが二重になってますわ。最初の〈解釈〉だって怪しいのに、そんなぐらついた土台の上でさらに〈解釈〉をするんですの?
論理的に確実に導き出せる〈解釈〉ならいいですわよ。たとえば「私、フルーツは何でも好きですわ!」というテキストに対して、「じゃあ、おリンゴも好きでございましょうね。」と〈解釈〉するのは妥当ですわ。
でも、青識亜論お嬢様の「男性に怒るよう要請している。」も、小宮友根お嬢様の「差別的な価値観に乗るな。」も、元のテキストから論証手続きオンリーで絶対に導出できるってわけじゃありませんわ。あくまでも「ありそうな解釈」ですわ。(「ありそう」であることは否定しませんわ。)
そんなの決着つかないに決まってましてよ。
「いかに『ありそう』か?」なんて最終的には気分の問題ですわ。情報量が絶対的に不足しておりますわ。「一応、ストーリーとしてしっくりくればいい」ならマジ何でもいけますわ。
あなたたちはスティーブに〈質問〉をするべきでしたわ。文脈・背景・経緯を確認するべきでしたの。〈解釈〉はまだ早いですわ。
たとえば、次の文章が〈解釈〉できて? わたくしの本棚にある小説から抜き出したものですわ。
「やれやれ」ウィルはケネディに向かってささやいた。「お楽しみはこれからだったのに」
ケネディがにやりと笑った。「スヌーピーを何匹か相手にするのに、おれの助けはいらないと思ったんだがね」
ここで問題ですわ。「お楽しみ」とは何です? 「スヌーピー」は?
こんな風に聞かれたら、「情報が足りない。」と答えるのが当り前だと思いますわ。
答えは重要ではありませんけれど、前後を含めて改めて引用してみますわね。
うしろから大きなバーンという音がして、犬が地面に倒れた。頭を吹っ飛ばされていた。犬の血が顔にかかるのがわかり、背後から届く銃声が何度か夜気を切り裂いた。精確な射撃で、残った三匹も撃ち殺された。
ウィルがふりむくと、うしろにいた人物がAK-47の銃口を下に向けるところだった。
「やれやれ」ウィルはケネディに向かってささやいた。「お楽しみはこれからだったのに」
ケネディがにやりと笑った。「スヌーピーを何匹か相手にするのに、おれの助けはいらないと思ったんだがね」
「給弾不良を起こしやがった」ウィルははき捨てるようにいった。「帰ったら火器係に文句をいってやる」
「ああ、そのことだが――」ケネディが、犬の死骸の向こうの闇に目を凝らした。「このAKの銃声は、ヘリフォードにも聞こえたんじゃないか」
「お楽しみ」は、おもちゃで遊ぶとか、おエッチなことをするとかではありませんわね。この場合は「襲いかかってきた野犬との戦闘」を指していると〈解釈〉できますわ。また、あえてそれに「お楽しみ」という軽い言葉を使ったのは、「危ないところだったが助かったよ。」と言うのが少々恥ずかしくて、格好をつけたために出てきた台詞だと〈解釈〉できるでしょう。
もちろん「スヌーピー」も、世界的有名マンガのキャラクターのスヌーピーだという〈解釈〉はさすがに有り得ませんわ。犬種は明示されてませんけど、もうちょっと凶暴そうで強そうな、リアルの犬と考えるべきでしょうね。
もうわたくしの言いたいことは大体察していただけると思いますわ。「日本女はなぜに簡単にやらせてくれるの?」の一言で〈解釈〉を始めるのは本当に無茶無謀ですわ。
「最善の相」とやらですわ!
小宮友根お嬢様は、「最善の相」という言葉を使って「採るべき〈解釈〉」の基準を示そうとして、後にそれを取り下げましたわ。おブログでは次のように総括されてますわね。
・「最善の相」という書き方は適切ではなかった。
・「二つの合理的な解釈があるとき、相手の主張に有利な解釈を採用せよ」と要請しているように読める。
・これは自分が意図していた「相手の発言をもっとも合理的に解釈せよ」という要請とは別ものであり、混乱を招くものだったので撤回し、以下のように訂正する。訂正後の主張
・Bさんの発言について、それがフェミニズムの考えに抵触するという解釈と、しないという解釈のいずれもが合理的であるのなら、フェミニストが前者を採用すべきであるということが示されない限り、『フェミニストはjiji氏の発言を批判すべき』とは言えない。
これに対し、青識亜論お嬢様もそろそろ理性が戻ってきたのか、『「合理」とは何を根拠として、どう判断されるものなのか。』(おブログからの引用)と質問していますわ。
もっとも、私なら「〈合理的な解釈〉は2つどころか事実上無数に考えられますわ。情報が全く不足している中で、合理的もクソもありませんわ。」で済ませますわ。
とはいえ、これは青識亜論お嬢様にはすでに言えませんわ。ご自身も初手で〈解釈〉自体はやっちゃってるからですわ。
一応、小宮友根お嬢様が〈合理的な解釈〉をしていると自認している理由は次の通りみたいですわね。(もちろん、私から見ると無意味な饒舌なんですけれど。)
「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらせるの?」発言がセクシズムである理由
・「あなたの国の女性は...」発言は、セクシュアルな傾向について否定的な評価をおこなって卑下をしていると理解するほうが自然だと私は思う。
・その理由は、「女性は貞節でなければならない」という価値観のもとで女性が性的にアクティブであることを否定的に評価し、そうした女性を卑下してきた歴史があり、「あなたの国の女性は…」発言は、その価値観を表現にしていると理解できるからだ。実際、Cさん(瀬戸内快男児氏)もそのような価値感に乗っかっている
・Cさんが「自国の女性」に対して「貞操観念を持ちましょう」と注意したのは、「簡単にやらせる」発言を「あなたの国の女性は貞操観念がない」と否定的に評価されたと理解したからだろう。
・この「貞操観念」からの評価というのは、女性にだけ貞節であることを要求する点で、女性の性的自己決定権を軽んじ男性と対等に扱わない性差別的なもの。(性の二重規準)
・したがって、Cさんは「あなたの国の女性は…」という発言に含まれるセクシズムに乗っかっている、という理解をすることができる。
いや、あなたの感覚は知りませんわよ。歴史のところは一定同意してもいいですけれど、そんな文脈での発言かどうかまではぜんぜん分からないですわ。というか、スティーブは単に最近、日本人女性とあっさりおセックスができて、少しはしゃいでるだけじゃありませんの? 発言から考えても、このスティーブに「女性はしっかりとした貞操観念を持つべきなのに、日本人女性にはそれがない。」と性道徳の乱れを問題視するような真面目さはない気がしますわ。「気がする」くらいでいいですわよね? ええ、自然な気がしますわ。そのように理解することができそうですわ。
まとめ
〈解釈〉は必要な情報を〈質問〉によって集めてから、ゆっくりと慎重に行なうべきですわ!
お嬢様力のさらなる向上を目指して、私も頑張りますわ!