主張には、根拠が要る。

 すべての主張・意見・反論・批判には、根拠が要る。「Aである。」と主張するなら、必ず「なぜならば、αだからである。」が要る。自分ではどんなに当たり前の主張だと思われても、1つ以上の根拠は付けねばならない。

 

 私とて、「主張・意見・反論・批判(以下、「主張」と総称する)に根拠が要るのは、完全に当たり前である。」と心底思っている。正直に告白すれば、「なぜ、こんなことを1から述べねばならんのだ?」と少し苛立っている部分さえある。しかし、「すべての主張には根拠が要る。」と言ったからには、まさしくこの主張自体の根拠を述べなくてはならない。

 

「主張」は必ず「比較」がある

 まず、「主張する」ということ自体、「主張に同意しない人がいる」という世界観を前提している。誰もがただちに同意するような話ならば、あえて「主張する」必要はない。例えば、「生きていたいなら、呼吸はしたほうが良い」などとは(ジョーク以外では)いちいち主張されることはない。

 

 我々が主張するのは、我々とは対立する主張の存在を暗にせよ認めているからである。加えて、そうした「対立する主張」よりも、「我々の主張」の方が正しいと思っているからこそ、主張するのである。比べてみた時、自分たちの方が正誤でいえば正で、優劣でいえば優だと考えているのである。

 

 したがって、「主張」には、必然的に「比較」が組み込まれていると言える。しかし、ただ「俺は主張Aが正しいと思う」と言っただけでは、「私は(主張Aとは対立する)主張Bが正しいと思う」という見解と区別がつかない。区別がつかなければ、主張AとBのどちらを採用したほうがいいのか定まらない。ゆえに、「主張Aを正しいと考えるべきだ」という、その根拠が要る。そしてそれは、文章として明確に記述されていなければならない。省略は認められない。

 

「当たり前」は通用しない

 根拠を省略する人は、おおむね自らの主張を「当たり前」だと見做しているようである。しかし、対立する主張の持ち主も、自らの主張を心の底から当たり前だと見做しているかもしれない。この時、どちらが本当に「当たり前」で正しいのかは、結局、双方の主張の根拠をよく検討してみるまで分からない。だから、どんなに自分では当たり前だと思えても、そうとしか感じられなくても、必ず根拠を書かなくてはならない。省略してはならない。

 

 繰り返しになるが、私としても、「すべての主張には、根拠が要る。」という主張を、心底から、本当に切実に、完全に、当たり前だと思っている。言うまでもないと感じている。それでも、「当たり前」で済ませずに、こうして記事を書き連ねている。なぜ主張に根拠をつけるべきなのか、そして、どのような根拠をつけるべきなのか、詳細に述べる。

 

主張に優劣のつく具体的根拠が要る 

 対立するか、少なくとも共存はしない主張A・Bの優劣を決める以上、「どちらの主張の根拠にも使える事柄」は役に立たない。この点に注意が要る。「猫ではなく、犬を飼うべきだ。」と主張するなら、猫にはなくて犬にはあるような何らかの利点を根拠に挙げねばならない。「なぜなら、室内で飼えるからだ。」という根拠を付けても、それは猫にも犬にも成立してしまう。優劣が示せない。

 

 「どうして親切に説明してやらなきゃいけない?」「正しい主張だと分かるまで、自分で調べろ!」といった当たり前論法の変種・亜種も、逆の立場でも使えるため、優劣が示せない。論理的な形式上は「根拠」ではあるが、使い物にならない。例えば「私の主張が正しいと分からないのは、調べ方が足りないからだ。」は、どんな立場を採るにせよ、自分に都合がいい結果が出るまで粘れる。

 

 また、根拠を述べずに「詭弁だ」「矛盾している」と言い立てるのも同じで、「詭弁ではない」「矛盾していない」とやはり無根拠に言い立てるのと何ら変わらない。

 

 これでは優劣が分からないから、せめて「○○という教科書に書いてある。」「あなたの✕✕という見解は、どこの教科書にも記載されていない。」程度の根拠は要る。「詭弁だ」というのなら、「あなたの書いた『……』という箇所は、藁人形論法という詭弁に陥っている。したがって、間違っている」くらいは書かねばならない。そうして初めて、「否、藁人形論法には該当しない。なぜなら……」や「確かに藁人形論法になってしまっている。取り下げる。」と次が繋がる。健全な議論になる。

 

 こう書くと、「あまりにもくだらないから、言わないのだ。」「主張Aが正しいなんて言っていたら、あなたが恥をかくだけですよ。」とか言って、まだ粘る人たちもいるだろう。全く同じである。逆の立場からも同じことが言える。やはり優劣をつけるような具体的根拠が要る。

 

 他山の石とすべき駄目な例

 今まで私が受け取ったリプライ・コメントの中から、駄目な例を3つ紹介する。

 まず、Togetterまとめについたコメントである。

 

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https://togetter.com/li/1619569,2020年11月9日閲覧

 

  リンク先のまとめを読んでもらえば分かると思うが、私は主張にかなり細かく根拠をつけている。例えば『「日本のフェミニストは昔から(遅くとも1970年代から)経口避妊薬の導入に賛成していて、リプロダクティブ・ライツの確立に取り組んできたのだ」という主張は、端的に偽であろう。』という主張(ツイート)に至るまでには、根拠として文献や別のTogetterまとめへのリンクをつけ、中でも特に重要な部分は引用して示した。

 また、『(経口避妊薬を)「女たちが求めなかった」のは単に道理』であるという主張にも、その根拠として サリドマイド薬害などがあり、経口避妊薬解禁に不利な世論が形成されていたこと。②合法的に人工中絶が可能な日本は、そうでない諸外国と比べ、経口避妊薬に対する切迫感が乏しかったこと。この2点を挙げた。

 

 それで、何が『お前の中ではそうなんだろうな。』なのだろうか? この言葉は、暗に「あなたの独善的見解であり、公式・正式な見解とは異なる」というニュアンスを含んでいるが、そう考えられる根拠は何だろうか。経口避妊薬解禁に不利な世論などなかった。」または経口避妊薬に対する切迫感は日本にも十分にあった。」と言える根拠があるのだろうか。おそらく、無いだろう。それがあるのなら、漠然と「間違っていそうな感じ」を匂わせるのではなく、具体的に示した方が私の主張にダメージを与えられるはずだ。

 

 また別件で、次のようなリプライを頂戴した。

 

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https://twitter.com/jungle__penguin/status/1324008150731616256, 2020年11月9日閲覧

 

 いわゆる「詭弁」は、「藁人形論法」や「合成の誤謬」「性急な一般化」のように名前がついているが、その中で、私の主張はどの種類の詭弁に該当するのか。

 逆に、この人が詭弁に陥っていることなら私は具体的に指摘できる。論点のすり替えである。私は「『性的搾取』という概念の使い方」を論点として、「性的なイラストに対して、Twitterで一部のフェミニストが『性的搾取』だと批判しているが、定義からすると濫用にあたり、正しくない。」と主張した。この主張の妥当性と、『一口に「フェミ」で括って叩いてる』人がどれくらいいるかは論理的に関係がない。仮にそのような人が「大勢いること」を示せたとしても、あるいは「非常に少数である」としても、私の元の主張は一文字も変更にならない。

 むろん、別の論点として再設定して議論に応じても良いが、勝手につなげて「詭弁だ」と言い立てるのは、論点のすり替えであり、それこそが詭弁である。

 

 また、別のtogetterまとめには、このようなコメントがついた。

 

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https://togetter.com/li/1618566, 2020年11月9日閲覧


 『論理破綻してる。』『テロではないって言い張ってるだけ。』とされたが、根拠は書かれていない。私の主張である「合法的市民活動はテロではない。」は、そもそもあえて「論理」というほど複雑でもない。たった一文である。

 私は国内法の定義、すなわち『政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。』(特定秘密保護法 12条2)に基づき、フェミニストによる苦情の電話や、抗議状の送付は「テロではない」としている。

 しかしながら、いちいちこの法律を持ち出さずとも、国語辞典または日常用法に照らして、これらの行為は通常テロとは判断されない。マスメディアも「抗議の電話が殺到しました。」とは言うが、それを「テロが実行されました。」とは言い換えない。あえてテロと「言い張る」方が、よほど強い根拠を用意しなければならない。ましてやこのコメントのように「省略」できる訳がない。