ヤフー知恵袋の生物ネタの記事についたコメント(長文)への返答

 以前に公開した私のこちらの記事について、長文のコメントが寄せられていることに気づいた。日付を見ると、12日前。無視しているようになってしまい、大変申し訳なかったと思う。

 

teshima-kairei.hatenablog.com

 コメントをくださったのはheaven氏である。パラグラフごとに引用し、私からの補足説明または再反論、あるいは「その点についてはそちらが正しい」等と述べていく。

 

いくつか指摘をします。
”「遺伝子が次世代に受け継がれた」と言うためには、次世代の個体が誕生し、かつその個体が次の個体を産むまで生き延びなければならない”
いきなりよくわからないのですが、”遺伝子が次世代に受け継がれた”というためには次世代が生まれればいいだけで、なぜ次々世代の発生まで前々世代が生き延びる必要があるのでしょうか。

 

  確かに「遺伝子が次世代に受け継がれた」という状態を成立させる要件は、次世代が生まれただけで満たされる。これは次に書いたこと(適者生存度の高低を、出産時の個体数だけで判断することはできない)に意識があって、この時点での論理的正確さを欠いてしまった。申し訳ない。

 

”例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は(中略)「適者として生存した」のは明らかに前者だ。”
これは「同種族が同環境で同じように生き残った場合」の話だと思うので、10年1匹の個体が数千万年にわたって繁栄できる環境なら、1年10匹の個体はその次世代も1年で子を10匹産むとして、10年1匹が1匹生むまでに2^10で1024匹、個体数で言えば1000倍以上繁栄します。その逆も然りです。

これはこの後も頻発することなので恐らく悪癖なのだと思いますが、「仮に」や「例えば」と前置きをしながら持論に都合のいい論理展開だけをする(その「例え」の妥当性を無視する)のであれば、その結論も都合の良い何でも有りになり、反論足り得ないと思います。

 

 私が『「仮に」や「例えば」と前置きをしながら持論に都合のいい論理展開だけをする』というのは誤りである。説明しよう。

 問題にされている私の文章は次の部分であろう。

 

 例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は更に次の世代の子を産むことに成功し、その後も数千万年にわたって繁栄したが、「1年しか生き延びなかった親が生んだ10匹の子」の方は次世代を産む前にあえなく全滅し、結果それが最後の一撃で種としても絶滅してしまったとしたら、「適者として生存した」のは明らかに前者だ。

 多産であるのが有効とは限らないというだけの話だが、妙なのは、この文章の前で、回答者もそれを認識しているかに思える点である。

 

 ここで私が説明しているのは、『多産であるのが有効とは限らない』ことである。注意していただきたいのだが、私が使った「10匹は全滅して、1匹は次世代を産み、その後も繁栄できたケース」は、あくまでも『多産であるのが有効とは限らないこと』を示すための一例である。当然、「多産であるのが結果的に有効に働いたケース」もあるだろう。

 

 ただ、前述のような現実的に想定可能な反例があがる以上、「10匹生んだ個体の方が、1匹しか生まなかった個体よりも適者生存したと言える」という言説は間違いか、少なくともひどく大雑把で不正確である。これは私の「ご都合主義的な」思考実験だけに基づいて言っているのではなく、実際に「1匹しか生まなかった個体の方が長く繁栄する」ケースも生物史を眺めれば普通に確認できるだろう。そうでなかったら、生物は皆もっと多産方向に進化するはずだ。だが、現実はそうなっていない。

 

 よって「適者生存度」を1世代の出産個体数だけで決めるのは不合理であり、非科学的である。それを説明するために「反例」(だけ)の存在を指摘するのも、『持論に都合のいい論理展開だけ』をする、『悪癖』とは考えない。むしろ、まっとうな議論である。一般論の主張に反論するには、反例が1つ以上あれば十分である。もっとも、生物が対象の場合は、反例はもっとずっと莫大な数になるものと思われる。

 

”そして、回答者は『どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、(中略)中国やインドの社会力が高いからか(弱者救済措置からは程遠い国々に思えるが)。”
ここでもそうですが、仮にと言って社会福祉の充実度をどうにか数値に落とし込んだのは貴方の都合です。仮定で都合のいい反証をする前に、インドや中国が弱者救済措置(福祉制度)から程遠いのに社会力が高いとするのは疑問、とするのは独り相撲です。では社会力とは福祉制度以外の別の何かではないかと、自身の分析や仮定を見直すべき場面だと思います。

 

 そもそもヤフー回答者がいう『社会がもつ力』とやらが謎である。本来は「障害者などの弱者を生かすこと」が大事だというヤフー回答者が、その主張の基盤となる『社会がもつ力』が何たるかを説明しなくてはならない。

 

これは多分もう一つの悪癖で、文や言葉の意味がわからないので多分これのことだろうと解釈した、するとおかしな結論になるので元の文章の言ってることはおかしい、という論理展開が頻発します。こう書かれれば分かるかと思いますが、疑うべきは解釈のほうです。

 

 この点、悪癖というのはそうかもしれない。ただ、コメント主が考える「悪癖」とは異なる。「私なりに精一杯好意的に解釈して、もしかしてAという意味ですか? でも、Aだとしてもおかしいと思うのですが……」と丁寧かつ下手に出たのが間違いだった。

 そうではなく、むしろもっと簡単に、「『社会がもつ力』などという漠然としたパラメータを未定義で提示されても、それが本当に個体数の多い・少ないに比例しているのか第三者は確かめることもできない。つまり、他者がその妥当性を検証できるような、いわゆる『まともな』考察になっていない」と切り捨てるべきであった。

 この悪癖には、以後注意したいと思う。

 

”回答者は自分で(生存戦略として)『多産なもの少産なもの』もいると書いていたはずである。(中略)少産を選ぶ合理的理由がまったくないはずだからだ。”
それは恐らく少産を選ぶ理由があるのではなく、「多産を選べない合理的理由」があるからです。ちなみに「適者であること」を優先したが故に多産をできなくなった顕著な例はホモサピエンスです。要因は複数あるとされていますが、子を成すのに生物学的に十数年、生態的には二十数年を要する動物種は寡聞にして知りません。

 

 「多産を選べない合理的理由があるから」と「少産を選ぶ合理的理由があるから」は実質的意味が全く同じである(また後述するが、これについてはr戦略とK戦略への不理解または無知が残念ながら作用してしまったものと思われる)。

 また、「適者であることを優先したが故に多産ができなくなったホモサピエンス」も、「適者であること=(出産)個体数が多いこと」としていたヤフー回答者の考えと異なる。「出産個体数を多くすること(適者であること)を優先したがゆえに、多産ができなくなった」と読むしかないが、明らかに妥当な主張として成立しない。優先できていないからだ。つまり、この「適者」判定を出産個体数に基づいて定めるという方法の妥当性に関しては、ヤフー回答者とコメント主の考えは異なると理解していいか。

 

なぜ、「有利」だけを考えているのだろうか。(中略)不利な形質を発現させたせいで絶滅したとも言える。”
有利不利は結果論です。羽が美しいことで絶滅に瀕するなら、その中で羽が美しくなかった個体が生き延びることになる。それを生き延びられる者こそその環境で「有利な性質を持った適者」であり、羽が美しい種の中で羽が美しくない個体の発生頻度や総数を増やすには、早熟多産は効率的です。

 

 有利不利は結果論であることに私も同意する。「やってみなければ分からない」と思う。地球環境の今後の変化まで予測しきらなければ有利不利の判定など出せない。よって私もヤフー回答者のように「計算不可能」と思う。何が有利に働くか、何が不利に働くかは分からない。したがって私は「早熟多産という形式もまた、有利か不利か(効率的か非効率的か)、最終的には結果でしか分からない」と答える。どうして「早熟多産が効率的」なのがあなたには分かるのか。

 早熟多産な種は概して個体としては死にやすい。一方で、晩成少産の種は、個体としては相対的に死ににくいが、1匹死んだ時の損害が大きい。

 このことは、生物学において、r戦略とK戦略と呼ばれる個体数に関する理論で説明される。

 

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r-K戦略説

 heaven氏への回答は以上である。

 

 もうひとつ、てぬ氏から以下のコメントを頂戴したの紹介する。

 こちらのコメントには私も大筋で同意している。

 

ブログ主さんは人間社会の実際と照らし合わせた議論をしていますが、私はそもそも元の知恵袋の回答は生物学的に間違っていると思います。回答者さんの言っているような群淘汰の話は基本的に現代の生物学では否定されており、個体が集団のために行動することはありえません。個体は自分の子孫を残すことだけを考えて行動しています。社会性の昆虫や霊長類は一見他個体のために行動していますが、それらは血縁淘汰や互恵的利他行動などで説明がなされており、結局は自らと同じ遺伝子を残すことが目的です。

 

  異論・反論というわけではないが、生物学を厳密に扱うなら、「目的」という概念の導入には慎重になる必要がある(一般向け説明として「わかりやすい」ので、活用することを否定する意味はない)。「生物学への目的論の導入」は、次に出てくる「自然主義的誤謬」の亜種、「人間中心主義的誤謬」という側面が作用していることが否めない面もある。

 特に分子生物学に目を向ければ、そこで描き出されているのは物理的・化学的反応の絶え間ない連鎖であり、「Aを目的としてBをしている」は、人間の素朴な思考ないしは常識感覚による「解釈」だと考えられる。

 とはいえ、こうした目的論の活用は生物科学で広く認められているところではあり、そう細かく詰めていってもあまり実りは期待できないから、というのも現実論と捉えている。

 

 なお、『人間社会の実際と照らし合わせた議論をし』たことについては、私も妥当性を欠いたものと考えます。失礼しました。

 

また、以上のような生物学的な論理の間違いに加え、そもそも生物学の話を人間社会に安易に当てはめようとすることは、自然主義的誤謬と呼ばれており(元の意味とは少し違うらしいですが)、非常にナンセンスです。生物学でそうであるからといって、人間社会がそうであるべきという論理はおかしく、両者は切り離して考える必要があります。もちろん一切参考にするなという訳ではありません。生物学は上手に扱うことができれば、人間社会にとって有益なものとなります。

以上のような理由で私は元の回答を全く評価しませんが、多くの人が元の回答を絶賛しているところを見ると、大衆の科学リテラシーの低さや、いかに現代において科学が宗教化しているのかが分かり、私は少し怖いです。

 

 『生物学の話を人間社会に安易に当てはめようとする』ことには私も反対する。例えば、一部の動物は「子殺し」(間引き)を行う。明らかにこれは人間社会に適用するわけにはいかない。良くも悪くも、私もやはり切り離して考えるべきという認識である。

 

 大衆の科学リテラシーの低さは、「ありがとうと唱えれば水がきれいになる」などでもたいへんな絶望を味わいました。少しでもよくなっていけばいいのですが。

  

 

 

 

引用がないという致命的欠陥~「フェミニズム叩きの問題」論について~

  次の記事を読んだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

 現代ビジネスのネット記事に高い品質など元来求めるべくもないが、相変わらず批判的意見を述べる際の最低限の規則が守られていない。ここで言う最低限の規則とは、「批判対象の言説は正確に引用すること」(少なくとも出典を明らかにすること)である。

 

 筆者であるベンジャミン・クリッツァー氏は、上記の記事中で「仮想敵」を叩くことの非妥当性を問題視する。彼によれば、弱者男性論者たちは、「女性」や「フェミニスト」といった属性を「仮想敵」として叩くことで、日頃の憂さ晴らしをしているという。そして、そうした言説には妥当性がなく、かえって弱者男性自身を追い詰める始末になっていると分析してみせる。

 

 しかし同時に、クリッツァー氏のこの記事自体も、「弱者男性論者たち」を「仮想敵」として叩いてしまっている。

 記事では「弱者男性論者たちは……」という表現が繰り返し出てくる。しかし、弱者男性論者の個別具体的な主張は全く引用されていない。ただクリッツァー氏による「弱者男性論者たちの主張の要約(概括)」が一方的に提示されるだけだ。

 

 要約は、結局のところ「もとの文章」とは異なる。要約する場合、要約者による歪み・ずれが必ず生じる。それはまさに「仮想敵」問題を引き起こしてしまう。加えてクリッツァー氏は出典も書いていないから、「正しく要約されているのか?」と確かめることもできない。

 例えば、次の3つの文章は、すべてクリッツァー氏による要約である。「もとの文章」はどこにあるのか、誰が言ったのか、全く不明である(強調は引用者=私による)。

 

弱者男性論者たちは「リベラル」以上にフェミニズムに対して批判的な立場をとる。彼らは、女性の「幸福度」は男性よりも高いという調査結果があることや大半の女性は男性に比べて異性のパートナーに不足していないことなどを指摘しながら、女性のつらさは男性のそれに比べて大したものではない、と主張する。そして、女性に有利になるような制度改革やアファーマティブ・アクションなどの必要性を論じるフェミニズムの主張を批判するのだ。

 

弱者男性論者がよく取り上げるトピックに「女性の上昇婚志向」がある。統計的にみて、女性は自分よりも年収が高い男性を結婚相手に選びたがり、いくら自分の年収が高くても自分より年収が低い男性とは結婚したがらない傾向がある。弱者男性論はこの点を強調したうえで、年収が低い男性は経済的に不利であるだけでなく異性のパートナーも得られないことで二重につらさを感じている、と指摘する。

そして、年収が低い男性が感じるつらさの原因を女性の上昇婚志向に求めて、女性たちは年収の低い男性とも結婚するように選択を改めるべきだ、と論じるのである。

 

弱者男性論の多くは、男性のつらさの原因は「女性」にあるとして、女性たちの問題や責任を述べ立てることで女性に対する憎しみや敵意を煽ることに終始しているからだ。

 

 内容を検討する以前の問題である。読者は、クリッツァー氏による要約の正しさに確信が持てない。というより、おそらく正しくないであろうと思わされる。実際、「批判・否定しやすい主張だけ恣意的に取り出しているのではないか?(≒仮想敵を叩く藁人形論法に陥っているのではないか?)」と指摘された場合、クリッツァー氏には返せる言葉がない。

 

 そもそも、「男性論者たちは……と主張する(と指摘する、と論じる)」という構文で書くなら、「……」の部分に入れていいのは、もとの文章(原文)だけである。自己都合によって歪む勝手な要約を入れてはならない。記事では、クリッツァー氏による要約が入ってしまっている。不正行為だと評されても文句は言えない。

 またクリッツァー氏は、「女性」や「フェミニスト」という「属性」(集団)を叩くのを、仮想敵に対する不当な攻撃だとしている。それはそうかもしれない。しかし、そうであれば、「弱者男性論者たち」という「属性」(集団)を叩くのも不当な攻撃だろう。「弱者男性論者たち」もまた、ある特定の思想を(いくらかの異同を含みながら)共有する集団に他ならない。結局、クリッツァー氏は自分で主張したルールさえ守れていない。弱者男性論者たちを『叩いて溜飲を下げて』も、『幸せにはなれない』のではないかと心配である。

 

 教育学者の宇佐美寛氏は、「要約」について次のように述べている(例によって強調者引用者である私による)。

 

 要約(概括)は、要約者がどんな観点で要約するかによって、いろいろに異なってくる。もちろん読者の頭にある要約とも異なる。

 文章を書くのは、読者に読ませ何ごとかをわからせるために書くのである。そのためには、読者と同じ素材を共有しよう。同じ素材を使って、どう思考が進むのか読者に見える文章を書こう。読者といっしょに思考を進めつつある文章を書くのである。

 他の文章を読んだ上でその内容について書く文章をここでは論じているのである。素材を読者と共有してそのような文章を書くためには、要約に頼ってはならない。筆者の頭の具合いで歪みが生ずる。また、前述のように、筆者によって多様な要約があり得る。

 では考え、書くための素材をどう共有するか。引用によってである。要約するのではなく、そのまま引用するのである。

(宇佐美寛編著『作文の論理:[わかる文章]の仕組み』東信堂(1998), p.32)

 

 また続けて、次のようにも書いている。

 

 全て、主張には証拠が要る。文章で何かを主張する場合、主張の証拠をその文章に書きこまねばならない。前述のように、事例も強力な証拠になる。また、他の文章の内容について主張するためには、その文章からの引用が不可欠である。

 他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。証拠も出さずに何かを主張しているわけである。

 また、読者にも〈どんな素材で論じているのか〉、〈どんな証拠で論じているのか〉を示さねばならない。引用が要る。

 要するに、引用によって、筆者と読者、そして対象である文章の筆者は、同じ素材を共有し、平等の関係になるのである。

(同書, p.33)

 

 全くその通りである。引用は必須である。宇佐美寛氏はまた「引用無きところに印象はびこる」(波多野里望編著『なぜ言語技術教育が必要か』明治図書(1992), p.151)とも述べているが、これも覚えておきたい。まさに引用がないことによって、粗雑な印象論に陥ったのがクリッツァー氏の記事であった。

 

ヤフー知恵袋の「素晴らしい回答」が全く素晴らしくないことを示す試み

 下記のツイートを見た。

  ヤフー知恵袋「弱いものは淘汰されても仕方ないのではないか」という主旨の質問がなされ、その回答が最高だというので読んでみた。もちろん本当に「最高」である可能性には期待していなかった。

 生物学が専門でなさそうな人が「淘汰」とか「適者生存」とか言い出したら怪しいサインである。まあ、そもそも「適者生存」自体、生物学者ではなく哲学者がいいだしたことだったりするのだが(ハーバート・スペンサー, 1864年)。

 

 まずは質問文を読んでいこう。例によって、私が特に問題と感じた部分は太字下線で強調する。

 

弱者を抹殺する。

不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。

自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

でも人間の社会では何故それが行
われないのでしょうか?

文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。

優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。

今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。

 

 質問者は、「弱肉強食」は「人間の社会では行われていない」という認識のようだ。しかし、その認識は正しいだろうか。いまだ世界中で紛争やテロは起きているし、また世界の富の82%はたった1%の富裕層に集中している(また別の表現として、世界のトップ26人の超富裕層の総資産額が、世界人口の半分が持つ総資産額と同じになっている)。

 このような格差社会=経済的搾取の仕組みがある中で、弱肉強食がまるで行われていないというのは、単に現実認識として間違っているのではないだろうか。確かに、富裕層は弱者を直接殴って殺すわけではなく、また殺した後で人肉を食べるわけでもないが、経済的搾取によって人を貧困に追い込み、自分は豊かな生活をするというのは間接的な殺人だ。実際、貧困層は病気にかかる率が高く、病気になっても適切な治療が受けられない。毎日の食事もやっとだから、栄養バランスに気をつけた食事など望めない。ゆえに寿命が短い。また俗に「人生詰んだ」と言われる状態になりやすいから、自殺率も高い。このような「追い詰められた」人々が生み出す富を寡占することによって、先進諸国の豊かな生活は成立している。

 

※ご指摘を受けて追記※

 

 グローバルな絶対的貧困については改善傾向にあるため(後述)、上記の文章は正確ではなかった(書いている最中はおおむね日本社会が念頭にあったが、「世界の富は……」と記載した通り、世界的視野の話をしており、それを踏まえると内容が適切でない)。

 「なかったこと」にして削除、変更するかとも考えたが、訂正文をこのように追記していれば本記事がアジテーションの源泉となる恐れはないと思われるため、間違えた証拠として残しておく。

 

※追記部分終わり※

 

 日本内部に限定しても当然、経済的な弱肉強食は作用している。我々がスーパーやコンビニ、100円ショップを利用する時、そこで働いているのはたいてい最低賃金の労働者だ。彼らが時給1,000円程度でいつまでも貧乏な生活を送ってくれているおかげで、どんな金持ちでも安く買い物ができる。あなたの年収が2,000万円であろうと、スーパーの10個パックの卵は100~200円で買える。経済的強者は、ますます安上がりになっている人件費でますます相対的に強くなり、経済的弱者は更に追い詰められる。

 

 ちゃんとデータも見てみよう。『データで見る社会の課題』から引用した。

 

 日本で年収200万円以下で暮らす人の割合は、2000年には18%程度であったのに対し、2014年では24%近くにまで増えている。

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 また、非正規雇用で不安定な生活をする人の比率も増加する一方となっている。

 

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 他にもジニ係数(格差の指標)や自殺率の推移、生活保護世帯の増加など色々なデータが出せるが、総合すると「人間社会はふつうに弱肉強食で動いている」と評して差し支えないように思われる。

 

 また質問者は『今日の社会では弱者を税金だの何だので、生かしています』と言う。私の答えは「いや、殺している」だ。

 税金に話を限定しても、例えば消費増税貧困層ほど相対的負担が重い。直接的には生活が苦しくなり、また中長期的には消費活動が制約された結果として、さまざまな小企業が倒産する。社長・店主や、そこで雇用されていた人たちの一部が自殺する。

 肝心の回収した税金も、法人税の減額でほぼ相殺されている。つまり貧困層から税金を取り、富裕層の税負担を軽くしている。

 

消費税収282兆円 法人税減税で消えた

 

 質問者が言うところの「弱肉強食」という「理に適った世界」は、確かに実現されているので、安心してほしい。

 

※ご指摘を受けて追記②※

 

 以上は日本に限定した話であったが、ツイートで浅井ラボ氏より次のご指摘を受けた。

 

 

 

 世界的視野においては、絶対的貧困は改善されつつあり、弱者救済措置にも力が入れられているとのこと。 このあたりに関しては私の知見が薄く(あるいは古く)、不徹底な記述だった。

 

※追記部分終わり※

 

 では、次に「最高」とツイートで言われていた回答の方を見ていく。こちらは何やら生物学的な回答っぽいが、実は生物学とは程遠い。ひとつひとつ説明しよう。

 

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります

 

 「適者生存」は「個体が生き延びるという意味ではなく、遺伝子が次世代に受け継がれるという意味だ」と回答者は解説しているが、そもそも「遺伝子が次世代に受け継がれた」と言うためには、次世代の個体が誕生し、かつその個体が次の個体を産むまで生き延びなければならないので、この2つを別々に論じることは不可能である。

 例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は更に次の世代の子を産むことに成功し、その後も数千万年にわたって繁栄したが、「1年しか生き延びなかった親が生んだ10匹の子」の方は次世代を産む前にあえなく全滅し、結果それが最後の一撃で種としても絶滅してしまったとしたら、「適者として生存した」のは明らかに前者だ。

 多産であるのが有効とは限らないというだけの話だが、妙なのは、この文章の前で、回答者もそれを認識しているかに思える点である。

 

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります

多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、

あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

 

 「1匹の子と10匹の子」の話からすると、「多産のほうが少産よりも生存戦略として適している」と読んでしまう。この回答文はずっとこうなのだが、基本的に話に一貫性がない。

 

 「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する

個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します

 

 この部分も二重三重に間違っている。まず、「長期の生存が不可能な個体」を「質問主さんがおっしゃる"弱者"です」と決めつけているが、質問文には弱者の定義は書かれていない。また、前提にしている「弱者も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化できる」という話に根拠がない。ここでいう「子孫の繁栄」は、すぐに『どれだけの個体が生き延びられるか』と述べている通り、単純に個体数を指すものと考えられる。ではなぜ、貧困国よりは先進国のほうが、先進国でも昔よりは現在のほうが、「高度に機能的な社会」であるにも関わらず、少子化問題が深刻化しているのだろうか。あるいは、貧困国で人口爆発が懸念されているのだろうか。

 

 そして、回答者は『どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します』と言うが、比例とはy=axで表すことのできる定量的な関係である。『社会の持つ力』とやらは、一体何で表現されるのだろう。仮に社会福祉の充実度あたりをどうにかして数値に落とし込み、それを「社会力」と呼ぶとしても、本当に「個体数=A×社会力」で表せるか。また、「社会力=個体数/A」になるか。中国やインドの個体数(人口)が多いのは、中国やインドの社会力が高いからか(弱者救済措置からは程遠い国々に思えるが)。

 

人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう
生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません

 

 回答者は自分で(生存戦略として)『多産なもの少産なもの』もいると書いていたはずである。この『生物が子孫を増やすのは本源的なものであり……「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません』とは合わない。少産を選ぶ合理的理由がまったくないはずだからだ。

 

遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

 

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

 

 なぜ、「有利」だけを考えているのだろうか。「不利」も考えなくてはならない。ある遺伝子によって発現される形質が『どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能」であるならば、同様に不利に働くかも計算不可能である。であれば、「できる限り多くのパターン」を抱えておくことのメリットとリスクの比較ができない。なぜ、「できる限り多くのパターン」があったほうが生存に有利だと分かるのだろうか。「計算不可能」であるならば、「有利とは分かる」こともない。

 そもそも「不利なパターンを抱えたせいで絶滅する」という現象が起きないとでも思っているのだろうか。例えば羽が美しいことから人間に乱獲された朱鷺は、美しくなければ生き延びられたであろうことを考えると、不利な形質を発現させたせいで絶滅したとも言える。

 

 回答者はパターンを多くすること(多様性をもつこと)を「保険」になぞらえているが、その「保険」は無料ではないし、ノーリスクでもない。ゆえに、生物界はやたらめったら多様性を確保するという選択はしていない(無料かつノーリスクな保険なら加入しまくればいいはずだ)。親と子は「だいたい似ていて、少し違う」くらいのバランスである。私が子をもうけた場合、その子にはおそらく羽は生えていないだろうし、エラ呼吸もできないだろう。全身を犬めいた毛皮で覆われているということもあるまい。ただ私とそっくり同じでもない。これはだいたいは似ていなければ親と同じ生物学的環境に適応できないからだし、全く同じであっても(長期的には)環境の変化に耐えられないからである。個体数にしても多様性にしても同じだが、これらはただひたすら高めれば良いような単純なパラメータではないのだ。

 

 「今の環境で生き延びること」と「将来の環境に備えること」はしばしばトレードオフの関係になる。「今の環境」に最適化しすぎると、その環境が続く限りは強いが、変化が起きたときに弱くなる。一方、「将来の環境」に備えようと多様性を高めすぎると、それは役立たない形質を発現させた個体が多いということにほかならず、今の環境での競争力が弱くなる。つまり「将来」が来る前に絶滅するリスクを抱える。だから、極端なことはやらないのである。

 

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです

「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです

 

 結局「社会科学」らしい。まあ、少なくとも生物学ではないのはこれまで述べてきた通りに確かである。

 そして、その「社会科学」の見解はといえば――って、これ質問文と何の関係があるのだろうか? 「闘争と協働のどちらが人間社会にとって本質的か?」という問いはなかったように思われるが……。

 

 それはさておき、この答えとやらを単独で読んでも意味が分からない。闘争・協働はどうも人間同士の話のようであるが、「闘争」を戦争・紛争・テロといった直接的な攻撃行動に限るとしても、「協働」とどちらが最後になるかは人類の歴史が終わってみるまで分からない。例えば人口が増えすぎ、利用可能な資源が枯渇に近づいていけば、最後は「闘争」しないと生き延びられないとも言える。そこからまた「協働」になるのかもしれないが、しかし当然また「闘争」も起きるだろう。最後とはどこでどうやって区切った場合の話だろうか。

 

 

アゴラ記事『エログロの深夜アニメで町おこしをするべきではない』の論の粗雑さについて

 2021年3月10日、アゴラにて『エログロの深夜アニメで町おこしをするべきではない』という記事が公開された。Twitterでは即座に多方面のネット識者(?)に叩かれまくっていて、当該記事の執筆者である川畑 一樹氏は既にTwitterのアカウントを削除している。

 

agora-web.jp

 

 今回は、上記の記事のバカバカしさを細かく見ていこうと思う。

 

 さて。川畑氏は、まず次のように持論を展開させはじめた。
 特に問題があると思われる部分は下線付き太字で示す。

 

アニメで町おこしという話は最近よく見聞きするが、費用対効果の点で見ても問題が大きいが、本題はそこではない。エログロを売り物にしたアニメが一部の町おこしに使われているのである。

 

 『費用対効果の点で見ても問題が大きい』とのことだが、費用対効果の大小は当然ながらデータに基づいて議論されるべきである。「アニメによる町おこしは費用対効果が小さい」(=問題がある)と主張するなら、最低でも、次の2つのデータは必要だ。

 

1.「アニメで町おこし」にかかる費用のデータ:宣材の制作、イベントの開催等に必要になった諸経費。

2.それによって得られた経済波及効果のデータ:観光客がどれくらい増加したか、またその観光客が地域経済にどれくらいお金を落としたか。また、長期的に増加したのか、一時的な増加にとどまったのか等。

 

 これらを両方見て、その上で結論を出さなければならない。本当にデータを見て、問題が大きいと言っているのか? 私には極めて疑わしく思える。なお、日本政策投資銀行が公開している資料『コンテンツと地域活性化:日本アニメ100年、聖地巡礼を中心に』では、次のように経済波及効果を測定している。

 

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経済波及効果の一般的計測法(日本政策投資銀行資料より)

 

 「アニメで町おこし」が『費用対効果の点で見ても問題が大きい』と主張するなら、このようなデータを少なくとも代表的な「アニメで町おこし」が行われた事例については持っていて、それらを総合的に(統計的に)判断していなければならない。繰り返しになるが、お前は本当にこの作業をやったのか? あるいは、自分自身ではやらないにしても、「アニメで町おこしをするのは費用対効果に乏しい」と根拠付きで示されている信頼性のある論文を複数持っているのか? 持っていないのではないか?

 

 はい。たった一文に対しても、これくらい殴っていきます。

 その後に『本題はそこではない。』と言い訳めいた文章が続いているが、そもそも本題でない話を書くべきではないという指摘を措くとしても、例えば「地動説は間違っているが、本題はそこではない。」と現代で書かれたら、本題であろうとなかろうと、「マジで言ってるの?」とは問われるだろう。

 

 話を続けよう。次に川畑氏はこのように述べている。

 

『おちこぼれフルーツタルト』というアニメがある。登場するキャラクターにわいせつな衣装を着せたり排泄シーンを描いたりしている。舞台は東京都小金井市だが、小金井市では同アニメを題材にした観光イベントなどが実施されており、一部の商店や市議会議員もそれを後援しているという。これに対し一部の市民からは非難の声があがっているが、アニメのプロモーターなどはそれを黙殺し、「エロ」アニメと小金井市を無理やり結び付けようとしている。

 

 『舞台は東京都小金井市だが、小金井市では……』を、なぜ『だが』で繋いでいるのか?

 「だが」という接続詞は、ふつうは逆接である(順接の「だが」もなくはないが)。ここは『(アニメの)舞台が東京都小金井市であることから、小金井市は、同アニメを題材にした観光イベントなどを実施している。』と書くべきだろう。

 この不自然な「だが」は、おそらくパラグラフ末尾の『アニメと小金井市無理やり結び付けようとしている』に引っ張られて書いてしまったものと考えられる。小金井市が舞台だから小金井市でやる。何も無理やりではない。

 

 また、連発されている「一部の」も気になる。どんなことであれ、一部の人は賛成しており、一部の人は反対しているだろう。問題は対立する両者のうち、正当なのはAとBのどちらで、また、何を根拠にそちらを「正当」だと判断できたのかだ。これを書かずに「一部の見解」を紹介しても、情報としての価値がまったくない。

 もう頭が痛いが、先へ進もう。

 

別の事例を挙げたい。『邪神ちゃんドロップキック』というアニメがある。このアニメは人間の住む世界から無理やり連れてこられた「邪神ちゃん」が、人間のキャラクターに拷問ともいうべき過酷な暴力を受けるグロテスクなアニメである。同アニメは北海道千歳市ふるさと納税で1億円以上を集め、実際に千歳市を舞台にしたアニメが作られた。

 

 おいおい。『費用対効果の点で見ても問題が大きい』のではなかったのか? 1億円以上集められているではないか。それとも、宣材の制作やイベントの開催に1億円以上かかっており、最終的には赤字であったというデータでも手元にあるのだろうか。『本題はそこではない』のかもしれないが、読者としては話に一貫性がないと感じられる。やはり本題ではない話は書くべきでないように思われる。かえって不利になっている。

 

 実際、費用対効果、経済波及効果に関する川畑氏の混乱はこの後もずっと続いている。

 

アニメで町おこしをすれば、確かに作品のファンは訪れて一時的な経済効果はもたらされるかもしれない。しかし、エログロ表現で傷つき続ける市民がいることは一顧だにされないか、されたとしても実態より過小評価されることが多い。

町おこしとして使われるアニメは3か月で終わるものが多いことや、アニメの制作・放映本数自体が非常に多いことから、ファンもすぐ飽きて興味の対象がほかのアニメに移ってしまうことが多い。経済効果はほぼ一時的なものであるといえる。

 

 まず、『確かに~かもしれない』という文章が酷い。「確かに」という表現のあとには、確かな内容が続くべきであり、締めくくりに使われている「かもしれない」(そうである可能性も、そうでない可能性もある)という表現とは相性が悪い。

 『邪神ちゃんドロップキック』について言えば、経済波及効果はある程度計測されており(例としては、川畑氏も認識する通り、ふるさと納税1億円以上達成しているなど)、少なくともそれらについては確定した過去の事象である。『確かに作品のファンは訪れて一時的な経済効果はもたされる。』で良い。あるいは、一般論として「アニメで町おこし」が成功することも失敗することもあることが念頭にあるなら、「確かに」の方を削るべきである。未来についての予測が「確か」ではないのは私も同意する。

 

 さて『経済効果はほぼ一時的なものであるといえる。』についてだが、これについては先程の『コンテンツと地域活性化:日本アニメ100年、聖地巡礼を中心に』で反証されている。アニメの効果による雇用者増加や、アニメ放送終了後も観光客の増加が維持されている例が『らきすた』や『あの花』を例に紹介されている(付け加えるなら、『ガルパン』の大洗市もそうであろう)。

 

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  ちなみに、私が引用しているこの資料は「アニメ 町おこし 経済効果」でGoogle検索したら一番上にすぐ出てきた。入手は容易である。もし川畑氏が「1回はGoogle検索する」程度の手間を惜しまなかったら、記事の内容はそれなりに変わっていたはずだ。

 川畑氏は「エログロ表現で傷つき続ける市民が実態より過小評価されている」と憤ってみせているが、川畑氏もアニメによる経済波及効果を実態より過小評価している。というより、おそらく実態に関するデータを調べることさえしていない。そんな状態で何を言おうというのだろう?

 

エログロアニメによりできた心の傷は長期間残る可能性がある。刹那的な利益か中長期的な市民の保護か、どちらを選択すべきかは自明だろう。

以上のことを踏まえた場合、エログロを売り物にしたアニメを町おこしに使うべきではないと筆者は考える。

 

 「長期的に利益が続く場合もあること」(顕著な成功例があること)は立証済みであるため、もはや『自明』ではなくなっている。また、刹那的な利益であっても利益は利益である。そこから回収された税金は、中長期的な市民の保護(社会福祉、インフラ整備等)にも使われる。つまり、そもそも「AかBか?」という単純な二者択一問題は成立していない。

 また、短期が乗り切れなかったら、中長期もクソもない(アニメによる町おこしで経営が維持できた、それがなかったら倒産していた商店街の店などはあるだろう)という簡単な事実も都合よく忘れ去られている。

 

 総評としては、とても愚かである。全部ダメ。本当にゴミ。

 

ユダヤ人虐殺は有用性が高いか?

 ユダヤ人虐殺は有用性が高い」という主張を見たとき、ノータイムで「その評価が正しいかどうかは、設定した目的による」と考えられない人は思考力が低いと言って差し支えない。
 
今回は、おそらく思考力の低い人によって書かれたブログ記事を紹介しつつ、その誤りについて示す。

 まあ、「誤り」というより、基本的な考え方の「できてなさ」への指摘ではあるのだが(別にナチスドイツのユダヤ人虐殺に限定されない)。

 

hokke-ookami.hatenablog.com

 まずこの発端として、次のようなツイートがあったそうだ。

 

 慶応志望の女子が「統治」に関するテーマで、ナチスの政策がいかにすばらしいかということを超論理的に書いて提出してきた。

内容はおよそ高校生が書くものではなかった。

つまり、文体や論理性がずばぬけているのだ。

しかし、「虐殺の有用性」は明らかに倫理に反する。
この答案の採点には困った。

要するに答案としては「満点」なのだが、思想的な側面で無条件で「不合格」にされる可能性があると思ったからだ。

 

  我々は「慶応志望の女子」が書いたという小論文の本文は読めない。だから、私もその小論文について真に評価することはできないが、話を進めるために、上記ツイートの評価はいったん正しいとする(実際の小論文が正しくなくても、「もしも正しく書かれていた場合……」で考えるという意味)。

 

 上のツイートを受けて、hokke-ookami 氏は手短にではあるが次のように反論している。

 

どちらがとはいわないが、予想以上に中学二年生かと思った。いや、中学三年生か*2
たとえ倫理を無視したとしても*3、収容や侵略や殺戮による収奪でいつまでも経済を動かせるわけもないだろうに。

 

 なぜ、「いつまでも経済を動かすこと」を目的として、有用性を測定するのだろうか?

 もちろん、問題の小論文のタイトルが「経済の長期的繁栄のための虐殺の有用性」であれば分かる。その場合、虐殺が長期的には経済に悪影響を与えるとする何らかの根拠を示せば、一応まっとうな反論になる。しかし、目的に関する情報はせいぜい「統治」としか与えられていない。反論者側の都合で勝手に目的を設定し、その目的が虐殺という手段によっては叶えられないことを示しても、反論にはならない。

 

 簡単な例で説明する。

 私が「コピー用紙を切るには、ハサミが有用である」と主張したとする。「コピー用紙を切ること」が目的で、「ハサミを使うこと」が手段である。この時日常的な感覚に照らし合わせて、ハサミは有用性が高いと言ってもいいだろう。一方で、目的が「鶏肉を切ること」であれば、ハサミよりは包丁を使った方がいい。このように、目的が変われば「ハサミを使うこと」という手段の有用性についての評価は変わる。

 そして、私が「コピー用紙を切るには、ハサミが有用である」と主張したのに対し、反論として「しかし、ハサミで鶏肉は切りにくい。ゆえにハサミが有用だというのは間違いだ」と話すのは明らかに間違っている。「そんな話はしていない」の一言で終わる。

 

 ハサミに限らない。あらゆる手段は、何らかの目的が設定されて初めて、有用かどうかが考えられるのである。更に踏み込んでいえば、どのような手段も、目的を適切に選択すれば、有用であると言えるし、有用でないとも言えるのである。

 

 また、反論者側の都合で目的を作り出すことを認めるなら、再反論で同じことをしてはいけない理由もなくなる。つまり、批判された側としても、また新たに目的Xを設定し、「目的Xを叶える上では、ユダヤ人虐殺は有用性が高い」と後付けで言っていい。もちろん、再々反論で「目的Yを叶える上では、ユダヤ人虐殺は有用性が低い」とも言えるのだが、もはや収拾はつかないだろう。議論は完全に破綻する。

 

 以上は「目的を反論者側で勝手に設定してはいけない」という一般論だが、そもそも『収容や侵略や殺戮による収奪でいつまでも経済を動かせるわけもないだろうに。』という主張単体での正しさにも個人的に疑問が残る。まあ、ついでなので述べておく。

 

 「収容や侵略や殺戮による収奪」によって繁栄した国家はいくらでもある。というより、少なくとも主要国では、そのような国しか残っていない。日本とて、「収容や侵略や殺戮」を繰り返す戦国時代を経て徳川幕府が成立し、国としてのまとまりを得た。であれば、「収容や侵略や殺戮による収奪」は、歴史を省みるなら、統治のうえで有用どころか、必要不可欠なプロセスではないか。それとも、ナチスドイツを含む枢軸国が行ったのは悪い収奪だが、連合国が行ったのは善い収奪だったという区分でもあるのだろうか。

 むろん、収奪をずっとやっていたわけではないが、「ずっとやるつもりはない」のは当たり前である。侵略して獲得した領土は「自分のもの」なのだから、自分に従う領民を住まわせて農業や商業を営んでもらう平和的体制に移行させるに決まっている。ヴァイキングじゃあるまいし、「(原始的)収奪でいつまでも経済を回そう」なんて発想はナチスドイツすら抱いていなかっただろう。

 

 更に、上で述べたことと矛盾するようだが、今の世界経済は収奪によって回ってはいないと自信を持って言えるだろうか。私には少々難しく感じる。

 例えば、現実問題として、世界の富の80%は、上位1%の富裕層によって占められている。これはあくまでも誠実な経済活動を行った結果、しかるべき人々が、しかるべき配当を受けているだけなのだろうか?

 

 「いつまでも」経済が回るかどうかは、人類の歴史が終わっていないので分からないにせよ、収奪でも結構長い時間(少なくとも数百年レベルでは)回せる気がしてならない。

主張には、根拠が要る。

 すべての主張・意見・反論・批判には、根拠が要る。「Aである。」と主張するなら、必ず「なぜならば、αだからである。」が要る。自分ではどんなに当たり前の主張だと思われても、1つ以上の根拠は付けねばならない。

 

 私とて、「主張・意見・反論・批判(以下、「主張」と総称する)に根拠が要るのは、完全に当たり前である。」と心底思っている。正直に告白すれば、「なぜ、こんなことを1から述べねばならんのだ?」と少し苛立っている部分さえある。しかし、「すべての主張には根拠が要る。」と言ったからには、まさしくこの主張自体の根拠を述べなくてはならない。

 

「主張」は必ず「比較」がある

 まず、「主張する」ということ自体、「主張に同意しない人がいる」という世界観を前提している。誰もがただちに同意するような話ならば、あえて「主張する」必要はない。例えば、「生きていたいなら、呼吸はしたほうが良い」などとは(ジョーク以外では)いちいち主張されることはない。

 

 我々が主張するのは、我々とは対立する主張の存在を暗にせよ認めているからである。加えて、そうした「対立する主張」よりも、「我々の主張」の方が正しいと思っているからこそ、主張するのである。比べてみた時、自分たちの方が正誤でいえば正で、優劣でいえば優だと考えているのである。

 

 したがって、「主張」には、必然的に「比較」が組み込まれていると言える。しかし、ただ「俺は主張Aが正しいと思う」と言っただけでは、「私は(主張Aとは対立する)主張Bが正しいと思う」という見解と区別がつかない。区別がつかなければ、主張AとBのどちらを採用したほうがいいのか定まらない。ゆえに、「主張Aを正しいと考えるべきだ」という、その根拠が要る。そしてそれは、文章として明確に記述されていなければならない。省略は認められない。

 

「当たり前」は通用しない

 根拠を省略する人は、おおむね自らの主張を「当たり前」だと見做しているようである。しかし、対立する主張の持ち主も、自らの主張を心の底から当たり前だと見做しているかもしれない。この時、どちらが本当に「当たり前」で正しいのかは、結局、双方の主張の根拠をよく検討してみるまで分からない。だから、どんなに自分では当たり前だと思えても、そうとしか感じられなくても、必ず根拠を書かなくてはならない。省略してはならない。

 

 繰り返しになるが、私としても、「すべての主張には、根拠が要る。」という主張を、心底から、本当に切実に、完全に、当たり前だと思っている。言うまでもないと感じている。それでも、「当たり前」で済ませずに、こうして記事を書き連ねている。なぜ主張に根拠をつけるべきなのか、そして、どのような根拠をつけるべきなのか、詳細に述べる。

 

主張に優劣のつく具体的根拠が要る 

 対立するか、少なくとも共存はしない主張A・Bの優劣を決める以上、「どちらの主張の根拠にも使える事柄」は役に立たない。この点に注意が要る。「猫ではなく、犬を飼うべきだ。」と主張するなら、猫にはなくて犬にはあるような何らかの利点を根拠に挙げねばならない。「なぜなら、室内で飼えるからだ。」という根拠を付けても、それは猫にも犬にも成立してしまう。優劣が示せない。

 

 「どうして親切に説明してやらなきゃいけない?」「正しい主張だと分かるまで、自分で調べろ!」といった当たり前論法の変種・亜種も、逆の立場でも使えるため、優劣が示せない。論理的な形式上は「根拠」ではあるが、使い物にならない。例えば「私の主張が正しいと分からないのは、調べ方が足りないからだ。」は、どんな立場を採るにせよ、自分に都合がいい結果が出るまで粘れる。

 

 また、根拠を述べずに「詭弁だ」「矛盾している」と言い立てるのも同じで、「詭弁ではない」「矛盾していない」とやはり無根拠に言い立てるのと何ら変わらない。

 

 これでは優劣が分からないから、せめて「○○という教科書に書いてある。」「あなたの✕✕という見解は、どこの教科書にも記載されていない。」程度の根拠は要る。「詭弁だ」というのなら、「あなたの書いた『……』という箇所は、藁人形論法という詭弁に陥っている。したがって、間違っている」くらいは書かねばならない。そうして初めて、「否、藁人形論法には該当しない。なぜなら……」や「確かに藁人形論法になってしまっている。取り下げる。」と次が繋がる。健全な議論になる。

 

 こう書くと、「あまりにもくだらないから、言わないのだ。」「主張Aが正しいなんて言っていたら、あなたが恥をかくだけですよ。」とか言って、まだ粘る人たちもいるだろう。全く同じである。逆の立場からも同じことが言える。やはり優劣をつけるような具体的根拠が要る。

 

 他山の石とすべき駄目な例

 今まで私が受け取ったリプライ・コメントの中から、駄目な例を3つ紹介する。

 まず、Togetterまとめについたコメントである。

 

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https://togetter.com/li/1619569,2020年11月9日閲覧

 

  リンク先のまとめを読んでもらえば分かると思うが、私は主張にかなり細かく根拠をつけている。例えば『「日本のフェミニストは昔から(遅くとも1970年代から)経口避妊薬の導入に賛成していて、リプロダクティブ・ライツの確立に取り組んできたのだ」という主張は、端的に偽であろう。』という主張(ツイート)に至るまでには、根拠として文献や別のTogetterまとめへのリンクをつけ、中でも特に重要な部分は引用して示した。

 また、『(経口避妊薬を)「女たちが求めなかった」のは単に道理』であるという主張にも、その根拠として サリドマイド薬害などがあり、経口避妊薬解禁に不利な世論が形成されていたこと。②合法的に人工中絶が可能な日本は、そうでない諸外国と比べ、経口避妊薬に対する切迫感が乏しかったこと。この2点を挙げた。

 

 それで、何が『お前の中ではそうなんだろうな。』なのだろうか? この言葉は、暗に「あなたの独善的見解であり、公式・正式な見解とは異なる」というニュアンスを含んでいるが、そう考えられる根拠は何だろうか。経口避妊薬解禁に不利な世論などなかった。」または経口避妊薬に対する切迫感は日本にも十分にあった。」と言える根拠があるのだろうか。おそらく、無いだろう。それがあるのなら、漠然と「間違っていそうな感じ」を匂わせるのではなく、具体的に示した方が私の主張にダメージを与えられるはずだ。

 

 また別件で、次のようなリプライを頂戴した。

 

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https://twitter.com/jungle__penguin/status/1324008150731616256, 2020年11月9日閲覧

 

 いわゆる「詭弁」は、「藁人形論法」や「合成の誤謬」「性急な一般化」のように名前がついているが、その中で、私の主張はどの種類の詭弁に該当するのか。

 逆に、この人が詭弁に陥っていることなら私は具体的に指摘できる。論点のすり替えである。私は「『性的搾取』という概念の使い方」を論点として、「性的なイラストに対して、Twitterで一部のフェミニストが『性的搾取』だと批判しているが、定義からすると濫用にあたり、正しくない。」と主張した。この主張の妥当性と、『一口に「フェミ」で括って叩いてる』人がどれくらいいるかは論理的に関係がない。仮にそのような人が「大勢いること」を示せたとしても、あるいは「非常に少数である」としても、私の元の主張は一文字も変更にならない。

 むろん、別の論点として再設定して議論に応じても良いが、勝手につなげて「詭弁だ」と言い立てるのは、論点のすり替えであり、それこそが詭弁である。

 

 また、別のtogetterまとめには、このようなコメントがついた。

 

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https://togetter.com/li/1618566, 2020年11月9日閲覧


 『論理破綻してる。』『テロではないって言い張ってるだけ。』とされたが、根拠は書かれていない。私の主張である「合法的市民活動はテロではない。」は、そもそもあえて「論理」というほど複雑でもない。たった一文である。

 私は国内法の定義、すなわち『政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。』(特定秘密保護法 12条2)に基づき、フェミニストによる苦情の電話や、抗議状の送付は「テロではない」としている。

 しかしながら、いちいちこの法律を持ち出さずとも、国語辞典または日常用法に照らして、これらの行為は通常テロとは判断されない。マスメディアも「抗議の電話が殺到しました。」とは言うが、それを「テロが実行されました。」とは言い換えない。あえてテロと「言い張る」方が、よほど強い根拠を用意しなければならない。ましてやこのコメントのように「省略」できる訳がない。

日記の基本に立ち返ろう

 最近、カロリーの高い記事(書くのに労力が要る記事)が続いた。自分の批判力・文章力を上げるための練習だから良いが、毎回毎回その調子を維持するのは面倒である。よって、今回は「なんかこんな感じで書こうと思ってる」的な緩い話をする。

 

 青識亜論氏が先日、次のツイートをしていた。

 

 

 表現の自由を守るための活動をしている方として、尊敬してやまない青識亜論氏だが、この点に関しては私は直感的に同意できないものを感じた。「直感的に」というのは、まだ煮詰まってはないからである。今回は着想・試論として書く。

 

 歴史上、どんな「成功した」政治活動も、初めはマイノリティの活動として立ち現れる。絶対王政をやめて共和制にしようとか、いや民主制にしようとか、すべての統治形態の変化は「マイノリティとしてスタート」した。そして、それが成功する過程では殆ど必ず暴力が用いられてきた。どちらかといえば、暴力が使われなかったら「無血革命」とか「無血開城」とか言われて珍しがられるくらいだ。

 政治的変化、特に統治形態の変化に関する世界史・日本史を眺めた時、「対話」という要素はいかにも補助的にしか働いていない。「対話」はなくもないが、その対話にしても、武力に代表される「圧力」があって初めて成り立つ。青識亜論氏はしばしば「(ツイッターフェミニストのような活動方針では、長期的に成功しない」と主張するが、私にはどうも「成功しなければいいな」という希望的観測の言い換えにしか思われない。

 日本における民主主義の抬頭にしても、最高権力の座にあった江戸幕府や、その他の統治形態の実現を目指す勢力(民主主義者から見れば競合勢力)に対し、「今回はちょっと民主主義に権力の座を譲ってくれませんかねえ」と穏やかに対話し、「民主主義に反対する人たち」にご納得いただいた訳ではない。えげつない手を何でも使って、とにかく権力の座につき、その後、マイノリティからマジョリティに変化したのである。

 「政治的意見を長期的に存続させる方法は何か?」という問いは、歴史が終わってみないと分からない。長期的に存続したといえば、まずパックス・トクガワーナが思い浮かぶ。ざっくり250年続いたので、ではそのやり方に倣えばいいのだろうか。でもそれって要するに「戦国時代」と呼ばれる内戦の結果であって、「対話的なもの」と限りなく遠い座標にあるのではないかしら、とやはり思うのだ。

 

 このようなことを考えているので、そのうちご本人にぶつける機会に恵まれたいが、今はちょっとまだ準備不足である。「政治的意見の長期的に存続させるような活動のあり方」は、問いの扱う範囲が広い。歴史をかなり注意深く調べなくてはならない。現段階では、「着想」とか「試論」くらいにしかなっていない。