ネット議論お嬢様 Part.9:「この指とめよう」という茶番に対する"tu quoque"

「この指とめよう」に集まった「おまいう」

今月、一般社団法人「この指止めよう」が、SNSでの誹謗中傷を止めるための広告企画を発表なさいましたわ。それと同時に、団体の構成員・関係者も明らかにされました。

 さて。「ある団体が、SNSで誹謗中傷を抑止する活動をするらしい。」「その活動に関わる人々はA氏、B氏、C氏……であるそうだ。」という2つの情報さえ分かったら、おネット議論クラスタのお嬢様たちが必ずやることがありますわね?

ええ、そう。――――『おまいう』(お前が言うな)要素探しですわ。

誹謗中傷をするなと人に説教を垂れるその口で、かつて誹謗中傷をしてはいなかったか? またその誹謗中傷について、謝罪も反省もなく未だに放置してはいないか? これらは当然、問われることですわ。発言者は誰であれ、自分の過去の言動に責任を持つべきですわ。

 

というわけで、今回のテーマはこの『おまいう』でしてよ!

 

《偽善の抗弁》 tu quoque

とはいえ、『おまいう』は、気品あるお嬢様が使うには少々相応しくないネットスラングですわね? 修辞学(レトリック)のちゃんとした用語に直しますと、これは『偽善の抗弁』(tu quoque)と言いましてよ。tu quoqueはラテン語で、直訳するなら「あなたもだ」という意味ですわ。「おまいう」とほぼ一緒ですわね。また、ラテン語由来という時点で、とても昔からある論法ということが分かりますわ。まあ記録が残っていないだけで、たぶん旧石器時代でも使われていたでしょうね。

例えば、「どうしてもっとイノシシを狩ってこないんだ? しっかりやれ!」と、ぜんぜん狩りの成果がない人から言われたら、さすがの原始人も「てめえも狩ってこれてねえだろうが!」くらい言い返したはずですわ。まさしく『偽善の抗弁』ですわ。

ただ、この『偽善の抗弁』は、長いこと誤解にさらされていましたの。修辞学の領域でもある時期までは詭弁の一種に分類されていましたわ。というのも、『偽善の抗弁』は相手の主張を直接否定できる訳ではないからですわ。例えば、Wikipediaでも当該論法は次のように詭弁(誤謬)の一種として説明されていますわ。

 

お前だって論法(引用者注:『偽善の抗弁』の別名)は、次のようなパターンをとる。

人物Aが、Xを主張する。
人物Bが、Aの行動や過去の主張などは、主張Xに沿ったものではない、と主張する。
したがって、主張Xは誤りである。

このような例として次のようなやりとりが考えられる。

ピーター:ビルは税金を騙し取っている。
ビル:お前だって未払いの駐車料金が20件もあるくせに、よくもそんなことが言えたもんだ。

相手の道徳上の性格や、行動は、一般的に議論の論理性とは無関係であり、これは誤謬である。この手法は、燻製ニシンの虚偽を用いた戦術でしばしば用いられる、人身攻撃論法のひとつであり、そこではなんらかの主張なり議論が、それを唱えたり、支持したりする者に関する事実によって拒まれることになる。

『お前だって論法』(Wikipedia)

 

「誤謬である。」とばっさりですけれど、あの、普通に考えてくださいまし? ピーターは未払いの駐車料金をさっさと払うべきですわ。「ふっ……誤謬だな! はい論破!」ではないですわ。何を開き直っていますの?

確かに、純粋に論理的に考えた時、『偽善の抗弁』を相手の主張を否定することに使うのは間違いでしょう。実際、相手が駐車料金を滞納しているという事実を指摘しても、自分が騙し取った税金を返さなくていいということにはなりませんわ。

けれど、この論法が批判の対象にしているのは、そもそも発言内容ではなく、発言行為(態度)ですの。他人の悪は口やかまし咎めるのに、自分が犯している同種の悪については知らん顔をしているという、その不公平で矛盾した態度を問題にしているのですわ。

上の例で、なるほどピーターは「ビルは税金を騙し取っている。」と時系列的には先に指摘しています。けれど、それはたまたま先に口を開いたのがピーターだったからに過ぎませんわ。

偶然生じた順番で議論に応じなければならないというルールは無いのですわ。というより、そのようなルールを作るのは、建設的な議論をかえって阻害しますわ。だって、とにかく「先出し」さえすれば、自分ですら解決できない(解決していない)問題でも、一方的に相手だけに説明責任をなすりつけられるルールでしょう? そうであれば、わたくしも一切の自省なく、他人の粗探しだけしますわよ。「お前はどうなんだ?」と言われても、「それは詭弁だ!」とはねつけていればいいのですわよね。

『偽善の抗弁』をその論理構造だけで詭弁と判定するのは、自分のことを棚上げして他人ばかりを責める、お排泄物系お嬢様に不必要かつ有害な特権を与えるだけですわ。

 

それに、どちらが先に自己正当化の答弁をしなければならないかと言えば、それはむしろ「払うべき金を払っていない」という問題を持ち出してきたピーターの方ですわ。ピーターの側が問題意識をもって指摘したのですから、その問題意識がきちんと首尾一貫していて、決して恣意的で一方的な非難ではないことを、まず説明しなくてはなりませんわ。いわば、ピーターは議論の場に立つ資格が問われているのですわ。

もし、ピーターが「駐車料金を払わないのは、金に困っていたからだ。」という論で駐車料金の未払いを正当化するとしましょう。それなら、ビルも「俺もそのとき金に困ってたんだ。」と同じ根拠を(使えるなら)使って正当化できますわ。あるいは、ピーターも一応のところ反省はしつつ、「その時は金がなかったからやむを得ず滞納したが、今月中には駐車料金を払うつもりだ。」と言ったら、ビルは「なるほど。支払いまである程度の準備時間は見てもいいと君は考えている訳だ。ならば私も今月か、来月には騙し取った税金を返そう。」と言えますわ。

お互いに共通した問題については、先に問題を提示した側が、自己正当化または反省・謝罪の答弁をしてルールを確定させる。次にそれに応じる形で相手が答弁する。これこそ、公平で正しい議論の順序というものでしょう。(「税金を騙し取る」と「駐車料金の未払い」が共通の問題といえるのか怪しい気はするのですけれど、便宜上、共通しているものと仮定して扱いますわ。これはWikipediaの例示が悪いと思いますわ。)

自分が抱えている同様の問題についての説明はこっそり隠しておいて――しかも隠していることを指摘されたら「『偽善の抗弁』という詭弁だから答えない。」などと言い逃れをして――相手にだけ説明を求めるのは、「ずる」以外の何でもありません。はっきり申し上げれば、そいつは卑怯者お嬢様ですわ。『偽善の抗弁』は詭弁ではなくってよ!

 

論点の摩り替えにはあたらない

これまた議論の基本ですけれど、ある論点を単に時系列的に先出しされたからといって、その論点を「本当に」先に扱うべきだとは限らないのですわ。実際、提示された論点よりも先に解決しておかなくてはならない論点、いわゆる『先決問題』が存在するケースがありますわ。その場合は、それが先決問題に該当する根拠を述べた上で、堂々と論点を変更すればいいのです。「先に提示された論点を先に扱う」のはバカ正直なだけでしてよ。ちゃんとした根拠があるなら、「論点の摩り替え」には該当いたしませんわ。

 

聖書でも、イエス・キリストが次のように述べておりますわ。

 

自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。(Luke 6:42)

 

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他人の目にある「おが屑」(木材を削った時に出る小さい木片ですわ)よりも、自分の目にある丸太のほうが先決問題だと仰っているわけですわね。たとえ話ではありますけれど、どちらが時系列的に先に指摘したとかではなくて、中身で見て「丸太」>「おが屑」という優先順位があるという指摘ですわ。

ただ、だからといって『偽善の抗弁』が常に優れた反論方法であるという訳でもないですわ。先程チラッと「税金を騙し取る」と「駐車料金を滞納する」は本当に同じ扱いでいいのかと述べましたが、ここが重要でしてよ。要するに、この論法は「あなた『も』やっているが、それはどうなんだ?」と問いただす方法ですから、同一性がそれなりに担保されている必要がありますのよ。同一性がイマイチだと、「それとこれとは違いますわよ!」という言い返しが刺さって死にますわ。

「論法」という構造よりも、やっぱり中身が大事なのですわ。(ついでにいえば、『偽善の抗弁』と類似した概念のWhataboutismも、詭弁になる時とならない時がありますわ。なお、Whataboutismが気になる方は、適当におググりになってくださいまし。話が重複しすぎますわ。)

 

古の知恵に学びつつ、素敵なお嬢様を目指しましょう!