定義論~言葉の再定義とその議論~

 先日、私はネット上のとある人たちと、「テロリズム・テロリスト」と「社会秩序を乱す(乱さない)」について議論をした。しかし、どうにも要領を得ない。この2つはどちらも定義に基づく議論だが、『定義』に関する基礎的理解が異なるようである。Togetterのコメント欄でも「定義をめぐる議論をしても仕方ないのでは?」という疑問も呈された。

 私としては答えてあげたいのだが、TwitterもTogetterも字数制限が厳しい。上記の事柄について明晰に説明するには、『定義論』という領域に手を出す必要があり、140字刻みでちんたらやっていたら終わらない。

 よって、こうして稿を起こすことにした。ブログは字数制限が緩いので大変助かる。
 本記事では、特に次のことを念入りに説明する。

 

  1. 言葉はどのように定義しようが自由であり、どれほど恣意的でも構わない。
  2. 定義に関する議論は十分に有意義でありうる。

 

言葉の定義は自由である

 言葉の定義は、自由にやって良い。これがまず原則である。

 例えば、イヌとネコをまとめてどちらも「犬」という言葉で呼称することにしても良い。むろん、一般常識に照らすと不自然であり、ややこしくて不便でもあるが、「私は『犬』という単語をネコも含むものとして使いますよ」と定義を宣言しておけば、それ単体で間違いとはならない。言葉の定義は、定義文内で矛盾していない限りにおいて、原則としてどのような内容でも与えて良い。実際、学問の世界でも、理系文系を問わず、一般的な言葉を目的に応じて都合よく作り変え、ごく当たり前に使っている。

 物理学者は、「仕事」という古くから使われている日常語に対し、「物体に加わる力と、物体の変位の内積」という、改めて考えると想像を絶するとしか言いようがない身勝手な定義を与えている。(まあ、英語でも”work”なので日本人としては単純に翻訳しただけだが)
 また、普通の生活で「清潔」といえば、対象の物品が大まかに洗うなり拭くなりされていて、目立つ汚れがないくらいの定義だろう。が、病院における「清潔」の定義はより厳しい。「清潔」とは「滅菌あるいは消毒が行われた状態」であり、「不潔」はそうではないすべての状態を指す。あなたがどれほど日常的に掃除を頑張るタイプでも、病院の定義に従えば、おそらくあなたの家は全領域にわたって「不潔」である。あなたは「不潔」な食器で食事を採っているし、「不潔」なベッドで寝ている。
 更に人文学の分野に目を向けるなら、哲学者は「権力」や「政治」という語を、国家-国家間や国家-個人間に限定せず、家庭や学校、職場における小規模な人間関係にも適用できるよう拡張した定義を一般に用いている。また法律の分野でも、「善意」「悪意」などは日常語とは全く異なる定義が採用されている。

 これらの例は定着した「専門用語」だが、ある本一冊の中、論文一報の中、記事一つの中でだけ特別に定義して言葉を使うこともある。例えば、夏目漱石は『現代日本の開化』と題した講演で「開化」という言葉を取り上げ、次のように述べている。

 

開化は人間活力の発現の経路である。と私はこう云いたい。私ばかりじゃない、あなた方だってそういうでしょう。もっともそう云ったところで別に書物に書いてある訳でも何でもない、私がそう言いたいまでの事である

(『現代日本の開化』, 夏目漱石

 

 夏目漱石が定義した「開化」は、「人間活力の発現の経路」である。しかも『別に書物に書いてる訳でも何でもない』と言う。実際、辞書を引いても記載されていない。
 それなら「間違っている」のかというと、そうでもない。夏目漱石がこの日のこの講演では、「開化」という言葉を「人間活力の発現の経路」と定義して扱うというだけである。この後に続くであろう「このように定義した理由・根拠」が甘ければ否認されるであろうし、説得力があるものであれば承認されるだろう。

 辞書的定義や日常用法を無視しているという点でいえば、じつに身勝手な定義だが、物事を「考えること」において、ごく当たり前に為されている。今回はたまたま手近にあった夏目漱石の本から引用したが、こうした「言葉の再定義」はほとんどの本で行われている。巷にあふれる「○○とは何か?」といったタイトルの本(例えば「正義とは何か?」)は、まさか辞書が引けなくて困っている人々を読者層として想定しているのではない。そうではなく、現状の定義は不十分であり、本で語られるであろう著者なりの「新しい定義」こそが何らかの点で有用であると主張しているのである。そして、それこそが読者の期待するところでもある。

 中山元の『思考の用語辞典』では、哲学で重要な主題となる100の「用語」が取り上げられているが(『意識』『外部』『価値』『規範』『共同体』『空間』……等)、いずれも国語辞典であれば100字くらいの「定義」で済む話である。では、あえて別の「用語辞典」として何をしているのかといえば、既存の日常的な言葉について、「もっとこういう要素を取り入れるべきではないか?」「この要素まで含めてしまうとちょっと違うのではないか?」と検討し再定義しているのである。

 

定義にまつわる議論は有意義でありうる

 定義が全く任意に行われ、定義文での矛盾がない限り正誤を問題にできないとすれば、どのように定義の採用・不採用を決めるべきだろうか。答えを先に言えば、あなたがその言葉を使う目的に応じたメリット・デメリットで好きに決めて構わない。

 私は「日本国憲法で保障された権利に基づき、合法的な手続きで自らの意見を訴える人は、テロリストではない」とツイートした。むろん定義は任意なのだから、あなたが「テロ行為」が定義する範囲を広く採ることによって、合憲・合法なテロリストを考えても一向に差し支えない。

 ただ、私はそのような定義を採用することによるデメリットを挙げ、私の定義を採用するメリットを挙げる。つまり、いわば「説得」「勧誘」といったことを試みる。定義の妥当性そのものは論理的には求められないため、あたかも家電製品を宣伝するように、「うちの製品は省電力である」とか「デザインがお洒落である」とか言うわけである。(いずれも「買うべき」という結論を導く論理的に絶対の理由・根拠にはならないことに注意してほしい。なにしろ、そもそもどんな商品も「買わなくていい」かもしれないのだ。どんな定義でも絶対的に採用すべき理由・根拠はない)

 しかし、メリット・デメリットによる説得や勧誘しかないとしても、その議論は決して無意義ではない。家電製品のメリット・デメリットの紹介が、また「これがおすすめ!」とお互い言い合うことが、無意義どころか普通の生活上、かなり有意義なのと同じである。

 私が「テロリスト」の定義から「合憲かつ合法な政治活動家」を外すのは、これらを含めると「テロリスト」の範囲が広がりすぎ、語が本来持つ批判性が乏しくなるからである。例えば、地元の議員に陳情へいき、「この意見を受け容れられないなら、次は投票しない」と言った人を片っ端から「テロリスト」と認定していくとしよう。もちろん、購入した商品が気に入らず、企業にクレームの電話を一本入れた人もやはり「テロリスト」とする。飲食店で受けたサービスが失礼に感じ、何やかんやの文句の締めくくりに「もう来店しない」と言った人も「テロリスト」である。むろん、Amazonレビューや食べログで「★1」をつけた人も「テロリスト」に相違ない。世の中「テロリスト」だらけである。

 さて「テロリスト」がこのようであるならば、私は「テロリスト」と呼ばれても全く問題とは感じない。私は自身が為した「テロ行為」を改めようなどとは決して思わないし、「テロ行為には反対だ」とも断じて口にしない。むしろ「やっていこう、テロ行為!(ただし合憲・合法なものに限る)」などとスローガンをぶち上げても良い。批判性が乏しくなるというのは、要するに「言われた相手に些かの反省も促せない」ということである。社会的な「否定」のレッテルとしても機能不全を起こしてしまう。

 一方で、違憲・違法であることが「テロリスト」の条件のうちに含まれているのならば、「手嶋海嶺=テロリスト」という認定を受けた時、先程のように「はいはい、私はテロリストですよ」と呑気に構えてはいられない。「テロ行為はやめるべだ」と言われたら、全くその通りだと思う。自分の行為がテロではないと示すことに躍起にならなければならないだろう。

 確かに「テロ」の定義を拡張すれば、多くの人をテロリスト扱い出来る。だがその時、広くした分だけ否定する力は弱くなっている。これは定義を拡張した時にほとんど必ず起きる問題である。

 もちろん、あなたが「とにかく多くの人をテロリストと呼びたい」という目的を持ち、「否定のレッテルとして弱くなる」ことには無関心な場合、私の定義を採用してくれなくても構わない。それはもしかすると、自分は拡張した定義でさえテロリストにならないという一種の自信から来るものかもしれない。私が言うような狭い定義のテロリストでは、日常的に相対せざるを得ない「むかつく」連中をほとんどテロリスト呼ばわり出来ないので不便である、という事情もひょっとするとあるかもしれない。

 ただその概念の拡大路線は、わりと『性的搾取』という語の定義を、実在女性のセックスワークの利益搾取から、非実在女性のイラストの合法的販売・頒布にも「拡大した」フェミニストと同じではないか、と思う次第である。

 

「言葉の再定義」それ自体は批判の対象にならない

 理系文系を問わず、言葉の再定義、辞書的定義からの逸脱というのは、ほとんどどんな書籍でも為されている。むろん、その定義について挙げられているメリット・デメリットが、読者である貴方にとって「ぜひ採用したい」と思わせるには至らないことはありうるだろう。メリットが小さく、デメリットが大きいということは往々にしてある。私の「家電の宣伝」がうまくいかなければ、『営業担当』としては残念だった、と言う他ない。

 しかし、国語辞典を持ち出して「言葉の再定義を行ったことそれ自体」に噛み付いてくるのは、正直、教養の著しい欠乏だとしか思えない。有り得ないのである。新書でも5冊も読めば「言葉の再定義」には遭遇する。哲学の歴史などはこれで動いてきたと言ってもいいくらいだろう。これまでの人生を通して新書5冊さえ読んでこなかったのだろうか。

 そもそも私が「テロリスト」の定義を提示した時、「その定義ではAという問題が起きる」とか「私の言う定義のほうが、Bという点で優れている」などとメリット・デメリットにまつわる反論が来るなら「分かる」のである。そうではなく、「国語辞典から逸脱したこと」を鬼の首を取ったように指摘してくるとは思ってなかった。

 まあ考えてみればそういう人もいるか、と今回、全く当たり前のことを5000字近くかけて書いた。ゆっくりしていってね