定義論~言葉の再定義とその議論~

 先日、私はネット上のとある人たちと、「テロリズム・テロリスト」と「社会秩序を乱す(乱さない)」について議論をした。しかし、どうにも要領を得ない。この2つはどちらも定義に基づく議論だが、『定義』に関する基礎的理解が異なるようである。Togetterのコメント欄でも「定義をめぐる議論をしても仕方ないのでは?」という疑問も呈された。

 私としては答えてあげたいのだが、TwitterもTogetterも字数制限が厳しい。上記の事柄について明晰に説明するには、『定義論』という領域に手を出す必要があり、140字刻みでちんたらやっていたら終わらない。

 よって、こうして稿を起こすことにした。ブログは字数制限が緩いので大変助かる。
 本記事では、特に次のことを念入りに説明する。

 

  1. 言葉はどのように定義しようが自由であり、どれほど恣意的でも構わない。
  2. 定義に関する議論は十分に有意義でありうる。

 

言葉の定義は自由である

 言葉の定義は、自由にやって良い。これがまず原則である。

 例えば、イヌとネコをまとめてどちらも「犬」という言葉で呼称することにしても良い。むろん、一般常識に照らすと不自然であり、ややこしくて不便でもあるが、「私は『犬』という単語をネコも含むものとして使いますよ」と定義を宣言しておけば、それ単体で間違いとはならない。言葉の定義は、定義文内で矛盾していない限りにおいて、原則としてどのような内容でも与えて良い。実際、学問の世界でも、理系文系を問わず、一般的な言葉を目的に応じて都合よく作り変え、ごく当たり前に使っている。

 物理学者は、「仕事」という古くから使われている日常語に対し、「物体に加わる力と、物体の変位の内積」という、改めて考えると想像を絶するとしか言いようがない身勝手な定義を与えている。(まあ、英語でも”work”なので日本人としては単純に翻訳しただけだが)
 また、普通の生活で「清潔」といえば、対象の物品が大まかに洗うなり拭くなりされていて、目立つ汚れがないくらいの定義だろう。が、病院における「清潔」の定義はより厳しい。「清潔」とは「滅菌あるいは消毒が行われた状態」であり、「不潔」はそうではないすべての状態を指す。あなたがどれほど日常的に掃除を頑張るタイプでも、病院の定義に従えば、おそらくあなたの家は全領域にわたって「不潔」である。あなたは「不潔」な食器で食事を採っているし、「不潔」なベッドで寝ている。
 更に人文学の分野に目を向けるなら、哲学者は「権力」や「政治」という語を、国家-国家間や国家-個人間に限定せず、家庭や学校、職場における小規模な人間関係にも適用できるよう拡張した定義を一般に用いている。また法律の分野でも、「善意」「悪意」などは日常語とは全く異なる定義が採用されている。

 これらの例は定着した「専門用語」だが、ある本一冊の中、論文一報の中、記事一つの中でだけ特別に定義して言葉を使うこともある。例えば、夏目漱石は『現代日本の開化』と題した講演で「開化」という言葉を取り上げ、次のように述べている。

 

開化は人間活力の発現の経路である。と私はこう云いたい。私ばかりじゃない、あなた方だってそういうでしょう。もっともそう云ったところで別に書物に書いてある訳でも何でもない、私がそう言いたいまでの事である

(『現代日本の開化』, 夏目漱石

 

 夏目漱石が定義した「開化」は、「人間活力の発現の経路」である。しかも『別に書物に書いてる訳でも何でもない』と言う。実際、辞書を引いても記載されていない。
 それなら「間違っている」のかというと、そうでもない。夏目漱石がこの日のこの講演では、「開化」という言葉を「人間活力の発現の経路」と定義して扱うというだけである。この後に続くであろう「このように定義した理由・根拠」が甘ければ否認されるであろうし、説得力があるものであれば承認されるだろう。

 辞書的定義や日常用法を無視しているという点でいえば、じつに身勝手な定義だが、物事を「考えること」において、ごく当たり前に為されている。今回はたまたま手近にあった夏目漱石の本から引用したが、こうした「言葉の再定義」はほとんどの本で行われている。巷にあふれる「○○とは何か?」といったタイトルの本(例えば「正義とは何か?」)は、まさか辞書が引けなくて困っている人々を読者層として想定しているのではない。そうではなく、現状の定義は不十分であり、本で語られるであろう著者なりの「新しい定義」こそが何らかの点で有用であると主張しているのである。そして、それこそが読者の期待するところでもある。

 中山元の『思考の用語辞典』では、哲学で重要な主題となる100の「用語」が取り上げられているが(『意識』『外部』『価値』『規範』『共同体』『空間』……等)、いずれも国語辞典であれば100字くらいの「定義」で済む話である。では、あえて別の「用語辞典」として何をしているのかといえば、既存の日常的な言葉について、「もっとこういう要素を取り入れるべきではないか?」「この要素まで含めてしまうとちょっと違うのではないか?」と検討し再定義しているのである。

 

定義にまつわる議論は有意義でありうる

 定義が全く任意に行われ、定義文での矛盾がない限り正誤を問題にできないとすれば、どのように定義の採用・不採用を決めるべきだろうか。答えを先に言えば、あなたがその言葉を使う目的に応じたメリット・デメリットで好きに決めて構わない。

 私は「日本国憲法で保障された権利に基づき、合法的な手続きで自らの意見を訴える人は、テロリストではない」とツイートした。むろん定義は任意なのだから、あなたが「テロ行為」が定義する範囲を広く採ることによって、合憲・合法なテロリストを考えても一向に差し支えない。

 ただ、私はそのような定義を採用することによるデメリットを挙げ、私の定義を採用するメリットを挙げる。つまり、いわば「説得」「勧誘」といったことを試みる。定義の妥当性そのものは論理的には求められないため、あたかも家電製品を宣伝するように、「うちの製品は省電力である」とか「デザインがお洒落である」とか言うわけである。(いずれも「買うべき」という結論を導く論理的に絶対の理由・根拠にはならないことに注意してほしい。なにしろ、そもそもどんな商品も「買わなくていい」かもしれないのだ。どんな定義でも絶対的に採用すべき理由・根拠はない)

 しかし、メリット・デメリットによる説得や勧誘しかないとしても、その議論は決して無意義ではない。家電製品のメリット・デメリットの紹介が、また「これがおすすめ!」とお互い言い合うことが、無意義どころか普通の生活上、かなり有意義なのと同じである。

 私が「テロリスト」の定義から「合憲かつ合法な政治活動家」を外すのは、これらを含めると「テロリスト」の範囲が広がりすぎ、語が本来持つ批判性が乏しくなるからである。例えば、地元の議員に陳情へいき、「この意見を受け容れられないなら、次は投票しない」と言った人を片っ端から「テロリスト」と認定していくとしよう。もちろん、購入した商品が気に入らず、企業にクレームの電話を一本入れた人もやはり「テロリスト」とする。飲食店で受けたサービスが失礼に感じ、何やかんやの文句の締めくくりに「もう来店しない」と言った人も「テロリスト」である。むろん、Amazonレビューや食べログで「★1」をつけた人も「テロリスト」に相違ない。世の中「テロリスト」だらけである。

 さて「テロリスト」がこのようであるならば、私は「テロリスト」と呼ばれても全く問題とは感じない。私は自身が為した「テロ行為」を改めようなどとは決して思わないし、「テロ行為には反対だ」とも断じて口にしない。むしろ「やっていこう、テロ行為!(ただし合憲・合法なものに限る)」などとスローガンをぶち上げても良い。批判性が乏しくなるというのは、要するに「言われた相手に些かの反省も促せない」ということである。社会的な「否定」のレッテルとしても機能不全を起こしてしまう。

 一方で、違憲・違法であることが「テロリスト」の条件のうちに含まれているのならば、「手嶋海嶺=テロリスト」という認定を受けた時、先程のように「はいはい、私はテロリストですよ」と呑気に構えてはいられない。「テロ行為はやめるべだ」と言われたら、全くその通りだと思う。自分の行為がテロではないと示すことに躍起にならなければならないだろう。

 確かに「テロ」の定義を拡張すれば、多くの人をテロリスト扱い出来る。だがその時、広くした分だけ否定する力は弱くなっている。これは定義を拡張した時にほとんど必ず起きる問題である。

 もちろん、あなたが「とにかく多くの人をテロリストと呼びたい」という目的を持ち、「否定のレッテルとして弱くなる」ことには無関心な場合、私の定義を採用してくれなくても構わない。それはもしかすると、自分は拡張した定義でさえテロリストにならないという一種の自信から来るものかもしれない。私が言うような狭い定義のテロリストでは、日常的に相対せざるを得ない「むかつく」連中をほとんどテロリスト呼ばわり出来ないので不便である、という事情もひょっとするとあるかもしれない。

 ただその概念の拡大路線は、わりと『性的搾取』という語の定義を、実在女性のセックスワークの利益搾取から、非実在女性のイラストの合法的販売・頒布にも「拡大した」フェミニストと同じではないか、と思う次第である。

 

「言葉の再定義」それ自体は批判の対象にならない

 理系文系を問わず、言葉の再定義、辞書的定義からの逸脱というのは、ほとんどどんな書籍でも為されている。むろん、その定義について挙げられているメリット・デメリットが、読者である貴方にとって「ぜひ採用したい」と思わせるには至らないことはありうるだろう。メリットが小さく、デメリットが大きいということは往々にしてある。私の「家電の宣伝」がうまくいかなければ、『営業担当』としては残念だった、と言う他ない。

 しかし、国語辞典を持ち出して「言葉の再定義を行ったことそれ自体」に噛み付いてくるのは、正直、教養の著しい欠乏だとしか思えない。有り得ないのである。新書でも5冊も読めば「言葉の再定義」には遭遇する。哲学の歴史などはこれで動いてきたと言ってもいいくらいだろう。これまでの人生を通して新書5冊さえ読んでこなかったのだろうか。

 そもそも私が「テロリスト」の定義を提示した時、「その定義ではAという問題が起きる」とか「私の言う定義のほうが、Bという点で優れている」などとメリット・デメリットにまつわる反論が来るなら「分かる」のである。そうではなく、「国語辞典から逸脱したこと」を鬼の首を取ったように指摘してくるとは思ってなかった。

 まあ考えてみればそういう人もいるか、と今回、全く当たり前のことを5000字近くかけて書いた。ゆっくりしていってね

 

【ゆっくり日記】ゆっくり虐待自分用URLメモ

  ゆっくり虐待といえばまずはこちらですね。

 

 

 定番の2大巨頭。もうほとんど更新は止まっているが、それぞれ何千作品という蓄積があり、「ゆっくり虐待」の豊かな文化を理解するには避けて通れない道と家様。

 ちなみにpixivも、最近の作品を見つける上で便利だ。マンガが多いのもいい。

 

 

 あとはこのあたり。「ふたばの餡庫」はいまも活発。1万作品くらいSSある。

 

 

 私もできるだけ勉強して参りたいと思います。ではでは。

 

 

 

【ゆっくり日記】一人焼肉に行けないのは権力に囚われた病気(下書き)

 2010年10月16日にしたツイートを記録しておく。説明としての「適切でなさ」はいくつかあるが、ゆっくりするために必要な話だ。「一人で焼き肉に行くことができない」という人は、自分で思っているよりずっと深刻な病にかかっている。現代社会でゆっくり生きるためには、
 
①権力にとらわれていることを自覚する。
②権力にとらわれた状態に拒絶感を覚える。
③権力から離脱し、利用する側に回る。
 
 という3ステップをいずれも踏むことがどうしても必要である。もちろん全部難しい。たとえば「一人で焼き肉に行くのは恥ずかしいから嫌だ」という人は、「好き好んで」そうしているのだと信じたがる。実際、「それに、どうしても食べたいってわけじゃない」とかも言う。
 斯様にして生権力に躾けられた人は、鎖に繋がれていることに気づいてないし、どうにか気づかせても、鎖が解かれるのをむしろ嫌がる。俺はそういう性格だから、性分だから、信念を持っているから、という。が、すべて嘘である。一人で焼き肉に行けないのは「想像上の周りの目」という生権力にとらわれた結果である。「このままとらわれていたい」と『本気で』思うことも含めてそうである。この生権力にとらわれたままでは、ゆっくりすることなど出来はしない。
 
 ※以下はツイートからのメモ。そのうちちゃんと書く。
 
 ゆ虐クラスタは教養あるクラスタなのだけども、「ゆっくりの社会」における権力描写はどうしても死権力に偏りがちなので、現代人としてやはりフーコーの生権力(biopower)を押さえておきたいですね。
 
 『権力』と聞いた時、通常最初に想像されるのは、「偉い人」がいて、何事かを強制してくるってイメージだと思います。ヒトラーみたいな独裁者を思い浮かべるかもしれないし、もっと身近なところなら、子供のときの親や先生をイメージするかもしれません。(処刑してくる訳ではないが逆らえない)
 
 この手のイメージの「権力」を、あえて「死権力」と分けて呼ぶ方法があります。最も素朴でわかりやすい形態の権力のあり方です。「授業中は私語厳禁」という規範は、「授業中に私語をしたら怒鳴りつけられる」「内申点を下げられる」といった『脅し』タイプの死権力で維持されています。
 
 こうした権力は強烈なものですが、一方で、主体が明確で、規範が気に入らなければ倒す相手も分かっているという点で与し易い部分があります。王様が重税を課してくるなら、(現実可能かどうかはさておき)王様を倒せば解決する。
 
 しかし一方で、「ゴミのポイ捨ては良くないことだ」のように、現実的には規範に違反しても具体的にデメリットを押し付けられる訳ではない(一応ポイ捨てを禁ずる法はあるが、空き缶1個を道端に捨てた人を逮捕する警察はいない)のに、守られている規範もあります。
 
 このような規範を維持している権力は、先程の死権力とは異なり、中心となっている主体が存在しません。「ゆっくり虐待趣味は公に言うべきではない」に反抗し革命したいと思っても、内閣総理大臣を倒せば良いというわけではありません。
 ざっくりこういうタイプの権力を「生権力」とか言います。「押し付けられた」と感じるような権力ではなく、「正しいこと」として自分も認め、ゆるく共同体の中で共有され、相互に監視しているような形で働く権力ですね。信号無視をしているところを見られたら居心地が悪い、というような。
 
 ひとくちに「権力」といっても、そのメカニズムはけっこう複雑で、時代・地域・文化・宗教等々でぐにゃぐにゃと形を変えます。「従わされている」「強制されている」という感覚をもたらさないタイプの権力もあるということは、念頭に置いていてよろしきかと存じます。

【ゆっくり日記】「正しさ」に関する基礎的理解/ゆ虐に見る権力闘争

 最近めっきり気温が下がってきた。皆様はゆっくりできていますか。私は生来暑がりなものですから、けっこうゆっくりできています。

 本日は「正しさ」について少し整理しておこうと思う。

 もっとも、ゆっくり虐待クラスタにとっては退屈な話になるだろう。当たり前の話しかしないからだ。

 

 まず「Aは正しい」「Bは正しくない(間違っている)」という『評価』が成立するためには、その評価に先立って何らかの尺度が必要となる。ここでいう「尺度」は、「基準」「規範(ルール)」「価値観」「思想」などと言い換えてもらっても差し支えない。むろん、正誤だけではなく、善悪でも優劣でも事情は同じである。私たちは尺度があって初めて物事を評価できる。

 この時、ただちに問題となるのは「どの尺度を使うのが正しいのか?」という点である。しかし、「ある尺度の正しさを評価する」という分にも、「評価」が入ってしまっている。であれば、やはりまた尺度が必要である。尺度なくして評価はないのだから。

 ではそんな「尺度を評価する尺度」をひとまず「メタ尺度」と呼んでおくとする。だが、やはり同じ問題が起きる。「しかし、どのメタ尺度を使うのが正しいのか?」―――そしてこれは無限に続く。

 

 一部の哲学者や倫理学者は、世の中に雑多に存在し、時には相矛盾するような道徳的規範という尺度の数々から、より優れた尺度を選ぶメタ尺度を提案してきた。そうして出てきたメタ尺度から具体的にひとつ挙げるなら、例えば「最大多数の最大幸福を追求できるような尺度こそが優れている」としたベンサム功利主義である。とはいえこれはすぐに行き詰まる。「俺の幸福を追求できるような尺度こそが優れている」という利己主義にしても「メタ尺度である」という点では同じだ。もし、メタ尺度Aとメタ尺度Bの優劣を評価するなら、「メタ・メタ尺度」を用意しなければならない。

 ここで、「社会みんなの利益を考えている功利主義のほうが、個人的な利益を追い求める利己主義よりも優れている」と評価するとしよう。問題は解決するか。否である。それは「メタ・メタ尺度」による評価を行ったに過ぎない。当然これも「社会のために時に個人の生を犠牲にするような功利主義は、個人的な利益をきちんと守る利己主義よりも劣っている」というような「メタ・メタ尺度」と同格に置かれる。更にどちらが何らかの観点から優れているかを評価しようとすれば、やはりまたメタメタメタ……尺度の問題になっていく。

 つまり「尺度と尺度との比較は、どれほど頑張っても思弁的には決着させることができない」のである。

 

 と、ここまではありきたりな、いわゆる相対主義っぽいお話である。もう少し続きがある。

 

 しかし、我々は現実の生活で「正しさ」を使っている。例えば職場や教室で、「それは論理的に正しくない」と言われたり、「あなたの意見は他の人から全く支持されていない」(民主的に正しくない)と言われたりする。そして、時にはあなたの正しさが否定され、時にはあなたの正しさが肯定される。意見が通らない時があり、通る時がある。思弁的には決着しない尺度の争いも、いざ現実にぶつけ合ってみれば、そこに「勝ち負け」は発生する。世の中には原理上、(いくらでも考え出せるという意味で)無限の尺度が存在しうるが「どの程度通用する尺度か」は異なる。すなわち、「その尺度がもつ権力の強さ」が問題だ。権力闘争が尺度そのものの正しさを与え、その尺度による評価を「正しいもの」としているのである。

 注意すべきは、この「その尺度がもつ権力の強さ」は、固定的なものではないということだ。家庭で通用した尺度が職場では通用しない(家庭で親として偉そうに振る舞えても、職場では無能として肩身の狭い思いをしているとか)、職場で通用した尺度が裁判所では通用しない(サービス残業がそうであろう)、裁判所で通用した尺度が大金持ちには通用しない(カルロス・ゴーンに逃げられた)、といったことが当たり前にある。

 また歴史を参照すればもっと良い。たとえば中世ヨーロッパでは魔女狩りが行われていた。これを現代における尺度の権力情勢から評価して「正しくないことをしていた」と見るのは誤りである。「魔女という認定は正しくなかった」と考えるのも当然誤りである。当時の知的階層である僧侶らが魔女の認定とその処罰に関わる正しさを規定し、大衆もその正しさを自らのものとして受け容れていた。であれば、魔女の認定とその処罰には、明確に「強い権力」に基づいた「正しさ」が与えられていたのであり、「中世ヨーロッパには事実として魔女が存在した」も「正しい言明」なのである。

 

 むろん、もっとより良いのは、ゆっくり虐待小説を読むことである。ゆっくり虐待小説で登場するゆっくりたちは、「おやさいはかってにはえてくる」という世界観を持っている。この世界観は、ゆっくりたちの社会において「正しい判断」となっている。あなたが一匹のゆっくりに姿を変えて彼らの社会に参加するなら、この正しさはおそらく覆せない。そして覆せなかった時、「正しいのに、間違ったゆっくりたちがそれを認めない」と考えるのは誤りである。単純に、ゆっくりの社会のおける権力情勢において「あなたが間違っている」のである。「正しさ」は権力闘争の勝敗で決まるのだから、尺度の衝突で勝てなかった以上は、少なくともその時点においてあなたは正しくない。野菜栽培の布教活動でもして「いずれ支持を得て勝とう」とするのは良いだろう。権力情勢を変化させなければ、あなたは正しいことにならないのだから、適切な対応法の一つである。ただし、もっと良いのは、人間に戻って暴力で社会ごと潰すことである。

 実際、ゆっくり虐待小説における王道パターンでは「人間側の暴力による勝利」によって「おやさい闘争」は幕を閉じる。尺度に関わる原理的問題が解決できたわけではない。ただ「勝敗が決着した」のである。

 「正しさ」が思弁的には求まらない世界に生きる我々に可能なのは、我々がゆっくりできるような尺度に出来るだけ強い権力を付与しようとすることだけである。

 

なぜLGBTクラスタは「ゆっくりできない」存在でしかないか?

 私はLGBTPZNという権利活動に賛成している。聞き慣れない人もいるかもしれない。LGBTPZNとは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーLGBT)に加え、ペドフィリア小児性愛)、ズーフィリア(動物性愛)、ネクロフィリア(死体性愛)にもやはり性的な満足を追求する権利があると主張する人が自ら名乗る呼称である。

 もちろん、信条としてLGBTPZNを掲げる人は、必ずしもPZNだけを対象にしているのではない。他にもさまざま多様にありうる性的傾向を擁護するにあたり、さしあたり「わかりやすい」3つを取り上げているだけである。「あらゆる人々は、具体的な他人の人権を侵害しない限り、ゆっくりしてよい」という理念を表現したのがLGBTPZNである。

 PZNの権利擁護に熱心な私だが、さすがに実在の小児と性交渉を認めるわけではない。また実在の動物虐待にも賛成しないし、死体の使用を許可してやれと言うつもりもない。 しかし、現実の犯罪ではない限り、すなわちフィクション(小説、イラスト、ドール等)である限り、欲望を満たす手段は封じてはならないと考えている。

 まずもって、現代の人権思想は自由が原則であり、自由を制約するには「本当によっぽどの理由」が認められる場合だけである。当然それは「不快に感じるから」という曖昧で程度の低いものであってはならない。このような理由で「PZNの迫害を正当化された」とみなせるなら、およそどのような人権侵害も素通しになってしまう。数学でいえばゼロ除算を認められないのと同じく、これは「人権」という考え方そのものを台無しにしてしまう。

 私の見解を簡単にまとめれば、『「LGBT」という言葉には、それ自体で「PZNの排除」が暗黙のうちに含意されてしまっている、だから賛成できない』という点に尽きる。PZNを排除したLGBT活動とは、人権を重視するのであれば、「やってはいけない」のである。「自分たちの属性だけが助かればよい」というのは、「白人だけが助かれば良い」または「白人と、裕福で教養のある黒人だけが助かれば良い」と主張するのと全く同じである。ゆえに私は「LGBT活動」を、「人権擁護の権利活動」とも「反差別のための戦い」とも認定してやることが出来ない。彼らはお得意の「性的指向性的嗜好」という卑劣な分断政策で、「LGBT」と「PZN」を切り離す。その「切り離す」挙動こそが、人権侵害といい、差別だといって批判するのが本来の人権思想のあるべき姿である。

【ゆっくり日記】アタラクシアとしてのゆっくりぷれいす

 すごい金額の預貯金があって、毎日すごくおいしいものが食べられて、素晴らしい恋人とたくさんの愛人がいて、しかも周りが自分を尊敬し、褒めまくってくれる、とかだろうか?

 それはなかなか難しい。現実に達成する人もいるがまれである。もう少し手軽なゆっくりぷれいすはないものか?

 現実的な制限を考えると、どうしても大半の人は妥協せざるを得ない。しかし、妥協しようにも外界のことはやはりどうにもならない。たいていの人は労働がやめられない。生活が苦しい。

 そこで、心の中にあるゆっくりぷれいすが目指すべき対象の、少なくとも一つとなる。

 古代ギリシャが(あるいは古代ローマだったかもしれないが、とにかく昔の地球の北半球にある特定の地域である)誇る哲人の誰かは、そのゆっくりぷれいすのことを「アタラクシア」(魂の平穏)と呼んだ。

 アタラクシアにたどり着きたい。

【ゆっくり日記】夢記録-1

  私は高校生に戻っていて、駅のホームに立っていた。まわりにいる人たちの顔は全く見覚えがなかったが、なぜか同級生だと分かった。そして、とにかく今から修学旅行であることも分かった。電車がギギィと錆びた車輪を回しながらホームに入ってくる。私たちは乗り込んだ。

 電車は高架上を行き、日本のどこにでもある地方都市の背の低いビル群を見下ろしながら進んでいく。

 外の景色は普通だったが、電車の内部構造がおかしかった。

 私がいる車両は、3メートル四方の真四角という形をしていた。内壁は黒々とした紫色に塗られていて、座席のカバーも同じだった。ところどころで、意味のわからないランプが点滅している。また、お経のようなBGMが響いていた。

 「電車っていうか仏像だね」と誰かが言った。ホームに入ってきた時は極普通の電車だと思っていたのに、いつのまにか車両は仏像ロボットに変形していた。私たちの車両が四角いのは、どうやらロボットの頭部にあたるためだったようだ。

 私は訳が分からなくなったので、窓を開けて再び「普通の」景色を見ようとした。

 気がつけば南国であった。輝く白い砂浜、どこまでも深い青空。ぽつぽつと生えているヤシの木。

 風が私を窓の外まで放り出した。しかし、落ちたのではなかった。上昇気流ようなものが吹いていて、どうやら空を飛べるらしい。

 南国風のこの場所は、上空から旋回して眺めると非常に美しかった。これほどビビットな色彩の乱舞はこれまで経験したことのないものだった。海からは、爽やかさだけを詰め込んだような鮮烈な匂いがした。日本海側で生まれ育った私にとって、海とは磯臭く、陰気臭い場所のはずだが、ここの海はまったく違った。

 しばらく空を飛んでいたが、「修学旅行に戻らねば」という思いをようやく抱いた。「おいて行かれてしまう」と焦燥感を覚えた。早く、早く。

 

 そして目が覚めた。