【検討】Rei氏の『女性は「優しい人が好き」というのに、何故優しい貴方はモテないのか? 』について

 Rei氏が次のnote記事を公開している。

 

note.com

 先にRei氏のnote記事の本論を明示しておこう。以下に引用した本論部分については、特に私も否定すべき点はないように感じた(「弱さは罪だ」は「弱さは性愛の獲得において不利である」の修辞表現であろう)。

 

 この手の話になるとインターネットでは判を押したように「貴方のそれは優しさではなく弱さだからである」「優しいというよりも周囲からの圧力等で自己犠牲的に振舞わざるを得ないからである」「本当の優しさではない」的な言説が寄せられるが、これらは何の根拠もないレッテル貼りである。というのも、この手の疑問には既に実証的な研究が多々あり、既に結論が出ているからだ。そして結論から言えば「優しさはセクシーではない」からである。「優しさ」それ自体は美徳であり、道徳的シグナルであるが女性へのセックスアプローチとしては機能しない。
<略>
 性愛においては男性の弱さは罪だ。しかしながら、弱いないし非モテであるということは決して人格が劣っている事を意味しない。繰り返し言うが、良い悪いは別にして人間の欲望と社会的正しさ・望ましさは必ずしも合致するとは限らないのだ。
<略>

 優しさはセクシーな記号ではなく、モテる/モテないとは無関係である。おっぱいの大きい女性が男性にモテることをもって「社会的に正しい人格をしてる」とはならないように、男性もまた女性にモテることをもって「社会的に正しい人格をしてる」事には決してならないのである。

 

 男性の「優しさ」「誠実さ」「謙虚さ」は、おそらく単に女性のセックスパートナーを獲得する上では好ましくない性質だと、Rei氏はいくつかの論文を提示して、それらをもとに論証している。主張の根拠とした論文を明らかするのは素晴らしいことである。この時点で氏には+5億点ほど差し上げたい(上から目線で恐縮だけれど)。ネット記事で出典論文が明らかにされているのは本当に久々に見た。

 ただ、ごく普通に想像してみても、「優しさ」「誠実さ」「謙虚さ」といった性質を備えた男性は、おそらく女性にアプローチする試行回数が少なく、また1回のアプローチあたりで発揮する「粘り強さ」――ちょっと断られたくらいでは引き下がらない、へこたれない、手を変え品を変え交渉を続ける能力――も低いことが予想される。「失礼かもしれない」「ご迷惑かもしれない」で足踏みする人は、まったくそうでない「傲慢な」人に比べて、セックスパートナーの獲得競争では不利だろう。

 むろん「長期的に安定した関係を築けるか?」となると、また話は別である。Rei氏が引いた3つの論文の研究内容では、長期的関係までは検討されていなかった(これはRei氏の議論が不十分だという指摘ではない。氏の論旨は「優しさではなく弱さ」論への反論であるので、それに対応できる分だけ論じれば良い)。

 

しかし、心理学実験は信用に値するか?

 論文を提示するのは素晴らしいが、心理学分野には業界的に大きな課題がある。2015年、Science誌に"Estimating the reproducibility of psychological science"(心理科学の再現性推定)と題した論文が発表された。著名な心理学学術誌3誌から100報の論文を選出し、その再現性(同じ方法で実験すれば、同じ結果が得られ、同じ結論に到達することができるか?)を確かめるものだったが、残念ながら「再現性は非常に低い」という結果になった。

 幸い、上記論文の要約が日本社会心理学会の手によって和訳されている。以下に紹介する。なお、強調は引用者による。

 

再現性は科学にとってもっとも重要な特徴だが,それが現代の研究をどの程度特徴づけているかは未知である.われわれは3つの心理学ジャーナルで刊行された100本の実験的な相関研究について,強力なデザインと利用可能なら元の研究で使われた材料を用いて追試をした.再現効果 (Mr = .197, SD = .257)は元の研究 (Mr = .403, SD = .188)の半分ほどで,かなり低下していた.元の研究の97%で5%水準で有意な結果が得られていたが,追試ではその割合は36%だった.元論文の効果量が追試の効果量の95%信頼区間に入っていたのは全体の47%,主観的評価で「元論文の結果が再現された」と評定されたのは39%だった.そして,元の研究にバイアスがないと仮定して,元の研究と追試研究を合わせてみたところ,有意な効果が残ったのは68%だった.相関分析によって,追試の成功を予測しうる要因を検討したところ,元の追試を実施した研究チームの特徴よりも,元のエビデンスの強力さの方が関連が深かった.

※日本社会心理学会による翻訳文(掲載元)

 

 これに端を発して、心理学における「再現性の危機」が叫ばれ、研究者団体のCenter of Open Scienceは"Open Science Framework"を立ち上げ、再現性プロジェクトを開始している。心理学でよく出てくる「○○効果」「○○現象」の類はいま非常に疑われていて、世界的な検証作業の真っ只中にある(ちなみにOpen Science Frameworkは無料で登録でき、検証に関わる議論を誰でも閲覧することができる)。

 

 したがって、心理学論文を自分の主張の根拠にする場合、かなり慎重にならなくてはならない。論文1報読んで採用するにはリスクが大きく、他の研究グループの類似実験でも同様に支持されるか、あるいは、逆の結論を支持した論文の方が信頼性が高いのではないかと検討する必要がある。Rei氏は別の部分でTED talkのピフ氏の講演で話された「お金持ちほど慈悲や道徳心が減る」という説を引用しているが、貧困と犯罪(または道徳的行動)に関しては、歴史的に長く研究されており、真逆の結論を支持する論文も多数ある(私が整理して「どちらかというと、~の方が正しいのではないか?」と言おうと思ったが、多すぎて諦めたことを告白しておく。既存の知見との齟齬が解消されるかは自分なりにもそのうち確かめてみたい)。

 

 また、今回のRei氏のnote記事では「ストックホルム症候群」が出てくるが、実はこれはかなり「疑われている」概念に該当する。

 

具体例:ストックホルム症候群は本当か?

 Rei氏は次のように「ストックホルム症候群」を援用して書いている。

 

 女性に限らず強さを優しさと誤認してしまう事は様々な研究においても指摘されており、最も有名な事例は「ストックホルム症候群」だろう。ストックホルム症候群とは狭義には「誘拐・監禁事件などの被害者が犯人との間に心理的な繋がりを築くこと」とされており、1973年ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立て籠もり事件が語源となっている。131時間に及ぶ監禁のなかで次第に人質達は犯人に共感し、犯人にかわって警察に銃を向けるなどの行動をとるようになり、また人質のなかには解放後でさえ犯人を「優しい」と庇う証言をする者や犯人に恋愛感情を抱く者まで現れた。これは異常な環境下における生存戦略とされているが、大小の違いはあれ人間社会の普遍的営為ではないか?と私は思っている。

 

  残念ながら、ストックホルム症候群については学術的にはほぼ却下されているのが現状である。FBIが1,200件以上の人質事件を対象として、人質にストックホルム症候群の兆候が見られたのは8%に過ぎなかった(FBI報告書:長いので"Stockholm"などで検索することを推奨する)。加えて、FBIとバーモント大学が600の警察機関を対象に行なった調査によれば、被害者が誘拐犯と心理的なつながりをもったために事件への対処が妨害された事例は1件もなかったという。ストックホルム症候群は、仮にあるとしても、人間心理の「法則」というよりは、稀な現象に属するものらしい。

 

 また、Namnykら(2008年)の研究"Stockholm syndrome': psychiatric diagnosis or urban myth?"(『ストックホルム症候群:精神医学的診断か都市伝説か?』)によると、ストックホルム症候群という診断名はどの国際診断基準でも存在せず、これを取り扱った学術論文も12報しかなかった。また、12報の論文にしても、相互に「ストックホルム症候群」の定義にブレがあり、検証済みの診断基準は記載されていなかった。最終的にNamnykらは、ストックホルム症候群は、出版業界によるバイアスが原因で広まっていた都市伝説ではないかと結論している。これは先程のFBIの報告とも合致する結果と言えるだろう。結局、犯罪被害者が犯罪者に自発的に協力するのは「極めて珍しい」ため、ニュースバリューがあり、積極的に報道されるがゆえにその頻度や確率を実態より遥かに高く見積もってしまうのだ。 

 

 ただ、こんなクソ細かい話Rei氏が知らないからといって、彼を責めるのは明らかに間違いだろう。私としても、単に「こんな話もあるんです」くらいのノリで書いている。正直、「ストックホルム症候群」は日本のメディアで流通しまくっていて、心理学者も目立った形ではろくに批判していない。乗っかってしまっても仕方がないと思う。

 

まとめ

 Rei氏の議論そのものは、出典明記の原則が守られており、全体としても優れたものと感じた。しかしながら、心理学実験の結果を自説に援用することについては、更に検討を重ねないと相当外れる可能性が高い。特に「ストックホルム症候群」に関しては学術的には否定される傾向にある。また、高級自動車と貧乏自動車の道交法遵守度や10ドル寄付の実験結果の2つから「お金持ちほど道徳心や慈悲が下がる」と結論するのは、いささか飛躍している感が否めない。既存の経済統計・犯罪統計による知見と齟齬のある主張とも見受けられるため、何らかの統一的・整合的な説明が成立するかどうかは今後の課題と言える(個人的に挑戦はしてみたが、情報量が多すぎてギブアップした)。

  

【批判】トゥーンベリ・ゴン氏の『社会活動家に求められる資質』に寄せて

 トゥーンベリ・ゴン氏が次のnote記事を公開した。私は普段の氏の論には賛成するところが多いのだけれど、今回の記事については欠陥や粗が目立つと思ったので、批判しつつ紹介する。

 

note.com

 「社会活動家」という一般名詞で書かれているが、『フェミニズム問題は儲からない』や『社会活動家の中には「わきまえない」と名前の前につけて』とあるように、想定されているのは、いわゆるツイフェミのようである。

 記事は次の文章から始まる。

 

 まずは社会活動家の皆さん、いつも市民の代わりに声をあげて頂きありがとうございます。あなた達の立派な正義感によって救われた人は沢山いると思います。この場を借りて感謝の気持ちを示したいと思います。

さて、そもそも社会活動家とは一体なんなのでしょうか?どういう権限を持って勝手に市民の声を代弁しているのか、まずは単語の意味を調べてみます。

『社会活動家に求められる資質』(トゥーンベリ・ゴン, 2021/04/27確認)

 

 そう言って、Wikipediaの『社会活動』の項を引いてみせる。Wikipedia曰く、『社会活動(しゃかいかつどう)とは、人間によって行われる活動の中でも、社会に参加して社会のために貢献をするようなもののことを言う。』――だそうである。

 

 この時点で、私は既に4つはツッコミを入れたい。

 

  1. 『市民の代わりに声をあげて』『代弁』等とあるが、外国籍の人間であるなど特殊な事例を除き、たいてい本人も市民の一人には違いないのだから、「代弁」は違うのではないか。
  2. どのような政治的意見も、それを肯定する人数はn≧2ではあるだろうし、加えてマイノリティの主張も民主主義社会において重視されることを考えると、声をあげること自体に『勝手に』などとネガティブな形容を付けるのは不適切な印象誘導ではないか。
  3. なぜ、Wikipeidaなのか。もう少しましな出典はなかったのか。
  4. 意味を調べる語は本当に「社会活動」で適切か。記事の続きの内容からすると、「社会運動」または「政治活動」で辞書を引くべきではないか。

 

 おそらく3と4は問題の根本が同じである。実は「社会活動」はいわゆる普通の国語辞典に立項されていない。少なくとも私が確認した限り、デジタル大辞泉と新明解と岩国にはない。一方で、「社会運動」と「政治活動」はどの辞書にもある。

 

 デジタル大辞泉
・社会運動:社会問題の解決や、社会制度そのものの改良・変革を目的として行われる運動。
・政治活動:個人または集団が政治に関して行うさまざまな活動。

新明解(7版)
・社会運動:①社会問題に関する運動。②社会主義的社会を実現しようとして行なう運動。
・政治(活動):住みやすい社会を作るために、統治権を持つ(委託された)者が立法・司法・行政の諸機関を通じて国民生活の向上を図る施策を行なったり、治安維持のための対策をとったりすること。

岩国(8版)
・社会運動:社会問題に関する運動。経済組織、社会・法律制度などの欠点を改めようとする運動。
・政治(活動):国を治める活動。権力を使って集団を動かしたり、権力を得たり、保ったりすることに関係ある、現象。

 

 日本語として定着しており、ツイフェミなどの活動の実態とも適合する「社会運動」か「政治活動」の方が良かったように思われる。例えば石川優美氏による#KuTooは、一応、『社会問題の解決や、社会制度そのものの改良・変革を目的として行われる運動』または『個人または集団が政治に関して行うさまざまな活動』には含まれるだろう。内容への賛否さておき、社会のあり方に対する変革を求めた活動ではあるので、社会運動または政治活動には該当する。別に内容の是非、善悪や妥当性、合理性までは問われないからだ。ちなみに私は石川氏の活動に1ミリも賛同してない。

 

 さらにトゥーンベリ・ゴン氏は、『社会貢献』をWikipediaで、『独善的』をデジタル大辞泉(=goo辞書)でそれぞれ別個に引く。なぜ最初からすべてデジタル大辞泉で引かないのか疑問に思うが、ともかく次のような論理を展開する。

 

 これを最初の社会活動の定義に当てはめてみると、

社会活動とは、人間によって行われる活動の中でも、社会に参加して社会のために貢献をするようなもののことを言う。

社会活動とは、人間によって行われる活動の中でも、他人のことはかまわず、自分だけが正しいと考えるさま。ひとりよがりであるさま。

とも言い換えることができます。掘り下げてみると、自称社会活動家達はちゃんと社会活動家だったみたいです。

 

 さて。ロジハラをして申し訳ないが、矢印の前後が論理的に同値ではないので言い換えは成立していない。論理式φ, ψが論理的に同値である (あるいは単に,同値である,ともいう)とは, φ, ψに含まれる命題変数のあらゆる真理値割り当て M に対して M[φ] = M[ψ] となることをいう.』(京都大学 数理論理学入門より)とされる。トゥーンベリ・ゴン氏の話でいくと、たとえば命題変数に「河川敷でのゴミ拾い」を代入した場合、前者の文言(社会のために貢献するようなもののことを言う)では真になるが、後者の文言(他人のことはかまわず、自分だけが正しいと考えるさま)では偽としか言えない。少なくとも常識的な感覚だとそうだろう。かくして真理値割り当てが一致しない以上、繰り返しになるが、論理的に同値ではなく、言い換えられない。

 

 続きにいこう(※「社会活動」という語の不自然さに関しては以降はつっこまない)。

 

1.社会活動家は金銭的にも時間的にも余裕のある成功者がするべきである

 いきなりハードルが高くてごめんなさい。とりあえず現在フリーター(大して稼げない)をしている社会活動家さん達は即刻退場して下さい。

あえて叱咤激励をするために厳しいことを言いますが、自分の身の回りのことも満足に出来ない人間に社会を変えることは不可能です。

加えて、家賃が払えなかったり、その日食べる物に困ってるような人間が「この世の中を変えたい」と泣き喚いたところで、結局お金欲しさにやってるようにしか見えません。発言に説得力がないんですよ。

もっと厳しいことを言えば、自立してない人間(大して稼げない人)が社会に対して何かを訴えたところで、それは「クレーム」「ワガママ」「ゴネ得狙い」にしか見えません。

 

 トゥーンベリ・ゴン氏は、『大して稼げない人』が社会活動しているのを見たとき、『「クレーム」「ワガママ」「ゴネ得狙い」にしか見えない』のかもしれないが、それが一般感覚・一般常識を代弁するものと言える論拠は挙げられていない。個人的には、生活困窮者が群れをなして「生活保護制度を充実させてくれ」とデモ行進をしていたら、変に穿った見方をしなければ、普通に「切実に苦しいのだな」と思う。その一方で、たいへん稼いでいるであろう経団連の幹部連中が、いつものように「法人税を下げろ!」などと叫びはじめたら、私は「死ね」と思う。……おっと、言葉が悪いか。「ワガママ」「ゴネ得狙い」だと思う。

 主張者の属性で説得力を判断するというのは、意見内容で是非を検討する当然あるべきステップを飛ばしていてよろしくない。例えば、アンチフェミニストの敵とみなされつつある社会学者たちは、みな大学に籍があったりして、とりあえず生活困窮者ではない(むしろ、自立してよく稼いでいる方だろう)。しかし、よくご承知の通り、彼らの意見に説得力があるかというと全く別問題だ。それと同様に、生活困窮者でも、何かやたらと調べて緻密なロジックを組む人はいる。つまり、「言うほど関係ないのでは?」と思う。というか、社会的弱者が声をあげる勇気を、わざわざ「ムダだぞ!」と言い聞かせることで妨害しようとしているように見える。あと、この「社会活動は金銭的にも時間敵にも余裕のある成功者がするべき」論は、KKO(キモくて金のないおっさん)も社会活動から退場いただくことになるが、色々と大丈夫だろうか。

 

 で、どうやら「大丈夫ではない」とトゥーンベリ・ゴン氏本人も気づいたらしい。訂正が入る。

 

2.社会活動家はマナーやルールを守り、礼儀を持って人と接する事が出来る常識ある人間がするべきである

 1.の成功者に関しては少しハードルが高かったかもしれません。即刻退場しろは言いすぎました。反省します。

金銭的・時間的余裕がなくても、心に余裕のある人間はいますし、主語でかく人を排除するのは良くなかったです。私もまだまだ人間として小さいですね。ごめんなさい。

心に余裕のない人間に、金銭的・時間的余裕がないケースが多かったとしても、金銭的・時間的余裕がない人間=心に余裕のない人間 とは断定できません。

むしろ、社会活動をする上での絶対に必要なもの、は今から説明する2.常識人の資質だと思います。

 

 それは良かった。しかし、『常識人の資質』というのも怪しげに感じる。警戒しつつ読みすすめることにしよう。

 

社会活動をしていくためには、まずは人間としての「型」、つまりマナーやルールや礼儀という基本的なものを学び、実践しないといけません。

それすら出来ない人間が、型を破って破天荒に「わきまえない」を実践しても、ただの異常者の危険人物である自己紹介にしかなりません。

そんな人間の掲げる社会活動になんて誰もついていきませんし、誰も金を払いません。

あなた達は「わきまえない」のではなく、ただの「恥知らず」なんです。

 

 これは実質的に個別の事案(「わきまえない」運動)に対する批判なのだから、何かしら引用するべきだと思うが、それはそれとして、『そんな人間の掲げる社会活動なんて誰もついていきませんし、誰も金を払いません。』事実関係として偽である。私自身、「わきまえない」の活動および意見内容を一切肯定的に評価していないが、「ついていく人がいること」「(活動家に)お金を払う人がいること」は事実なので否定できない。ロジハラをして申し訳ないが、「誰も……いない」と書いた以上、反例がN≧1あれば棄却されてしまう。

 まあ、さすがに「誰も」は修辞表現だとして多少割り引くとしても、実際そこそこいると思う。なにしろオウム真理教だって決して少なくない信者と資金が獲得できた世界である。オウム真理教よりは相対的に――あくまで相対的にだが――穏当かつ常識的なフェミニズムにそこまで人が集まらないとは思われない。

 トゥーンベリ・ゴン氏は、「そんな活動に人も金も集まってほしくない」という願望と、「オウム真理教並のクソみたいな活動であっても、人も金も集まる時は集まる」という現実が区別できていないように見える。後者はたしかに残念なことではあるが、現実から目を背けても仕方ないだろう。テロだって応援してる人は応援してる。それは決して善いことではないが、現実である。

 

3.社会活動家は個人の利益を追求しない人間がするべきである

 この話は1.の成功者と繋がる部分もありますが、個人の利益を前面に出してしまったら社会活動家としては終わりなんです。

社会貢献をするのであれば、手っ取り早く慈善事業に寄付をすれば済む話です。それを社会活動家という個人に対してお金を求めるのであれば「金クレ」だけは絶対にしてはダメなんです。

人間だから誰だってお金は欲しいです。お金はあって困るものではありませんし、あるに越したことはありません。私だってお金は欲しいです。

しかし社会のため、つまり公益を求めるのであれば、私益は対極にあるものであり、どっちも手にすることは現実的に難しいものなんです。

稼ぐことが悪いのか!?という不満はわかりますが、稼ぐことが悪いのではなく「社会のため」と言いながら「自分のため」が前面に出てしまっているのが問題なんです。要するに下手くそなんです。

まずは、お金が欲しいことは全力で隠さないとダメです。お金は後からついてくるものなんです。本当に人から感謝されて、その人を応援したいと思ってもらえれば自然に支援をしてもらえるものなんです。

 

 ある社会活動が、完全に私利私欲でしかないと露呈した場合、たしかに成功しないだろう。ただ、これは抽象的に扱うからそうなるのであって、個々の具体的事例について『「自分のため」が前面に出てしまって』いるかどうかは判断が分かれるだろう。例えば、フェミ松速報にはアフィリエイトリンクがベタベタと貼ってあるが、これは「前面に出ている」状態なのか、そうでもないのか(念の為にいうと、私は別に儲けていて良いと思う)。また、本を出版したり、AbemaTVに出演したり、有料の(参加料を徴収する)トークイベントや勉強会を開催したり、YouTube動画を収益化したりすることはどうだろうか。「社会活動だというのなら、あまり利益を堂々とは言うべきではないね」程度の話であれば、さして異論もないが。

 次にいこう。

 

断言しますが、社会は社会活動家を必要としていません。もちろん声を上げることは大切ですし、実際にネットの小さな声から一大ムーブメントとなり、社会のルールが変わった例もあります。

しかし、それが社会活動家によるものなのかどうかは、やはり根拠が乏しいです。

大企業側が「社会活動家の〇〇さんの影響により、会社の規定を変更します。」と公式に声明文を出した事例はありません。

結局のところ、社会活動家は何か変化があった時に後付けで「これは私のおかげ」と言い張ることしか出来ていないんです。

もはや雨乞いや神頼みと同じレベルなんです。後付けでこじつけて、それを実績にして越に浸っても無意味です。都市伝説はやめましょう。

 

 なぜ、トゥーンベリ・ゴン氏は「社会」を代弁できるのだろうか? トゥーンベリ・ゴン氏は「社会は……」と述べることができて、社会活動家は「社会は……」と述べてはいけないのだとしたら、その根拠は何だろう?

 また『大企業側が「社会活動家の○○さんの影響により、会社の規定を変更します。」と公式に声明文を出した事例はありません。』と、ここまでかなり一般論的・抽象論的に話を進めてきたにも関わらず、いきなり論理的にきつい条件(AかつBかつCかつDをすべて満たす)を設けているのはなぜか? 大企業で(つまり中小企業や公的機関ではダメで)、どの個人の影響か明示された上(○○団体のご指摘を受け……だとダメ)、しかも規定に関する変更を(掲示物の取り下げ等では「規定」まで変わってないのでダメ)、公式に声明文を(黙って変更したらダメ)出した例でなければ「反例」にならない書き方である。これは、ちょっとでも条件を緩めたら「実例がある」から都合が悪いのか? そんな勘ぐりもしてしまう。

 

  長くなってきた。最後の批判を加えたいのは、次の文である。

 

社会活動家として実績を残していきたいのであれば、もっと賛同者を増やして、政治や経済に切り込んでいかないとダメです。

少数のイエスマンで周りを固めて、気に食わない意見は全て「嫌がらせ」として晒しあげ、争いや分断を煽るような行為は、社会活動家としては完全に逆行しています。

地道なプロモーション、広報・営業活動をして、下げたくない頭も下げながら、敵を作らずに仲間を増やし、性別関係なく対話を繰り返して、コミュニケーションを密に取っていくしかないんです。

自分のカリスマ性だけで引っ張っていけると思ったら大間違いなんですよ。社会活動を舐めんなと言いたいです。

 

 その方法で上手くいくかいかないかは、人類の歴史が終わるまでわからない。歴史を通じて、数々の政治的・宗教的イデオロギーが支配的価値観の地位を担ってきたが、その変化のプロセスはといえば、『地道なプロモーション、広報・営業活動をして……コミュニケーションを密に取っていくしかない』と限定されるようなものでは断じてなかった。「社会活動」が社会を変革しようと試みる活動全般を指すならば、フランスで人権思想を確立するまでには多くの人をギロチン台に送り込まねばならなかったし、アメリカで奴隷制を廃止するには南北戦争が必要であったし、中国やロシアでは言うまでもなく共産主義による粛清があった。日本にしても戦国時代を経て徳川幕府によるパックス・トクガワーナが訪れ、明治維新で政権が取って代わられるまでのプロセスで数多くの「地道ではない」活動が行われた。

 とはいえ、歴史規模・世界規模にまで話を拡大させず、ここ半世紀くらいの状況から、この先10~20年程度の日本のみを見据えるなら、地道な活動のほうが良さそうだと私も思う。

 とはいえ、『政治や経済に切り込んで……』に「軍事」が入ってないの少し気になるか。ミャンマーで軍事クーデターがあったというか、いまも続いている。これは絶対に対話路線ではないが、そのあたりはいかがだろうか。’(「長期的には成功しないはず」という答えがあるかもしれないが、それは「長期的」の期間によるのと、どんな思想・主義もいずれは倒れてきたという歴史的事実を考えるとあまり慰めにならない)

 

 以上、ロジハラをし過ぎている気もしましたが、私もトゥーンベリ・ゴン氏を応援したいので、心を鬼にして書きました。ゆっくりしてくだされば幸いです。

 

神経科学的な「チーズバーガーとセックス」論の間違い~目明かし編~

 青識亜論氏の下記ツイートが発端となった一連のお祭り騒ぎであるが、神経科学的には何もかも間違っている。本記事では、「どういう流れでみんな間違えたか?」「何が間違っているのか」を明らかにしつつ、青識亜論氏の論の欠陥を指摘する。

 

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ファクトチェック~その話はどこからきた~

 『愛のあるセックスですが、快楽物質の総量はチーズバーガー2個分』『恋愛による多幸感を加味してもその量』だという主張はどこからきたのだろうか。私は青識亜論氏本人ではないので推測に頼る他ないが、Twitterでは次の記事が元ネタではないかと言われている。

 

buzz-plus.com

  とりあえず、buzz-plusの記事を根拠にして何かを主張しているなら、もうその時点で頭がおかしいが、それは各個人の考え方もあるだろうから、いったん目を瞑ることにする。

 このページでは、たしかに冒頭から『海外情報サイト『フロントライン』(英語)を読んでたら、「愛し合ったときの快感はチーズバーガー2個分!」と主張する面白いグラフを見つけた』と書かれている。

 

 しかし、この書き方は妙である。「~と主張する(面白い)グラフ」という日本語はあまり見かけない。何かを主張するのは、グラフではなく、それを読んだ人間である。つまり、「このグラフは……ということを示す」と解釈したのは誰なのかが肝心である。それがこのbuzz-plus記事の執筆者なのか、まともな神経学者なのかで全く話が変わってくる。

 

 こうなると、元ネタの元ネタである『フロントライン』の記事を確認しなければならない(私にはどうしても、buzz-plusの記事が科学的に正確な情報伝達をしているはずだという強い仮定が置けなかった)。

 Twitterで教えてもらったところ、以下のページが該当するそうだ。

 

www.pbs.org

 どうやら活字の記事ではなく、カリフォルニア大学のRichard A. Rawson教授の講義の音声録音+スライド表示ようである(ちなみにFlash動画なので、再生するには専用ブラウザのインストールが必要だった。これも教えて頂いた)。この動画では、確かに次のグラフが表示される。

 

画像

 

 頑張って英語を聞いたのだが、私の英語リスニング能力が低いせいか、何回聞いても「チーズバーガー」と発言しているようにも、「セックスは食事に比べて2倍(2個分?)の快感を与える」と発言しているようにも聞こえなかった。動画の教授は単に、「食事やセックスによって側坐核におけるドーパミン濃度は顕著に上昇する」としか言っていないように思われる。したがって、この2つのグラフを「愛し合ったときの快感はチーズバーガー2個分」と主張しているものとして読んだのは、何の専門家でもなさそうなbuzz-plusの記事執筆者である可能性が高い。

 

※【2021/04/24追記】

 読者さんからのご指摘により、ジョーク的な調子ではあるが「チーズバーガー2個分ですね」と聞こえるとのことでした。本当に私の英語リスニング能力が低かったせいのようです。上記パラグラフは私が間違えております。申し訳ありません。

 

 むろん、胡散臭いネットニュースサイトだからといって、それだけで間違いだと決めつけるのは乱暴だが、ひとまずグラフを詳しく見てみよう。

 

 2つのグラフは、ラットを対象として、側坐核(NAc)におけるドーパミン濃度の時系列変化を示している。ただし、一点だけご注意いただきたいのだが、あくまでも濃度の変化であって、量の変化ではない(さらに「総量」となると、別途計算しないと分からない)。

 左側が食事(FOOD)を摂取したときで、右がセックス(SEX)をしたときだ。

 まず食事をした場合は、摂取直後にドーパミン濃度が150%(正常時を100%としたときの比率)になっていて、その後は比較的すぐに落ち着いていくようだ。一方で、セックスの場合は、200%以上に上がり、その後もしばらく150%を超えた状態で推移している。その下に付属している棒グラフは交尾頻度(Copulation Frequency)、つまりセックスの回数のようだ。凡例を読むと、ここでいう「交尾」に該当する行為は3種類に細分化されており、それぞれマウント回数(mounts)、挿入回数(intromissions)、射精回数(ejaculation)となっている。つまり、1回だけセックスし、その後は対象のラットを単独にしてその間のドーパミン濃度の変化を追跡したのではなく、ラットを好きなだけセックスできる環境(メスに接触できる環境)に置き、その間の変化を見ていることになる(「射精」とあることから、対象のラットがオスであることは自明である)。

 

 さて。しつこいようだが、このグラフは「愛し合ったとき(セックスしたとき)の快感はチーズバーガー2個分だと主張しているだろうか? あるいは青識亜論氏が言うように、『愛のあるセックスですが、快楽物質の総量はチーズバーガー2個分』で『恋愛による多幸感を加味してもその量』と解釈できるだろうか?

 

 どちらも無理である。ラットの実験なので情緒的な意味で「愛し合っている」か、「愛のあるセックスをしている」かを確かめるのは難しいだろう。また「恋愛による多幸感」に至っては、実験上の都合から「出会って即セックス」させられているラットには多分ない。この実験は、まずオスのラットとメスのラットを壁(スクリーン)で隔て、次にそれを外してドーパミン濃度のモニタリングしている。恋愛感情を育んでいる時間はなさそうだ。

 

元の論文を読んでみよう

 加えて、2つのグラフを並べて比較していいのかという問題もある。FOODの方は『Source: Di Chiara et al』とあり、SEXの方は『Source: Fioriono and Phillips』とある。つまり、それぞれ別の研究グループが、別の目的をもって実施した実験だ。単独で「FOODとSEX、どちらがどれくらい多くドーパミンを出すか?」を明らかにした論文は少なくともbuzz-plusとフロントラインでは紹介されておらず、動画で説明している教授もそのような趣旨の発言はしていない。(※2021/04/24 追記:教授はそのように一言述べておりました。『そのような趣旨の発言はしていない』は誤りです。申し訳ありません。)

 2つのグラフについては、両方とも出典を見つけたので紹介する。

 

 FOODの方は、"Differential responsiveness of dopamine transmission to food-stimuli in nucleus accumbens shell/core compartments "側坐核のシェル/コア部位における食物刺激に対するドーパミン伝達応答性の差)という論文である。確かに同じグラフが確認できる(4つあるうちの左上)。

 

f:id:Teshima_Kairei:20210423231827p:plain

 

 この4つのグラフは、「エサの入ってない単なる空箱を見せてから、エサをあげた時のドーパミン濃度変化」と「エサの入った箱を見せてから、エサをあげた時のドーパミン濃度変化」を、それぞれ側坐核の殻側(shell)と核側(core)に分けて測定した結果である。だからパターンとして4つある。もちろん、これだけ言われても意味不明だと思うので、少し説明する。

 

 まず、「脳のドーパミン濃度」といっても、脳全体のドーパミン濃度を測定しているわけではない。この実験では、「側坐核」と呼ばれる脳の一部におけるドーパミン濃度を測定している。欲求に基づいた行動や感情に関わりが深いとされる部位だからだ。

 そして、その「側坐核」は、さらに細かく「外側」(shell)と「内側」(core)の2つに分けて考えられている。同じく側坐核とはいっても、外側と内側で刺激に対する応答性や機能が異なることが知られており、このように区分するのが一般的とされる。

 

 左上のグラフは、「エサの入ってない単なる空箱を見せてから、エサをあげた時の、側坐核外側におけるドーパミン濃度変化」である。そして右上のグラフは、これと同じ条件で側坐核内側を見ている。この空箱パターンの結果を簡単にまとめれば、「ラットは、エサを予想させる要素なく(意味のない空箱を見せられてからいきなり)エサを与えられると、側坐核外側ではドーパミン濃度が大きくあがるが、側坐核内側のドーパミン濃度はあまり上がらない」である。

 そして下2つのグラフは、エサが入っていることが分かる箱を見せられてから(つまり「エサがもらえそうだ」という情報を得てから)エサを与えられている。その場合、側坐核外側のドーパミン濃度はほとんど上がらないが、側坐核内側ではドーパミン濃度が上がる。そういう結果になっている。

 

 この結果を人間の食事に適用するなら、日常生活では上2つの「空箱→唐突にエサ」パターンよりも、下2つの「エサが予測可能な箱→エサ」パターンの方を基本的に経験することになるだろう。乳幼児でもない限り、自分がおよそどういうタイミングで、どのような食事を摂取するかは予測ができている。例えば意図的にマクドナルドに行ってチーズバーガーを買って食べるような場合、側坐核内側のドーパミン濃度はほとんど上がらないが、側坐核外側では上がる」と考えるのが適切そうである。しかし、そのような状態を現した右下のグラフは、buzz-plusで採用されたであろう左上のグラフよりもドーパミン濃度のピークがやや低くなっている。つまり、チーズバーガーは、左上のグラフに基づいて期待するほどにはドーパミンを放出してくれなさそうだ。

 

 もう一つのSEXグラフのほうに移ろう。こちらは"Dynamic changes in nucleus accumbens dopamine efflux during the Coolidge effect in male rats "(雄ラットのクーリッジ効果中の側坐核ドーパミン排出量の動的変化)から引用されている。なお、引用は切り抜きであり、スライドに映っていたのは左下部分だけである。

 

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 「DA」がドーパミン濃度なので、さしあたってこれだけを見よう(DOPACやHVAは、ざっくり言うとドーパミン代謝物等であるが、別に覚えなくて良い)。交尾頻度(Copulation Frequency)は前に説明した通りである。

 この実験では、「クーリッジ効果」を検証している。クーリッジ効果とは、「オスは、特定のメス(パートナー)に性的に飽きて性欲が減退していても、新しいメスを見ると減退していたはずの性欲が復活する」という若干身も蓋もない現象である。オスのラットを用意し、Sample Number(時系列を示すと捉えて良い)で2番から「第1号のメス」と対象のオスラットが接触できるようになる。すると、とりあえずオスのラットはセックスを始め、ドーパミン濃度を急激に上昇させる。そしてマウントしたり、挿入したり、射精したりするが、時間的にSample Number 8までいくとドーパミン濃度も下がり、交尾行動も減っている。つまり、最初と比べると飽きてきている。

 しかし、13番から「Female 2 Present」(メス2号=愛人を与える)となると、ドーパミン濃度と交尾行動が復活する。それは最初ほどではなく、そこまで持続もしないようだが、確かにクーリッジ効果というのはあるようだ――というのがこの論文のお話である。

 

 繰り返しになるが、この実験に、恋愛の要素はなさそうである。「愛のあるセックス」や「恋愛による多幸感」を確認したものとは考えられない。

 

再び、青識亜論氏の発言

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  「愛のあるセックス」「愛のないセックス」のデータは見た中ではなかった。そして「快楽物質の"総量"」は検討されていない。どうしても濃度の到達点の高さ(ピークトップ)ではなく総量で考えるなら、「ある刺激(食事orセックス)を与えてから、正常状態に戻るまでの期間で放出されたドーパミン量」を合計して比較する必要がある。

 しかし、おそらくそれは無意味だろう。これは前の記事で述べたことと重複するが、ドーパミンによる快楽というのは、総量よりも、素早く高い濃度に達することが重要とされる。例えばメタンフェタミンで薬物依存になるのは、放出されるドーパミンの総量が(他のドラッグに比べて)多いからではなく、高いドーパミン濃度に『より素早く』到達するからだ(「加熱して蒸気を吸引する」という方式が、経口摂取の錠剤よりも遥かに薬物依存になりやすいのも、この「素早く」というのが大事だからである)。これは『カールソン神経科学テキスト』に詳述されているので、図書館などで参照されたい(私は持っているが、人に買わせるには些か高い)。

 となると、「セックスのほうが食事に比べてコスパが非常に優れている」「ゆえに、より好まれている」という理屈もごく普通にあり得る。まあ、そもそも「2個分」=「2倍」というのも――この「2」という謎の数値を仮に採用しても――相場が明らかでないため「2倍もあるからすごい」のか「2倍しかないからショボい」のか分からない。薬物依存のメカニズムから推察すると、どちらかといえば前者の解釈が妥当と思われる。

 

 次のような発言もあった。「チーズバーガー2個発言の主旨は?」と尋ねられ、それに答えている。

 

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 これについては、前回の記事で答えた。自己要約すると、『他者からの承認や、相互理解やコミュニケーション』でもドーパミンは放出されるため、「快楽物質で説明がつく」という理屈から完全には抜け出せない(むろん、コルチゾール等の不快系・ストレス系の神経伝達物質も重要だとか、神経網の形成状態も関わるとか、そういった話は可能だ)。

 青識亜論氏のいう「様々な喜び」も結局、快楽物質なのである。もとより、人間が快楽を感じたときに放出されている神経伝達物質を「快楽物質」と呼ぶのだから、原理的・論理的に「快楽物質ではない喜び」は存在しにくい。

 なぜか? そもそも考え方順序としてはこうである。①私たちは日常生活でも「気持ちいい」「嬉しい」「楽しい」と感じているときと、そうでないときがある。②何が前者と後者で違うのか、それぞれの時の脳をあれこれ調べてみよう。③その結果、様々な神経伝達物質の中でも、特にドーパミンオキシトシン等が増加していることが分かった。④ゆえに、ドーパミンオキシトシン等は快楽を媒介する物質(快楽物質)だろうと考えられる。これが科学的な考え方である。既存の快楽物質で説明がつかない喜びの体験が確認されたら、そのときに放出されている別の神経伝達物質が調べられ、それが「快楽物質」の列に加わることになるだろう。あるいは、新しいメカニズムを考えることになるかもしれないが、いずれにせよ脳の物理化学的変化によって説明される。

 ここから脱出して「俺は快楽で動いているんじゃない!」と示すには、快楽物質の生合成プロセスを停止させるか、その受容体を潰す(ノックアウトさせる)させても同じことが出来るかという対照実験をやるしかない。そしてそうすると、いわゆる自閉症パーキンソン病的状態になり、社会的営みは困難になることが分かっている。意図的に人の脳機能を傷つけるのは倫理に反するが、既に障害・欠損を持つ脳の人を調べれば、そうした知見は得られる。そして神経科学が測定技術の面で未発達だった頃に、まさにこの「障害・欠損を持つ人を調べる」が主な研究戦略として採用されてきて、実績を積み重ねている。

 

 「快楽だけじゃない」が、もし快楽物質とは手を切った状態でも、まだ人間が社会的に尊敬される何事かの振る舞いを維持できるという意味であれば、それはおそらくできない。私には「快楽物質だけじゃない」という、議論では相当に『頑強な』タイプの主張に属する「Aだけじゃない」論法も、今回のケースでは極めて脆弱に見える。なぜなら、私にはどうしても「両膝の骨が粉砕されていても、頑張れば歩けるし走れる」というような、神秘主義的・精神主義的主張にしか見えないからである。私たちが社会的に尊敬される振る舞いを維持するには、あるいは人間関係を良好に構築するには、快楽物質の手助けが必須である。快楽物質があればどうとでもなるとは言えないが、快楽物質がなければ何もできないか、できるにしても著しく困難になるというのは正しそうだ。

 

さいごに~これはさすがに「ない」~

【追記】配信内で、私の本記事を引用して訂正を入れてくださった。また、最近のYS氏との論争においても論文元の記述を確認し、丁寧な批判を加えていらっしゃった。したがって、以下の「青識亜論氏は、誠実・真摯でない」という評価は撤回する。(2021/05/12)

 

 私がもっとも「ゆっくりできない」と感じた発言を紹介して終わりにする。次のツイートである。

 

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 CDB氏の「チーズバーガーの2倍のドーパミンという発言は、既に十分に述べた通りただひたすら完全に間違っているが、その間違っていることを「知っています」と返している青識亜論氏も大概である。加えて『ネタばらししようと思ってました』ということは、初めの『愛のあるセックスですが……』というツイートは、そもそも「科学的に事実でないと知っていて、故意に騙した」ものだったという風に見受けられる。それは誠実・真摯といえる態度だろうか?

 

チーズバーガー2個はセックス1回分の快楽物質を放出するのか?~脳科学的見地から~

  Twitterネット論客として有名な青識亜論氏が次のように述べていた。

 

愛のあるセックスですが、快楽物質の総量はチーズバーガー2個分だそうです。恋愛による多幸感を加味してもその量。コスパ悪いですよね。

午後1:52 · 2021年4月18日

 

 これを読んだ時の私の反応は「……本当に?」である。

 「快楽物質の総量」は値として客観的に測定できるはずだ。「愛のあるセックスの快楽物質の総量は、チーズバーガー2個を摂取した時のそれと等しい」という主張をするからには、そのことを示す科学的なデータがなければならない。

 しかし、はたしてそんなデータはあるのかと、大変疑問に思ったのである。

 

 というのも、上記の主張を正当化するような実証実験を行う場合、けっこう難しいはずだからだ。私がパッと思いつく範囲でも、次の測定結果が必要である。

 

  1. 「愛のあるセックス」をしている最中の快楽物質量の測定結果。
  2. 対照試験として「愛のないセックス」(マスターベーションでも可か?)での同様の測定結果。
  3. チーズバーガーを1個食べた時の快楽物質量の測定結果。
  4. チーズバーガーを2個食べた時の快楽物質量の測定結果(※チーズバーガーの個数に応じて、快楽物質量が1次関数的に増加する=Aが2倍になればBも2倍になるとは限らないため)。

 

 確かにfMRIやPETなどの技術を使えば、例えばドーパミン分泌量のリアルタイムでのモニタリングは不可能というわけではない。しかし、個人差や体調差もあるだろうから、一定の結論を得るには、被験者数および試行回数はそれなりに用意せねばならないだろう。

 

 また、1~3の実験を行って、本当に「愛のあるセックスの快楽物質の総量は、チーズバーガー2個を摂取した時のそれと等しい」というデータが得られたとしても、その解釈は当然ながら問題になる。快楽物質の「総量」で同じでも、「ピーク濃度」が異なるから、やはりセックスの方が遥かに格上の快楽体験であるという可能性はあるからだ。

 これは少しわかりにくいと思うので説明する。

 

 例えば、お酒を飲んだときのことを考えてみよう。幸いアルコールについては、血中アルコール濃度と身体自覚症状の関係がだいたい分かっている。次の表の通りである。

 

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https://www.kojundo.blog/legalmedicine/2428/

 血中アルコール濃度0.5 mg/mLの状態で90分過ごすことと、血中アルコール濃度1.5 mg/mLの状態で30分過ごすことは、確かに「総量」としては同じである。しかし、「酔っ払って楽しい気分」になれるのは、後者の30分のほうだけであり、前者の90分は無症状または「ほろ酔いかな?」くらいある。

 「酔っ払って楽しい気分になる」(=快楽を得る)には、血中アルコール濃度のピークの高さが一定の値以上になることが大事なのであって、薄い濃度で長い時間を過ごして「全時間を合計したときの総量は一緒になった!」というのは、快楽に対してあまり意味がない考察である。

 

 少し難しい話をすると、一般に、薬剤の投与量とその反応(例:アルコールの摂取量と酩酊状態の度合い)は、用量反応曲線と呼ばれるものに従う。ある薬剤を2倍量を飲んだからといって、効き目もキレイに2倍になるということは、基本的にない。下のグラフで用量(投与量)が対数であることに注目してほしい。

 

薬理 用量反応曲線 - YouTube

 

 薬理作用(効き目、効能)を得るには、ある限られた時間内に、特定の閾値を超えることが大事なのである。病院でもらった1日分の薬を、勝手に10分割して10日かけて飲んだら、たぶん何の効果もない。逆に10日分としてもらった薬を、まとめて1日で飲んで、残りの9日は飲まないということをやったら、下手すれば死ぬ。 

 

 もうひとつ別の説明を試みよう。

 私たちは毎度の食事によってそう大した量ではないにせよドーパミンを分泌している。それを何十日分、何百日分も合計すれば、たしかにそのうち「ドーパミンの総量」は、覚醒剤やヘロインを1回摂取したときに生じるドーパミンの量にだって届く。というより、このブログ記事の日本語を読めるくらい成長している人たちは、もうとっくに「総量」としては麻薬投与換算(?)で何十回か分のレベルに達しているはずだ。塵も積もれば山となるである。

 しかし、その「総量」としての体験は、明らかに麻薬体験とは異なる。「短時間で高いドーパミン濃度になる」ということが大事なのだ。

 

 これに関しては、Cellに掲載されていた総説論文"The Brain on Drugs: From Reward to Addiction"でも書かれているので抄訳して紹介する(リンク先では無料で全文読める)。

 なお、抄訳は私によるので、英語を読める人はちゃんと英語で読むことをお薦めする。一応原文の英語もすぐ下につけておいた。

 

人を対象とした脳画像研究では、薬物によって誘発される急速なドーパミン増加は薬物乱用に伴う「ハイ」と関連し、緩やかなドーパミン増加は(「ハイ」な気分とは)関連しないと報告されている(Volkow et al., 2008)。具体的には、覚醒剤によってドーパミンの増加が短時間(10分未満)で達成された場合は脳の報酬系と関連し、60分以上かけて達成されたドーパミンの増加は(脳の報酬系とは)関連しなかった。

主観的な「ハイ」の時間経過が、コカインやメチルフェニデートなどの薬物による長時間のドーパミンの増加に比べてはるかに短いのは、薬物による脳への報酬作用に速度依存性があるためと考えられる。

これは、D1受容体とD2受容体への刺激が、薬物が急速に高いピーク濃度に達したときにのみ起こり、ドーパミンの濃度が低下し始めると、D2受容体が主に刺激されるためと考えられる(Luo et al., 2011 喫煙や静脈注射のように、脳内での薬物濃度が急速に高くなる投与経路が、経口投与のように脳内への取り込みが遅い投与経路よりも、依存性が高くなることの説明にもなる)。

Indeed, brain imaging studies in humans have documented that fast DA increases triggered by drugs are associated with the “high” associated with drug abuses, whereas stable DA increases are not (Volkow et al., 2008). Specifically, when large DA increases triggered by stimulant drugs were achieved over a short time period (<10 min), they were associated with reward, whereas DA increases achieved over 60 min were not. The rate dependency for a drug’s rewarding effects might explain why the time course of the subjective “high” is much shorter than the longer-lasting DA increases triggered by drugs such as cocaine and more notable methylphenidate (Figure 1). Presumably, stimulation of D1 and D2R only occurs when drugs achieve fast peak concentrations, whereas as the concentration of DA starts to decrease, D2R are predominantly stimulated (Luo et al., 2011). This may also explain why routes of administration that achieve faster and higher drug levels in the brain, such as smoking and intravenous injection, are more rewarding and addictive than routes of administration that result in slow brain uptake, like oral administration.

 

 さて。かなり遠くまで来てしまった感があるが、話を「チーズバーガーとセックス」に戻そう。

 青識亜論氏は、「快楽物質の総量で考えたとき、セックスはコスパが悪い」という旨の主張をしたが、上記の論文の記述からすると、「総量で考えるのが間違っている」というべきだろう。仮にセックスがドーパミン濃度を急速に高くできる行為であり、チーズバーガーはそうではない(緩やかに低いままである)なら、コスパが悪い」という解釈も成立しなくなる。チーズバーガーでは、セックスで到達できる「(快楽物質としての)パフォーマンス」に届かない可能性が十分あるからだ。とりわけ、快楽物質のピーク濃度という観点で、「セックス>チーズバーガー」という関係が成立する場合はそうである。

 

 ピーク濃度の話はこれくらいにして、別のツイートに移ろう。青識亜論氏は次のように述べている。

 

いや、ごく当たり前に、「セックスの快楽物質の量」は「性愛」という人間関係や営みのごく一部でしかない、そこには他者からの承認や、相互理解やコミュニケーションから生まれる様々な喜びがあるのだ、という反応を予想したのですけど。

https://twitter.com/BlauerSeelowe/status/1384456199723130881

 

 上記の論には残念ながら欠陥がある。『他者からの承認や、相互理解やコミュニケーション』でも快楽物質(ドーパミン)は出てしまうからだ。以下、"The Rewarding Nature of Social Interactions"から引用する。

 

ヒトを対象とした機能的イメージング研究のデータによると、美しい顔(Aharonら、2001年)、肯定的な感情表現(Rademacher et al., 2010)、自身の社会的評価(Izuma et al., 2008)、母性愛や恋愛感情(Bartels and Zeki, 2000, 2004)など、さまざまな報酬を伴う社会的刺激に対して線条体の活性化が見られる。さらに、最近の研究では、肯定的な社会的評価を期待しているときに、側坐核(NAcc)、被殻視床核が活性化することが示されている(Spreckelmeyer et al., これらの知見は、金銭(Knutson et al., 2000)や食物(McClure et al., 2007)などの非社会的な結果を予期する際に見られる活性化と一致しており、社会的刺激の重要性と動機付けの可能性を強調するものである)。

このように大脳基底核ドーパミン報酬回路は、社会的行動の動機付けとなる様々な社会的刺激の報酬を処理するための主要な神経系であることが、様々な研究から明らかになっている。

Data from functional imaging studies in humans exhibit striatal activations for a variety of rewarding social stimuli such as beautiful faces (Aharon et al., 2001), positive emotional expressions (Rademacher et al., 2010), own social reputation (Izuma et al., 2008) and maternal and romantic love (Bartels and Zeki, 2000, 2004). Additionally, a recent study has shown activation of the nucleus accumbens (NAcc), the putamen and thalamic nuclei during the anticipation of positive social feedback (Spreckelmeyer et al., 2009). These findings are in line with activations found for anticipation of non-social outcomes such as money (Knutson et al., 2000) or food (McClure et al., 2007) and highlight the salience and motivational potential of social stimuli.
Altogether, there is evidence from a variety of studies that the dopaminergic reward circuits in the basal ganglia form the primary neural system for processing reward of various social stimuli which could motivate social behavior.

 

 青識亜論氏が『快楽物質だけの問題ではない』と主張したいなら、快楽物質が出ない行為を挙げないと厳密には理屈が通らない。「やはり、ドーパミンの放出を求めての行為ではないか」と指摘される余地が残る。

 

 快楽物質だけの問題ではないと明確に示すにはどういう実験をしたらいいだろうか。ひとつには、快楽物質の発生か、またはその受容体を「潰して」(ノックアウトさせて)しまって、それでもなお『他者からの承認や、相互理解やコミュニケーションから生まれる様々な喜び』を体験できるか試すことである(ここでいう「ノックアウト」は正確には特定の遺伝疾患を引き起こすことを指す)。

 

 とはいえ、さすがに人間でやるわけにもいかない実験である。というわけで、自閉症ヒト型モデルマウスや、CD38ノックアウトマウスというのが既に開発されており、さまざまな実験をされている(ノックアウトマウス=標的遺伝子破壊マウス)。

 

 青識亜論氏にとっては更に不利なことに、残念ながらこうしたマウスは社会的営みをとらなくなってしまう。同種との社会的相互作用が顕著に減少し、仔の養育を放棄するようになる。なお、これは教科書レベルの知見であるので、「自閉症 マウス」や「ノックアウトマウス」で検索するといくらでも出てくる。

 

 もちろんマウスでの実験結果を、安易にヒトに当てはめるのは飛躍であろう。しかし、「快楽物質がすべて」という説はさすがに乱暴だとしても、少なくとも「快楽物質がないと社会的営みに向けても動けない」くらいは言えそうである。快楽物質さえあればどうとでもなるという訳ではないが、快楽物質がなければどうにもならない。必要条件と十分条件の違いである。

 

 さて。そろそろ締めくくろう。

 ここまであえて触れてこなかったが、そもそも「快楽物質」という言葉は、学術的に定義されていない。少なくとも神経科学(neuroscience)の大学用教科書には出てこない。したがって、普通に考えると「快楽物質の総量を測定しました」と直接的に主張するような研究報告は実在しにくいように思われる。

 世の中に存在するのは、あくまでも快楽と関わりが深いとされている一連の神経伝達物質(具体的には、ドーパミン、β-エンドルフィン、オキシトシンオピオイド等)の分泌に関する研究である。「快楽物質」という言葉が、どの神経伝達物質を対象としているのか――いずれか1つなのか、いくつかの合計であるのか――によっても話は変わってくる。このあたりも含めて曖昧な話で、もともと無理があったように思われる。

 

チーズバーガー2個分よりも神聖な、高潔な、豊穣な、なにものかが性愛という営みに存在するって、みなさん心のどこかで信じているわけでしょう。じゃあ、なんで気軽に「降りろ」なんて口にするんですか。

https://twitter.com/BlauerSeelowe/status/1383989133140365324

 

 快楽物質をそんなに嫌うことはないように思われる。「神聖で、高潔な、豊穣な、なにものか」は、その根底において快楽物質を必要としている。社会行動を取る上で、快楽物質は敵ではなく味方である。少なくとも何も別に悪魔的で、下賤な、貧しいなにものかに堕するという意味ではないだろう。

 

  以上、ゆっくりできましたか? ゆっくりしていってね!!!

ヤフー知恵袋の生物ネタの記事についたコメント(長文)への返答

 以前に公開した私のこちらの記事について、長文のコメントが寄せられていることに気づいた。日付を見ると、12日前。無視しているようになってしまい、大変申し訳なかったと思う。

 

teshima-kairei.hatenablog.com

 コメントをくださったのはheaven氏である。パラグラフごとに引用し、私からの補足説明または再反論、あるいは「その点についてはそちらが正しい」等と述べていく。

 

いくつか指摘をします。
”「遺伝子が次世代に受け継がれた」と言うためには、次世代の個体が誕生し、かつその個体が次の個体を産むまで生き延びなければならない”
いきなりよくわからないのですが、”遺伝子が次世代に受け継がれた”というためには次世代が生まれればいいだけで、なぜ次々世代の発生まで前々世代が生き延びる必要があるのでしょうか。

 

  確かに「遺伝子が次世代に受け継がれた」という状態を成立させる要件は、次世代が生まれただけで満たされる。これは次に書いたこと(適者生存度の高低を、出産時の個体数だけで判断することはできない)に意識があって、この時点での論理的正確さを欠いてしまった。申し訳ない。

 

”例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は(中略)「適者として生存した」のは明らかに前者だ。”
これは「同種族が同環境で同じように生き残った場合」の話だと思うので、10年1匹の個体が数千万年にわたって繁栄できる環境なら、1年10匹の個体はその次世代も1年で子を10匹産むとして、10年1匹が1匹生むまでに2^10で1024匹、個体数で言えば1000倍以上繁栄します。その逆も然りです。

これはこの後も頻発することなので恐らく悪癖なのだと思いますが、「仮に」や「例えば」と前置きをしながら持論に都合のいい論理展開だけをする(その「例え」の妥当性を無視する)のであれば、その結論も都合の良い何でも有りになり、反論足り得ないと思います。

 

 私が『「仮に」や「例えば」と前置きをしながら持論に都合のいい論理展開だけをする』というのは誤りである。説明しよう。

 問題にされている私の文章は次の部分であろう。

 

 例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は更に次の世代の子を産むことに成功し、その後も数千万年にわたって繁栄したが、「1年しか生き延びなかった親が生んだ10匹の子」の方は次世代を産む前にあえなく全滅し、結果それが最後の一撃で種としても絶滅してしまったとしたら、「適者として生存した」のは明らかに前者だ。

 多産であるのが有効とは限らないというだけの話だが、妙なのは、この文章の前で、回答者もそれを認識しているかに思える点である。

 

 ここで私が説明しているのは、『多産であるのが有効とは限らない』ことである。注意していただきたいのだが、私が使った「10匹は全滅して、1匹は次世代を産み、その後も繁栄できたケース」は、あくまでも『多産であるのが有効とは限らないこと』を示すための一例である。当然、「多産であるのが結果的に有効に働いたケース」もあるだろう。

 

 ただ、前述のような現実的に想定可能な反例があがる以上、「10匹生んだ個体の方が、1匹しか生まなかった個体よりも適者生存したと言える」という言説は間違いか、少なくともひどく大雑把で不正確である。これは私の「ご都合主義的な」思考実験だけに基づいて言っているのではなく、実際に「1匹しか生まなかった個体の方が長く繁栄する」ケースも生物史を眺めれば普通に確認できるだろう。そうでなかったら、生物は皆もっと多産方向に進化するはずだ。だが、現実はそうなっていない。

 

 よって「適者生存度」を1世代の出産個体数だけで決めるのは不合理であり、非科学的である。それを説明するために「反例」(だけ)の存在を指摘するのも、『持論に都合のいい論理展開だけ』をする、『悪癖』とは考えない。むしろ、まっとうな議論である。一般論の主張に反論するには、反例が1つ以上あれば十分である。もっとも、生物が対象の場合は、反例はもっとずっと莫大な数になるものと思われる。

 

”そして、回答者は『どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、(中略)中国やインドの社会力が高いからか(弱者救済措置からは程遠い国々に思えるが)。”
ここでもそうですが、仮にと言って社会福祉の充実度をどうにか数値に落とし込んだのは貴方の都合です。仮定で都合のいい反証をする前に、インドや中国が弱者救済措置(福祉制度)から程遠いのに社会力が高いとするのは疑問、とするのは独り相撲です。では社会力とは福祉制度以外の別の何かではないかと、自身の分析や仮定を見直すべき場面だと思います。

 

 そもそもヤフー回答者がいう『社会がもつ力』とやらが謎である。本来は「障害者などの弱者を生かすこと」が大事だというヤフー回答者が、その主張の基盤となる『社会がもつ力』が何たるかを説明しなくてはならない。

 

これは多分もう一つの悪癖で、文や言葉の意味がわからないので多分これのことだろうと解釈した、するとおかしな結論になるので元の文章の言ってることはおかしい、という論理展開が頻発します。こう書かれれば分かるかと思いますが、疑うべきは解釈のほうです。

 

 この点、悪癖というのはそうかもしれない。ただ、コメント主が考える「悪癖」とは異なる。「私なりに精一杯好意的に解釈して、もしかしてAという意味ですか? でも、Aだとしてもおかしいと思うのですが……」と丁寧かつ下手に出たのが間違いだった。

 そうではなく、むしろもっと簡単に、「『社会がもつ力』などという漠然としたパラメータを未定義で提示されても、それが本当に個体数の多い・少ないに比例しているのか第三者は確かめることもできない。つまり、他者がその妥当性を検証できるような、いわゆる『まともな』考察になっていない」と切り捨てるべきであった。

 この悪癖には、以後注意したいと思う。

 

”回答者は自分で(生存戦略として)『多産なもの少産なもの』もいると書いていたはずである。(中略)少産を選ぶ合理的理由がまったくないはずだからだ。”
それは恐らく少産を選ぶ理由があるのではなく、「多産を選べない合理的理由」があるからです。ちなみに「適者であること」を優先したが故に多産をできなくなった顕著な例はホモサピエンスです。要因は複数あるとされていますが、子を成すのに生物学的に十数年、生態的には二十数年を要する動物種は寡聞にして知りません。

 

 「多産を選べない合理的理由があるから」と「少産を選ぶ合理的理由があるから」は実質的意味が全く同じである(また後述するが、これについてはr戦略とK戦略への不理解または無知が残念ながら作用してしまったものと思われる)。

 また、「適者であることを優先したが故に多産ができなくなったホモサピエンス」も、「適者であること=(出産)個体数が多いこと」としていたヤフー回答者の考えと異なる。「出産個体数を多くすること(適者であること)を優先したがゆえに、多産ができなくなった」と読むしかないが、明らかに妥当な主張として成立しない。優先できていないからだ。つまり、この「適者」判定を出産個体数に基づいて定めるという方法の妥当性に関しては、ヤフー回答者とコメント主の考えは異なると理解していいか。

 

なぜ、「有利」だけを考えているのだろうか。(中略)不利な形質を発現させたせいで絶滅したとも言える。”
有利不利は結果論です。羽が美しいことで絶滅に瀕するなら、その中で羽が美しくなかった個体が生き延びることになる。それを生き延びられる者こそその環境で「有利な性質を持った適者」であり、羽が美しい種の中で羽が美しくない個体の発生頻度や総数を増やすには、早熟多産は効率的です。

 

 有利不利は結果論であることに私も同意する。「やってみなければ分からない」と思う。地球環境の今後の変化まで予測しきらなければ有利不利の判定など出せない。よって私もヤフー回答者のように「計算不可能」と思う。何が有利に働くか、何が不利に働くかは分からない。したがって私は「早熟多産という形式もまた、有利か不利か(効率的か非効率的か)、最終的には結果でしか分からない」と答える。どうして「早熟多産が効率的」なのがあなたには分かるのか。

 早熟多産な種は概して個体としては死にやすい。一方で、晩成少産の種は、個体としては相対的に死ににくいが、1匹死んだ時の損害が大きい。

 このことは、生物学において、r戦略とK戦略と呼ばれる個体数に関する理論で説明される。

 

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r-K戦略説

 heaven氏への回答は以上である。

 

 もうひとつ、てぬ氏から以下のコメントを頂戴したの紹介する。

 こちらのコメントには私も大筋で同意している。

 

ブログ主さんは人間社会の実際と照らし合わせた議論をしていますが、私はそもそも元の知恵袋の回答は生物学的に間違っていると思います。回答者さんの言っているような群淘汰の話は基本的に現代の生物学では否定されており、個体が集団のために行動することはありえません。個体は自分の子孫を残すことだけを考えて行動しています。社会性の昆虫や霊長類は一見他個体のために行動していますが、それらは血縁淘汰や互恵的利他行動などで説明がなされており、結局は自らと同じ遺伝子を残すことが目的です。

 

  異論・反論というわけではないが、生物学を厳密に扱うなら、「目的」という概念の導入には慎重になる必要がある(一般向け説明として「わかりやすい」ので、活用することを否定する意味はない)。「生物学への目的論の導入」は、次に出てくる「自然主義的誤謬」の亜種、「人間中心主義的誤謬」という側面が作用していることが否めない面もある。

 特に分子生物学に目を向ければ、そこで描き出されているのは物理的・化学的反応の絶え間ない連鎖であり、「Aを目的としてBをしている」は、人間の素朴な思考ないしは常識感覚による「解釈」だと考えられる。

 とはいえ、こうした目的論の活用は生物科学で広く認められているところではあり、そう細かく詰めていってもあまり実りは期待できないから、というのも現実論と捉えている。

 

 なお、『人間社会の実際と照らし合わせた議論をし』たことについては、私も妥当性を欠いたものと考えます。失礼しました。

 

また、以上のような生物学的な論理の間違いに加え、そもそも生物学の話を人間社会に安易に当てはめようとすることは、自然主義的誤謬と呼ばれており(元の意味とは少し違うらしいですが)、非常にナンセンスです。生物学でそうであるからといって、人間社会がそうであるべきという論理はおかしく、両者は切り離して考える必要があります。もちろん一切参考にするなという訳ではありません。生物学は上手に扱うことができれば、人間社会にとって有益なものとなります。

以上のような理由で私は元の回答を全く評価しませんが、多くの人が元の回答を絶賛しているところを見ると、大衆の科学リテラシーの低さや、いかに現代において科学が宗教化しているのかが分かり、私は少し怖いです。

 

 『生物学の話を人間社会に安易に当てはめようとする』ことには私も反対する。例えば、一部の動物は「子殺し」(間引き)を行う。明らかにこれは人間社会に適用するわけにはいかない。良くも悪くも、私もやはり切り離して考えるべきという認識である。

 

 大衆の科学リテラシーの低さは、「ありがとうと唱えれば水がきれいになる」などでもたいへんな絶望を味わいました。少しでもよくなっていけばいいのですが。

  

 

 

 

引用がないという致命的欠陥~「フェミニズム叩きの問題」論について~

  次の記事を読んだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

 現代ビジネスのネット記事に高い品質など元来求めるべくもないが、相変わらず批判的意見を述べる際の最低限の規則が守られていない。ここで言う最低限の規則とは、「批判対象の言説は正確に引用すること」(少なくとも出典を明らかにすること)である。

 

 筆者であるベンジャミン・クリッツァー氏は、上記の記事中で「仮想敵」を叩くことの非妥当性を問題視する。彼によれば、弱者男性論者たちは、「女性」や「フェミニスト」といった属性を「仮想敵」として叩くことで、日頃の憂さ晴らしをしているという。そして、そうした言説には妥当性がなく、かえって弱者男性自身を追い詰める始末になっていると分析してみせる。

 

 しかし同時に、クリッツァー氏のこの記事自体も、「弱者男性論者たち」を「仮想敵」として叩いてしまっている。

 記事では「弱者男性論者たちは……」という表現が繰り返し出てくる。しかし、弱者男性論者の個別具体的な主張は全く引用されていない。ただクリッツァー氏による「弱者男性論者たちの主張の要約(概括)」が一方的に提示されるだけだ。

 

 要約は、結局のところ「もとの文章」とは異なる。要約する場合、要約者による歪み・ずれが必ず生じる。それはまさに「仮想敵」問題を引き起こしてしまう。加えてクリッツァー氏は出典も書いていないから、「正しく要約されているのか?」と確かめることもできない。

 例えば、次の3つの文章は、すべてクリッツァー氏による要約である。「もとの文章」はどこにあるのか、誰が言ったのか、全く不明である(強調は引用者=私による)。

 

弱者男性論者たちは「リベラル」以上にフェミニズムに対して批判的な立場をとる。彼らは、女性の「幸福度」は男性よりも高いという調査結果があることや大半の女性は男性に比べて異性のパートナーに不足していないことなどを指摘しながら、女性のつらさは男性のそれに比べて大したものではない、と主張する。そして、女性に有利になるような制度改革やアファーマティブ・アクションなどの必要性を論じるフェミニズムの主張を批判するのだ。

 

弱者男性論者がよく取り上げるトピックに「女性の上昇婚志向」がある。統計的にみて、女性は自分よりも年収が高い男性を結婚相手に選びたがり、いくら自分の年収が高くても自分より年収が低い男性とは結婚したがらない傾向がある。弱者男性論はこの点を強調したうえで、年収が低い男性は経済的に不利であるだけでなく異性のパートナーも得られないことで二重につらさを感じている、と指摘する。

そして、年収が低い男性が感じるつらさの原因を女性の上昇婚志向に求めて、女性たちは年収の低い男性とも結婚するように選択を改めるべきだ、と論じるのである。

 

弱者男性論の多くは、男性のつらさの原因は「女性」にあるとして、女性たちの問題や責任を述べ立てることで女性に対する憎しみや敵意を煽ることに終始しているからだ。

 

 内容を検討する以前の問題である。読者は、クリッツァー氏による要約の正しさに確信が持てない。というより、おそらく正しくないであろうと思わされる。実際、「批判・否定しやすい主張だけ恣意的に取り出しているのではないか?(≒仮想敵を叩く藁人形論法/チェリーピッキングに陥っているのではないか?)」と指摘された場合、クリッツァー氏には返せる言葉がない。

 

 そもそも、「男性論者たちは……と主張する(と指摘する、と論じる)」という構文で書くなら、「……」の部分に入れていいのは、もとの文章(原文)だけである。自己都合によって歪む勝手な要約を入れてはならない。記事では、クリッツァー氏による要約が入ってしまっている。不正行為だと評されても文句は言えない。

 またクリッツァー氏は、「女性」や「フェミニスト」という「属性」(集団)を叩くのを、仮想敵に対する不当な攻撃だとしている。それはそうかもしれない。しかし、そうであれば、「弱者男性論者たち」という「属性」(集団)を叩くのも不当な攻撃だろう。「弱者男性論者たち」もまた、ある特定の思想を(いくらかの異同を含みながら)共有する集団に他ならない。結局、クリッツァー氏は自分で主張したルールさえ守れていない。弱者男性論者たちを『叩いて溜飲を下げて』も、『幸せにはなれない』のではないかと心配である。

 

 教育学者の宇佐美寛氏は、「要約」について次のように述べている(例によって強調者引用者である私による)。

 

 要約(概括)は、要約者がどんな観点で要約するかによって、いろいろに異なってくる。もちろん読者の頭にある要約とも異なる。

 文章を書くのは、読者に読ませ何ごとかをわからせるために書くのである。そのためには、読者と同じ素材を共有しよう。同じ素材を使って、どう思考が進むのか読者に見える文章を書こう。読者といっしょに思考を進めつつある文章を書くのである。

 他の文章を読んだ上でその内容について書く文章をここでは論じているのである。素材を読者と共有してそのような文章を書くためには、要約に頼ってはならない。筆者の頭の具合いで歪みが生ずる。また、前述のように、筆者によって多様な要約があり得る。

 では考え、書くための素材をどう共有するか。引用によってである。要約するのではなく、そのまま引用するのである。

(宇佐美寛編著『作文の論理:[わかる文章]の仕組み』東信堂(1998), p.32)

 

 また続けて、次のようにも書いている。

 

 全て、主張には証拠が要る。文章で何かを主張する場合、主張の証拠をその文章に書きこまねばならない。前述のように、事例も強力な証拠になる。また、他の文章の内容について主張するためには、その文章からの引用が不可欠である。

 他人の文章の内容を引用無しで論ずるのは無礼である。証拠も出さずに何かを主張しているわけである。

 また、読者にも〈どんな素材で論じているのか〉、〈どんな証拠で論じているのか〉を示さねばならない。引用が要る。

 要するに、引用によって、筆者と読者、そして対象である文章の筆者は、同じ素材を共有し、平等の関係になるのである。

(同書, p.33)

 

 全くその通りである。引用は必須である。宇佐美寛氏はまた「引用無きところに印象はびこる」(波多野里望編著『なぜ言語技術教育が必要か』明治図書(1992), p.151)とも述べているが、これも覚えておきたい。まさに引用がないことによって、粗雑な印象論に陥ったのがクリッツァー氏の記事であった。

 

ヤフー知恵袋の「素晴らしい回答」が全く素晴らしくないことを示す試み

 下記のツイートを見た。

  ヤフー知恵袋「弱いものは淘汰されても仕方ないのではないか」という主旨の質問がなされ、その回答が最高だというので読んでみた。もちろん本当に「最高」である可能性には期待していなかった。

 生物学が専門でなさそうな人が「淘汰」とか「適者生存」とか言い出したら怪しいサインである。まあ、そもそも「適者生存」自体、生物学者ではなく哲学者がいいだしたことだったりするのだが(ハーバート・スペンサー, 1864年)。

 

 まずは質問文を読んでいこう。例によって、私が特に問題と感じた部分は太字下線で強調する。

 

弱者を抹殺する。

不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。

自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

でも人間の社会では何故それが行
われないのでしょうか?

文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。

優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。

今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。

 

 質問者は、「弱肉強食」は「人間の社会では行われていない」という認識のようだ。しかし、その認識は正しいだろうか。いまだ世界中で紛争やテロは起きているし、また世界の富の82%はたった1%の富裕層に集中している(また別の表現として、世界のトップ26人の超富裕層の総資産額が、世界人口の半分が持つ総資産額と同じになっている)。

 このような格差社会=経済的搾取の仕組みがある中で、弱肉強食がまるで行われていないというのは、単に現実認識として間違っているのではないだろうか。確かに、富裕層は弱者を直接殴って殺すわけではなく、また殺した後で人肉を食べるわけでもないが、経済的搾取によって人を貧困に追い込み、自分は豊かな生活をするというのは間接的な殺人だ。実際、貧困層は病気にかかる率が高く、病気になっても適切な治療が受けられない。毎日の食事もやっとだから、栄養バランスに気をつけた食事など望めない。ゆえに寿命が短い。また俗に「人生詰んだ」と言われる状態になりやすいから、自殺率も高い。このような「追い詰められた」人々が生み出す富を寡占することによって、先進諸国の豊かな生活は成立している。

 

※ご指摘を受けて追記※

 

 グローバルな絶対的貧困については改善傾向にあるため(後述)、上記の文章は正確ではなかった(書いている最中はおおむね日本社会が念頭にあったが、「世界の富は……」と記載した通り、世界的視野の話をしており、それを踏まえると内容が適切でない)。

 「なかったこと」にして削除、変更するかとも考えたが、訂正文をこのように追記していれば本記事がアジテーションの源泉となる恐れはないと思われるため、間違えた証拠として残しておく。

 

※追記部分終わり※

 

 日本内部に限定しても当然、経済的な弱肉強食は作用している。我々がスーパーやコンビニ、100円ショップを利用する時、そこで働いているのはたいてい最低賃金の労働者だ。彼らが時給1,000円程度でいつまでも貧乏な生活を送ってくれているおかげで、どんな金持ちでも安く買い物ができる。あなたの年収が2,000万円であろうと、スーパーの10個パックの卵は100~200円で買える。経済的強者は、ますます安上がりになっている人件費でますます相対的に強くなり、経済的弱者は更に追い詰められる。

 

 ちゃんとデータも見てみよう。『データで見る社会の課題』から引用した。

 

 日本で年収200万円以下で暮らす人の割合は、2000年には18%程度であったのに対し、2014年では24%近くにまで増えている。

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 また、非正規雇用で不安定な生活をする人の比率も増加する一方となっている。

 

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 他にもジニ係数(格差の指標)や自殺率の推移、生活保護世帯の増加など色々なデータが出せるが、総合すると「人間社会はふつうに弱肉強食で動いている」と評して差し支えないように思われる。

 

 また質問者は『今日の社会では弱者を税金だの何だので、生かしています』と言う。私の答えは「いや、殺している」だ。

 税金に話を限定しても、例えば消費増税貧困層ほど相対的負担が重い。直接的には生活が苦しくなり、また中長期的には消費活動が制約された結果として、さまざまな小企業が倒産する。社長・店主や、そこで雇用されていた人たちの一部が自殺する。

 肝心の回収した税金も、法人税の減額でほぼ相殺されている。つまり貧困層から税金を取り、富裕層の税負担を軽くしている。

 

消費税収282兆円 法人税減税で消えた

 

 質問者が言うところの「弱肉強食」という「理に適った世界」は、確かに実現されているので、安心してほしい。

 

※ご指摘を受けて追記②※

 

 以上は日本に限定した話であったが、ツイートで浅井ラボ氏より次のご指摘を受けた。

 

 

 

 世界的視野においては、絶対的貧困は改善されつつあり、弱者救済措置にも力が入れられているとのこと。 このあたりに関しては私の知見が薄く(あるいは古く)、不徹底な記述だった。

 

※追記部分終わり※

 

 では、次に「最高」とツイートで言われていた回答の方を見ていく。こちらは何やら生物学的な回答っぽいが、実は生物学とは程遠い。ひとつひとつ説明しよう。

 

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります

 

 「適者生存」は「個体が生き延びるという意味ではなく、遺伝子が次世代に受け継がれるという意味だ」と回答者は解説しているが、そもそも「遺伝子が次世代に受け継がれた」と言うためには、次世代の個体が誕生し、かつその個体が次の個体を産むまで生き延びなければならないので、この2つを別々に論じることは不可能である。

 例えば「10年生き延びた親が生んだ1匹の子」は更に次の世代の子を産むことに成功し、その後も数千万年にわたって繁栄したが、「1年しか生き延びなかった親が生んだ10匹の子」の方は次世代を産む前にあえなく全滅し、結果それが最後の一撃で種としても絶滅してしまったとしたら、「適者として生存した」のは明らかに前者だ。

 多産であるのが有効とは限らないというだけの話だが、妙なのは、この文章の前で、回答者もそれを認識しているかに思える点である。

 

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります

多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、

あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

 

 「1匹の子と10匹の子」の話からすると、「多産のほうが少産よりも生存戦略として適している」と読んでしまう。この回答文はずっとこうなのだが、基本的に話に一貫性がない。

 

 「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する

個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します

 

 この部分も二重三重に間違っている。まず、「長期の生存が不可能な個体」を「質問主さんがおっしゃる"弱者"です」と決めつけているが、質問文には弱者の定義は書かれていない。また、前提にしている「弱者も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化できる」という話に根拠がない。ここでいう「子孫の繁栄」は、すぐに『どれだけの個体が生き延びられるか』と述べている通り、単純に個体数を指すものと考えられる。ではなぜ、貧困国よりは先進国のほうが、先進国でも昔よりは現在のほうが、「高度に機能的な社会」であるにも関わらず、少子化問題が深刻化しているのだろうか。あるいは、貧困国で人口爆発が懸念されているのだろうか。

 

 そして、回答者は『どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します』と言うが、比例とはy=axで表すことのできる定量的な関係である。『社会の持つ力』とやらは、一体何で表現されるのだろう。仮に社会福祉の充実度あたりをどうにかして数値に落とし込み、それを「社会力」と呼ぶとしても、本当に「個体数=A×社会力」で表せるか。また、「社会力=個体数/A」になるか。中国やインドの個体数(人口)が多いのは、中国やインドの社会力が高いからか(弱者救済措置からは程遠い国々に思えるが)。

 

人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう
生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません

 

 回答者は自分で(生存戦略として)『多産なもの少産なもの』もいると書いていたはずである。この『生物が子孫を増やすのは本源的なものであり……「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません』とは合わない。少産を選ぶ合理的理由がまったくないはずだからだ。

 

遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

 

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

 

 なぜ、「有利」だけを考えているのだろうか。「不利」も考えなくてはならない。ある遺伝子によって発現される形質が『どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能」であるならば、同様に不利に働くかも計算不可能である。であれば、「できる限り多くのパターン」を抱えておくことのメリットとリスクの比較ができない。なぜ、「できる限り多くのパターン」があったほうが生存に有利だと分かるのだろうか。「計算不可能」であるならば、「有利とは分かる」こともない。

 そもそも「不利なパターンを抱えたせいで絶滅する」という現象が起きないとでも思っているのだろうか。例えば羽が美しいことから人間に乱獲された朱鷺は、美しくなければ生き延びられたであろうことを考えると、不利な形質を発現させたせいで絶滅したとも言える。

 

 回答者はパターンを多くすること(多様性をもつこと)を「保険」になぞらえているが、その「保険」は無料ではないし、ノーリスクでもない。ゆえに、生物界はやたらめったら多様性を確保するという選択はしていない(無料かつノーリスクな保険なら加入しまくればいいはずだ)。親と子は「だいたい似ていて、少し違う」くらいのバランスである。私が子をもうけた場合、その子にはおそらく羽は生えていないだろうし、エラ呼吸もできないだろう。全身を犬めいた毛皮で覆われているということもあるまい。ただ私とそっくり同じでもない。これはだいたいは似ていなければ親と同じ生物学的環境に適応できないからだし、全く同じであっても(長期的には)環境の変化に耐えられないからである。個体数にしても多様性にしても同じだが、これらはただひたすら高めれば良いような単純なパラメータではないのだ。

 

 「今の環境で生き延びること」と「将来の環境に備えること」はしばしばトレードオフの関係になる。「今の環境」に最適化しすぎると、その環境が続く限りは強いが、変化が起きたときに弱くなる。一方、「将来の環境」に備えようと多様性を高めすぎると、それは役立たない形質を発現させた個体が多いということにほかならず、今の環境での競争力が弱くなる。つまり「将来」が来る前に絶滅するリスクを抱える。だから、極端なことはやらないのである。

 

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです

「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです

 

 結局「社会科学」らしい。まあ、少なくとも生物学ではないのはこれまで述べてきた通りに確かである。

 そして、その「社会科学」の見解はといえば――って、これ質問文と何の関係があるのだろうか? 「闘争と協働のどちらが人間社会にとって本質的か?」という問いはなかったように思われるが……。

 

 それはさておき、この答えとやらを単独で読んでも意味が分からない。闘争・協働はどうも人間同士の話のようであるが、「闘争」を戦争・紛争・テロといった直接的な攻撃行動に限るとしても、「協働」とどちらが最後になるかは人類の歴史が終わってみるまで分からない。例えば人口が増えすぎ、利用可能な資源が枯渇に近づいていけば、最後は「闘争」しないと生き延びられないとも言える。そこからまた「協働」になるのかもしれないが、しかし当然また「闘争」も起きるだろう。最後とはどこでどうやって区切った場合の話だろうか。