【ゆっくり日記】一人焼肉に行けないのは権力に囚われた病気(下書き)

 2010年10月16日にしたツイートを記録しておく。説明としての「適切でなさ」はいくつかあるが、ゆっくりするために必要な話だ。「一人で焼き肉に行くことができない」という人は、自分で思っているよりずっと深刻な病にかかっている。現代社会でゆっくり生きるためには、
 
①権力にとらわれていることを自覚する。
②権力にとらわれた状態に拒絶感を覚える。
③権力から離脱し、利用する側に回る。
 
 という3ステップをいずれも踏むことがどうしても必要である。もちろん全部難しい。たとえば「一人で焼き肉に行くのは恥ずかしいから嫌だ」という人は、「好き好んで」そうしているのだと信じたがる。実際、「それに、どうしても食べたいってわけじゃない」とかも言う。
 斯様にして生権力に躾けられた人は、鎖に繋がれていることに気づいてないし、どうにか気づかせても、鎖が解かれるのをむしろ嫌がる。俺はそういう性格だから、性分だから、信念を持っているから、という。が、すべて嘘である。一人で焼き肉に行けないのは「想像上の周りの目」という生権力にとらわれた結果である。「このままとらわれていたい」と『本気で』思うことも含めてそうである。この生権力にとらわれたままでは、ゆっくりすることなど出来はしない。
 
 ※以下はツイートからのメモ。そのうちちゃんと書く。
 
 ゆ虐クラスタは教養あるクラスタなのだけども、「ゆっくりの社会」における権力描写はどうしても死権力に偏りがちなので、現代人としてやはりフーコーの生権力(biopower)を押さえておきたいですね。
 
 『権力』と聞いた時、通常最初に想像されるのは、「偉い人」がいて、何事かを強制してくるってイメージだと思います。ヒトラーみたいな独裁者を思い浮かべるかもしれないし、もっと身近なところなら、子供のときの親や先生をイメージするかもしれません。(処刑してくる訳ではないが逆らえない)
 
 この手のイメージの「権力」を、あえて「死権力」と分けて呼ぶ方法があります。最も素朴でわかりやすい形態の権力のあり方です。「授業中は私語厳禁」という規範は、「授業中に私語をしたら怒鳴りつけられる」「内申点を下げられる」といった『脅し』タイプの死権力で維持されています。
 
 こうした権力は強烈なものですが、一方で、主体が明確で、規範が気に入らなければ倒す相手も分かっているという点で与し易い部分があります。王様が重税を課してくるなら、(現実可能かどうかはさておき)王様を倒せば解決する。
 
 しかし一方で、「ゴミのポイ捨ては良くないことだ」のように、現実的には規範に違反しても具体的にデメリットを押し付けられる訳ではない(一応ポイ捨てを禁ずる法はあるが、空き缶1個を道端に捨てた人を逮捕する警察はいない)のに、守られている規範もあります。
 
 このような規範を維持している権力は、先程の死権力とは異なり、中心となっている主体が存在しません。「ゆっくり虐待趣味は公に言うべきではない」に反抗し革命したいと思っても、内閣総理大臣を倒せば良いというわけではありません。
 ざっくりこういうタイプの権力を「生権力」とか言います。「押し付けられた」と感じるような権力ではなく、「正しいこと」として自分も認め、ゆるく共同体の中で共有され、相互に監視しているような形で働く権力ですね。信号無視をしているところを見られたら居心地が悪い、というような。
 
 ひとくちに「権力」といっても、そのメカニズムはけっこう複雑で、時代・地域・文化・宗教等々でぐにゃぐにゃと形を変えます。「従わされている」「強制されている」という感覚をもたらさないタイプの権力もあるということは、念頭に置いていてよろしきかと存じます。