【議論】天然居士さんへから頂いたコメントへの再反論~定議論を巡って~

事の経緯

 天然居士さんから下記の文章ではじまるコメントを頂戴した。

 

<手嶋さんが手嶋さんに反論したので、手嶋さんになったつもりで再反論をする>

手嶋氏は議論における説得力を持つためには、過度に恣意的な定義は不必要かつ有害であると主張されている しかし、これは誤りである 以下にそれを述べる

 

 本論に入る前に、経過がややこしいので少し整理しておく。

 議論を時系列順に並べると次の通りである。

 

  1. 【ゆっくり日記】定義論~言葉の再定義とその議論~ - 手嶋海嶺の手記

  2. ネット喧嘩師クラスタで「辞書勢」と呼ばれる立場から自分で自分に反論してみた - 手嶋海嶺の手記

  3. 天然居士さんによる『ネット喧嘩師クラスタで~』への反論(今回、頂戴したもの)
  4. いま読んで頂いている、この記事

 

 私は初めに『定議論』と題して、「既存の言葉を辞書的定義を超えて再定義すること」は有意義であり、また「テロリズム」という語については記事で提示した論拠から「合法・合憲なフェミニズム運動」を含めない方が合理的である旨を主張した。

 そして次の『ネット喧嘩師クラスタで~』の記事で、私は自分の見解に自分で反論した。「辞書的定義は極めて重要である」とし、「テロリズムという語の定義を巡っては、定義の任意性まで引き下がるのは不要かつ有害である。素直に辞書的定義から論じても、目的(合法・合憲なフェミニズム運動をテロリズムに含めない)は達せられる」と結んだ。自分でもこの反論は合理的かつ有効に思われたので、『定議論』で提唱した見解は、部分的に下げる形となった。

 これについて、更に天然居士さんより、私のもと『定議論』の立場を擁護する方向で反論がなされた。それが上記の③にあたり、今回頂戴したコメントである。

 

天然居士さんへの再反論

 さて。「いまの私」は辞書勢寄りである。よって、「いまの私」として、この先から続くパラグラフごとに、天然居士さんへ私なりの反論を試みる。(※引用にあたり、句点は補わせて頂きました。)

 

第一に、肝心のどの辞書・領域の辞書を選ぶべきかの根拠が薄弱である。氏はテロリズムの定義をするにあたり、種々の辞書を取り上げた上で、最終的には日本の法律を採用した。しかしその根拠は端的に言って当時の議論のテーマである。なんとも曖昧ではないか。手嶋氏は原理的な正しさよりも現実社会における説得力を重視しておられる。ならば仮に海外の権威的な辞書の力を利用して聴衆へ強く訴えたい等と申し出があればどう説得するのか。あるいは仮に今回それで良いとしても次回はどうするのか。言葉というものは元来が多義である。手嶋氏が辞書から採用した定義Xに、他の人は同意せぬかもしれない。そうするとそこで議論が発生する。すなわちどの辞書の定義を選ぶべきか、言い換えればどの定義の根拠がもっとも強いのか、という議論である。そしてそれは、先般私が申しあげた再定義における「説得」「勧誘」と何ら変わるところがない。

 

 『どの辞書・領域の辞書を選ぶべきかの根拠が薄弱である』と指摘された。私が選んだ辞書(的なもの)は日本国の法律である。なるほど先般の記事においては肝心の「選んだ根拠」については記述が薄かった。この点は認める。

 しかし、次に述べる理由により、「薄弱」も「曖昧」も実はあたらない。

 辞書的定義の中でも「法律による定義」は特殊である。『採用した定義Xに他の人は同意せぬかもしれない』というのは、確かに通常の議論であればごもっともな指摘である。しかし、法律だけはこれを問題としない。法律には後ろ盾には、警察・軍隊という暴力装置があるからだ。

 裁判所で次のような場面を想像してもらいたい。裁判官が色々の事実や答弁を検討し、私をテロリストと認定する。当然、しかるべき処罰を言い渡たされる。そこで私が「そのテロリストの定義に同意しない!」と叫ぶ。どうなるか? 無視され、投獄され、罪状によっては死刑になるだろう。

 「法律」の特殊性は、まさにこの「相手の賛同・納得・同意を必要としない」ところにある。他のいかなる辞書的定義でも持てない「強制力」だ。

 ゆえに、『再定義における「説得」「勧誘」』とは事情が異なる。法律については、「法律を守るといいことがあるよ!」でも「一緒に法律を守ってみない?」でもない。われわれが幼少期から教わってきた通り、「法律を守れ。さもなくば罰する。」である。ゆえに、少なくとも『再定義における「説得」「勧誘」と何ら変わるところがない』は誤りである。「強制」という明々白々な差異があるからだ。

 むろん、お互いに一市民として、裁判所の外で、テロリズムの定義を言い争っているのであれば、ただ説得的な定義をどちらが出せるか、それこそ議論で争えばいい。ここでは「強制」までは働かない。だが、その議論でも、「日本国において有無を言わさぬ強制が可能なのは法律の定義のみである」という客観的事実は、「法律の定義を採用せよ」と主張する側に大きな有利を与える。「日本国でテロリストと認められず、ゆえにテロリストとしての処罰を受けない人」を「テロリスト」と呼んでも、日本国はテロリストとして扱ってはくれない。「実際に議論してみるまでは分からない」という原則論はあるとしても、この不利を覆す論拠を持ち出すのは、私には「難しい戦い」に思える。

 

次いで、やや些細な点ではあるが、申し開きもしておきたい。手嶋氏は「自らの主張の基盤とした重要な言葉の定義が、明らかに自己都合による恣意的な選択によるものと読者に見られれば、その主張は現実社会における説得力をほとんど喪失する。」と反論を書いておられるが、私の主張をよく読んで頂きたい。私はあくまで「定義を宣言しておけば」という条件を出している ある日いきなりイヌとネコをまとめてどちらも「犬」と呼びたいわけではないし、それで説得力を持てるなどと、独りよがりな妄想をしているわけではない。ただ、この箇所はやや強調が甘かったかもしれず、そこは私の反省点である。話の分わかりやすさを優先するが余り、氏には誤解を与えてしまったかもしれない。

 

 大筋で同意する。あまりにも恣意的と見られないような、説得力のある定義であれば差し支えない。(些細な点とのことなので、この程度にしておく)

 

続いて定義という作業がもつ創造性を改めて強調したい。手嶋氏は新しい定義が生む認識の力を理解しておられないと思うからだ。議論において定義とは、それによって思想・物事に新たな光を当てる作業である。例えば以下のような主張はどう思われるだろうか。「虐待の通告数が多いことを「ワースト」と言ってはいけません。市民の皆様が虐待の疑いを見逃さず、勇気を持って通告した数が全国一なのです。そして、この大量の通告に大阪児相がよく対応しておられると評価しないと。虐待通告数を低く出すために虐待と認定しないようになる自治体が出たら地獄ですよ※1」 辞書の定義とは異なるだろうが、再定義によって新しい視点が生まれている。というより一度これを見ればこれが正しい定義にしか思えなくなる。手嶋氏の(一部の例外を除き)辞書的な定義を常に優先するような姿勢にあってはこれらの視点は望めなかったものである。すなわち手嶋氏は、議論におけるもっともクリエイティブな部分である認識を軽視している。本末転倒とはこのことだ。既に作られた定義から一歩も出れぬとあっては、認識の新たな変化など望めるはずもない。

 

 この部分は、一般論ならば大いに賛同する。特に『議論において定義とは、それによって思想・物事に新たな光を当てる作業である』は至言であると認めざるを得ない。

  ただ、『ワースト』を巡るエピソードは、私も説得的な議論だとは思うが、はたして「『ワースト』の再定義」と言えるか。私は「言えない」と考える。というのも、「ワースト」が「最悪のもの、一番悪いもの」を指すという定義は、このエピソードの中でも変更なく維持されているからだ。要は『虐待の通告数が多い』をワーストの外延に取るべきでない(そもそも「悪いこと」と考えるべきではない)というのが骨子だろう。

 再定義ならば、「最悪のもの、一番悪いもの」という定義文に変更が見られなくてはならない。例えば「貧困率で比較したとき、A国が最も貧困で、B国はその次に貧困である。つまりA国がワーストだが、B国も、すごく貧困であるのは違いない。ゆえに、B国も『貧困率でワースト』と言って良いのではないか」のような議論を展開すれば、これはワーストの定義を拡張しているので、再定義になる。本来含まれなかった「二番目に悪い」を含めているからだ。

 もっとも、これは「引用したエピソードが、論旨に対してやや不適切に思える」という程度の問題に過ぎない。私も「素晴らしい再定義の例」は世の中にいくらでもあると認知している。したがって反論というより、せいぜい「修正が要るのではないか?」という指摘と捉えてもらいたい。

 また『既に作られた定義から一歩も出れぬとあっては、認識の新たな変化など望めるはずもない。』に関しても、まず同意する。この一文は極めて正しい。私は、批判対象となった記事において「辞書勢」として振る舞った。そこで「辞書勢」のさしあたりの定義として『「言葉は辞書の定義に沿って使うべきである」という確固たる信念を持っている。』と書いた。この信念は間違いであると言われれば、私は認めなくてはならない。

 しかしながら――これは私が悪いのであるが――「辞書勢としての信念を持つ」と言いながら、その後に展開した辞書勢としての反論では、「目的に対して辞書的定義から出る必要がないならば…」などと、暗に辞書的定義から出られる余地も残した言い方をしている。これでは、『言葉は辞書の定義に沿って使うべきである』という『確固たる信念』を持っていることにならない。

 最小限に修正すると、『原則として言葉は辞書の定義に沿って使うべきである』くらいであろう。例外なく辞書の定義を使えという立場は、天然居士さんが批判した通りであり、正当化しにくい。私は「完全な辞書勢」として振る舞う難しさから、無意識にすり替えてしまった。むろん、これはただの言い訳であるから、天然居士氏の批判は有効である。

 

総括

 非常にゆっくりした(※ゆ虐クラスタにおける最上級賛辞である)、素晴らしい批判をいただけて私は嬉しい。天然居士さんに感謝を。

 ひとまずの結論としては、ごく常識的な「再定義は意義のあることだから封じるべきではないし、辞書的定義も良いが、目的に照らして適切かどうかが考えられるべきである」といった所に着地したと言えようか。結論は平凡だが、この過程で様々な問題が明らかになり、私としてはかなり頭が整理された。天然居士さんのご協力に改めて感謝する。ゆっくりありがとう!