お嬢様のための議論講座 Part.1:ランク別「議論力」向上法

「考えてみれば、ネット議論も『e-Sport』ではありませんこと?」

最近はそんな声もよく聞こえてくるようになりましたわね。それに伴って、悩めるネット議論初心者お嬢様が年々増えているというお話も伺いましたわ。たとえば次のように。

 

・ネット議論をやってみたのですが、言いたいことが上手に言えませんでしたわ。

・煽られたので私もキレ返したら、私のアカウントだけ凍結されましたわ。

絶対わたくしの意見が正しいのに、こっちが間違えたかの如き扱いを受けましたわ。

・相手のクソチート(詭弁)に延々ハメられてますわ。

・参加したつもりのないネット議論に巻き込まれましたわ。

・Togetterに連続ツイートが晒されて、夜も眠れませんわ。

なんだこの野郎ふざけやがって……「分からせ」たい……!

 

いずれも「あるある」と言えましょう。

悔しさで歯ぎしりが止まらないネット議論お嬢様のために、この記事がありますわ。

 

ネット議論お嬢様をA~Dランクの4つに分け、それぞれにアドバイスをいたしますわ。

 

Dランクお嬢様

最初にごめんなさいと謝っておきますわ。Dランクお嬢様は、はっきり言って「論外」のランクでございましてよ。いつもとても乱れた日本語を記述していらして、相手の論はまともに読めていませんわ。必然的に質疑と応答の対応関係もズレてしまって、議論はいつもめちゃくちゃになる――そんなランクですわ。

 

そんなDランクお嬢様がネット議論に強くなるには、小手先の議論テクを知ったり、議論の実戦回数を重ねたりするよりも、インプット量(読書量)を増やすことが最優先ですわ。

 

生まれてから今までに読んだ活字本(エンタメフィクションを含まない、ある程度「お堅い」内容の本ですわ。新書は含めて頂いても結構ですわ。)が300冊未満のお嬢様は、何をどう頑張ってもまともな議論は出来ませんわ。残酷な世界の理ですわね。

 

Dランクお嬢様の特徴で最もわかりやすいのは「日本語の乱れ」ですわ。たとえば「私が感じたことは、この人の言う意見には反対だと思いました。」のような主述のねじれた文、「間違いということに恐れないような覚悟する教育が必要だと思う。」のようなブッ壊れた文を書いてしまいがちですわ。分かる人は、ひと目見ただけであなたがDランクお嬢様だと見抜いてきますのよ。はっきり申し上げれば完全に「狩られる側」でしてよ。ちなみに、おそらくネット議論お嬢様のうち約80%がDランクですわ。

 

Dランクお嬢様にできるのは、まず読むことですわ。浴びるように読書することですわ。自然な日本語表現も、多量の読書を通して自動的に習得されますわ。「活字本300冊なんて多い!」と思うかもしれませんけれど、ネット議論お嬢様のなかには、中学卒業までに――遅くても高校卒業までに――クリアしている人が普通にいますわ。300冊ってぶっちゃけ少ないんですのよ。それにそもそも、まさかスタート地点が0冊ってことはないでしょう? ……いえ、0冊も有り得ますわね。学校で「読まされた」教科書や課題図書はノーカンでしてよ。

 

実際に読む本は、出版社さえしっかりしていれば、「タイトルで興味が感じられる本」で構いませんわ。たとえば新書なら、岩波新書中公新書講談社現代新書ちくま新書から選ぶことですわ。玉石混淆なのは承知しておりますけれど、「本のかたちになっているからといって、内容まで正しいとは限らない。」と批判精神を持って読む練習になりますわ。お金が心配なら、図書館を使うのが良くてよ。

(Dランクお嬢様のために説明すると、「玉石混淆」(ぎょくせきこんこう)は、「すぐれたものと劣ったものが区別なく入り混じっているさま。」を言いますわ。)

 

 

Cランクお嬢様

Cランクお嬢様は、それなりのインプット量があって、一応自然な日本語も書けるお嬢様ですわ。相手からの質問や反論に対して、論理的な対応関係を守った受け答えもだいたい出来ますわ。Cランクとは言いつつも人数は非常に少ないですから、自慢してもよろしくってよ。

 

ですが、Cランクお嬢様はTwitterネット掲示板での「短文のやり取り」はそこそこおやりになれても、「きちんと首尾一貫している『長文』を書く」のが致命的に苦手でいらっしゃいますわ。1000字、2000字、3000字……と増えるうちに、「これは結局、何を仰っしゃりかったんですの?」とか、「最初のほうと最後のほうで、主張が変わっちゃってますわね?」とか、「ここの記述に根拠がなくってよ!」とか指摘されて、それが完全にブッ刺さりますわ。ネット議論では敗北に直結するところですわね。Cランクお嬢様があくまでもCランクお嬢様であって、決してBランクお嬢様ではない理由は「長文力の乏しさ」にありますわ。(「短文のやり取り」でも長期化してくれば結局は長文と同じことですわ。)

 

Cランクお嬢様は、インプット(読書量)を更に増やすのはもちろんのこと、アウトプットも増やしていくべきですわ。2,000字~5,000字程度の記事をたくさん書くのですわ。特に初めは「メインテーマが何かを意識し、話の軸がブレないようにする」と「細かい主張のひとつひとつにも根拠をつける」の2つを意識すると良くてよ!

 

またこのあたりから、議論テクを意識するのもご利益がありますわ。宇佐美寛『作文の論理』香西秀信『反論の技術』の2冊を推薦しておきますわね。議論本・作文本はわたくし50冊くらい読んでますけれど、明確に役立ったのはこの2冊だけでしたわ。詭弁への対策とかも含めてこの2冊でいいですわ。

 

 

Bランクお嬢様

Bランクお嬢様は、きれいな長文を書きこなすことが十分に出来ますわ。大手のお新聞などに掲載されている社説くらいは書けるでしょう。読書量はそろそろ1,000冊を超えたのではなくて? 文章表現にはかなり磨きがかかっていますわ。最初から最後まですんなり読める、そんな良い文章が書けるインテリお嬢様たちですわ。

 

けれど、Bランクお嬢様は素直過ぎると申しますか、「批判的検討」を苦手にしていらっしゃいますわ。良くも悪くも教科書的、文章表現は立派でも肝心の中身が物足りない。誰も真に受けない綺麗事のお説教、すっかり聞き飽きた正論、現実と対応しない無責任な抽象論に走ってしまいがち――このあたりがBランクお嬢様の顕著な弱点ですわ。(あと、奇をてらっただけの逆張りお嬢様もこのランク帯にいますわ。)

 

たとえば、Bランクお嬢様はしばしばこんな文章を書いてしまいますわ。

 

 日本政府は、世界の市場運営の動向を見極めつつ、投資家の保護を最優先に考える必要がある。米国と比べて新興企業への投資が少ないとされてきたが、既存の新興市場の活性化などの論点もある。拙速な議論は避けるべきだ。

読売新聞社説:https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20210516-OYT1T50162/

 

自然な日本語の文章ではあるでしょう。個々の文章表現、あるいは全体の構成についても殊更に文句はありませんわ。設定したメインテーマから話がブレたりもしておりませんわね。

ですけれど、「拙速な議論を避けるべき」だなんて結論は、典型的な「内容空疎で何の役にも立たない正論」に過ぎませんの。こんな当たり前のことは書いて頂かなくて結構。読むだけ時間の無駄でしてよ。

 

Bランクお嬢様は、自分の書く一文一文に対して、「本当に正しい?」「具体的には?」「どんな意義がある?(この文章は必要?)」と考えていくことが大事ですわ。この3つを見落とすインテリお嬢様はとっても沢山いらっしゃいますわ。すらすらと文章が書ける分、意識が宙に浮いてしまう傾向がありますの。

特に、一般論・抽象論は具体的にあてはまる現実の事例が必ずあるはずですわ。一般論・抽象論を書いたら、現実世界にいろいろ当てはめてみて、不備が出ないか落ち着いて確認することが大事ですわ。

 

インテリお嬢様が書いてしまう、「何か立派に見えるけれど、具体的に考えると実はよく分からない一般論・抽象論」は、たとえば次のような感じですわ。わたくしが手ずからおインターネットで拾った、技術者倫理教育について述べた文ですわ。(たぶん筆者は御立派な大学を卒業していますわ。)

 

技術者倫理教育とは、単に技術者はこれをしてはいけない、といったような技術者が直面する課題解決法の教育ではなく、各個人が各人の世界観を持ち、それに照らして価値判断をできるように、価値とは何か、もっといえば自分はいかに生きるかという根源からすべての問題を考えるための基礎を形成するためのものであるべきだと思うのである。

https://www.jsme.or.jp/eec/uploads/sites/5/2016/09/20080107.pdf

 

何か仰ってますわね? 何か仰ってますけれど、わたくしには全然意味が分かりませんわ。

 

「技術者倫理教育」が「課題解決法の教育」だけに限定されてはならないという趣旨のようですわ。では、その限定に陥らない「より優れた技術者倫理教育」とは何でしょう?

 

文章を読むと、それはどうやら『各個人が各人の世界観を持ち、それに照らして価値判断をできるように、価値とは何か、もっといえば自分はいかに生きるかという根源からすべての問題を考えるための基礎を形成する』――ことが出来るような教育みたいですわ。

 

『各個人が各人の世界観を持ち』ですけれど……どんな状態ですの? 教えても教えなくても、各個人にはそれぞれの世界観はあるのではなくて? 世の中には、「世界観を持っている人」「持っていない人」が別々にいらっしゃって、この方の技術者倫理教育を受講すれば、「世界観を持っていない状態」から「世界観を持っている状態」に変化しますの? それはどういう変化ですの?

 

『価値とは何か』――また大きく出ましたわね? ですけれど、たとえば、お会社に勤めていて、お上司の方から「自社製品の性能データを都合よく改ざんしろ。」という命令を受けたとしましょう。それが倫理的に良いことか悪いことか判断し、課題解決を図るために、『価値とは何か』『自分はいかに生きるか』という『根源』から考える必要って、本当にありまして? 続きで『すべての問題』と仰ってますから、きっと必要があると論じるのでしょうけれど、このデータ改ざん命令のケースだとどうなりますの。受講すると、断固として断る力が強くなりますの?

ちょっとお願いがあるのですけれど、「旧来の倫理教育しか受けていない人はその問題に……という程度にしか答えられないだろうが、私の新しい技術者教育を受けた人なら……と(より良く)答えられるはずだ。」を穴埋めする形で、明晰に述べてみてくださる? あなた、ひょっとして出来ないのではなくて?

 

まあ、意地悪はこれくらいにしておいて差し上げましょう。

 

 Bランクお嬢様は、基本的にはお利口なのですけれど、このように浮足立っていることも多いですわ。特に私など、相手がインテリお嬢様と見れば、上の例のように「ひたすら足元を蹴る」ことにしていますわ。そこを攻撃されないとでも思っているのか、なぜかガードが甘いんですの。

 

Aランクお嬢様

Aランクお嬢様は、「批判的検討」を得意とする者ですわ。更に具体的に言い換えれば、「反論を先回りして考える力」と「自己批正する力」の2つを十分以上に習得した素敵なお嬢様ですわ。

 

数学における証明、自然科学の実験に基づく論証の結論を除けば、すべての意見にはおおいに反論があり得ますわ。様々な角度からの、多数の反論があり得ますわ。Aランクお嬢様とは、要するにそうした多数のありうる反論を幅広く思いつくことが出来て、対策しておけるお嬢様でしてよ。

 

また、Aランクお嬢様は、新たに思いついた反論のほうが元の意見よりも優れていると分かれば、直ちに意見を切り替える力(自己批正する力)を持っていますわ。これまたAランクお嬢様がAランクたりうる理由ですわ。

 

Bランクお嬢様がしばしば「お気に入りの」結論にご執心なさって、「自分の意見が正しい証拠」を探しがちなのに対して、Aランクお嬢様は「自分の意見が間違っている証拠」(反証)を探していることが多いですの。Aランクお嬢様は、ある意見の「正しさ」は、結局のところ、「まだより説得的な反論が為されていない」という消極的事実によってしか支えられないとご存知なのですわ。

 

この検証サイクルを回しているお嬢様と、そうではないお嬢様の〈議論力〉の差は、まさに圧倒的なものですわ。隔絶した別の生き物といってもよろしいでしょう。こうしたAランクお嬢様は、より高い練度のAランクお嬢様でしか相手にできませんわ。

 

手元からAランクお嬢様の議論を紹介してみますわ。宇佐美寛の『議論を逃げるな』から引用しますわ。氏はまず、『自分ではない過去の教育思想家が何を考えたかを解説するのは、教育の研究ではない。』と端的に主張を述べ、その理由を説得的に説明していらっしゃいますわ。

 

 自分ではない過去の教育思想家が何を考えたかを解説するのは、教育の研究ではない。自分自身の実践・情報によって、自分でなければ言えないことを教育現実について言うことこそが、教育の研究である。

 ところが、右の道理をわきまえていない教育史家ばかりである。

 ある大学教授は自分は「ペスタロッチ学」の研究者だと称する。また、他の教授は、何についても「リットはどう考えたか。」の形で答える。

 大学以外の教師でも、大学教員の採用に応募するのに、このような権威主義で動く。例えば、幼児教育のポスト教員として、コメニウス(コメンスキ)あるいはフレーベルの思想を読んでいるというだけの「研究」歴ゆえに応募する。

 日本の教育現実の認識・変革は、最初から意識されていない。

 だから、教育史研究の資格で大学教員になり得た者の多くは、日本の教育現実については不勉強であり無知である。問題意識も劣弱である。知らないのだから、問題意識の起こりようもない。

(中略)

 ところが、教育史研究者は、しばしば、次の類いの言を発する。

「歴史を知るからこそ、現実がわかるのだ。未来への見通しも出来るのだ。」

 彼らは、この種のお守り言葉(呪文)の正しさを確かめているのだろうか。

(中略)

 前記の粗大な呪文に酔う者に言う。

「また、医学の例をとる。『水分は生きるために必要だ。』これは粗大なスローガンである。

 次のように、様ざまな疑問が出る。

 水にどんな毒物が入っていてもいいのか? 塩分は要らないのか? どんな間隔で何回飲むのか? 他のどんな食物といっしょに飲むと、どんな影響が有るのか?」

 教育史の意義についても、右と同様である。

「どんな時代についての研究であっても、それによって『現実がわかる』効果は等しいのか? プラトンを研究しても、デューイを研究しても効果は等しいのか? どんな教育研究を組み合わせても『現実がわかる』効果が有るのか? 例えば、小学校での英語教育についての研究者にとってプラトン思想を知ることは、どんな効果をもたらすのか?」

 とにかく、このような具体的な問いを自ら問う自覚を欠いたままで呪文を唱えないでもらいたい。

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ある意味、Aランクお嬢様が書いた文章は、Dランクお嬢様が書いた文章と同じくらいすぐ分かりますわ。Aランクお嬢様の文章は、一文一文に異様に隙・油断がありませんわ。読者が「なぜ?」と思うところには、必ず「なぜなら……」の回答にあたる文が書いてありますわ。反論を思い浮かべながら読んでいると、まさにその反論を筆者みずからが取り上げて、再反論をブッ込んできますわ。

 

また、これも分かりやすい特徴ですけれど、Aランクお嬢様は「弱い」文末表現の使用頻度が極めて低いですわ。たとえば、これをお読みのお嬢様も、

「……ではないかと思われる。」
「……という気がしてならない。」
「個人的には……と考えている。」
「……ではなかろうか。」
「……と感じさせられた。」

あたりはついつい多用してしまうのではなくて?

 

読者からの反論に身構えてつい顔を出した防衛反応でしょうけれど、いざ反論が来たときに、「いや、そのー、あくまで私にはこれが正しい気がしたというだけで、まあ、あれだ、断定はしていないんだ。個人的な考えで、押し付けようともしてなくて、だから……」とでもグチグチ言うおつもりなんですの? でも、それが通用する場面はないですわよ。わたくし、小学生の頃から20年近くネット議論界隈に顔を出しておりますけれど、この言い訳が通用している場面を見たことがありませんわ。

 

このような逃げ口上を準備するより、ずばりと言い切ってしまって、間違った時は明確に間違ったと分かるようにしておく方が、ずっと利益が大きいですわ。自分の意見を修正し、改善し、洗練させる良い機会ですわ。

 

さて。わたくしも、Aランクお嬢様を目指して頑張りますわ。以上でございましてよ!