お嬢様のための議論講座 Part.2:『レスバで負けないための10箇条』を題材に

お嬢様口調で議論講座を書くのは面白いですわ。

わたくしが飽きるまでシリーズ化してやっていきますわ。

 

どういう星のめぐり合わせか、昨日わたくしが『ネット議論お嬢様のためのランク別「議論力」向上法』を公開したのとほとんど同時(同日)に、別のお嬢様が次の記事を公開しておりましたわ。

 

note.com

テーマは似ているようで違うのですけれど、興味深く拝読いたしましたわ!

 

違いとしては、こちらのお嬢様は『インターネットにおける護身術として、レスバで負けないための10か条を紹介します。』とあります通り、どちらかというと議論に対して受動的な姿勢の方に向けて書かれていますわ。加えて、あくまでも「負けないこと」が重視されていて、「勝つこと」という積極的姿勢とは異なるのもポイントですわね。

 

そうした違いを意識した上で、おおむね首肯しながら読みましたわ。ですけれども、「それでは護身はできないのではなくって?」「その『甘え』を許さない厳しいお嬢様も多くいらっしゃるのよ。」と思った箇所もいくつかございましたわ。自分の意見を反論から防衛するのはとても大事なこと――議論の「本質」といっていい部分――ですから、今回はその点を詳しく書いてみますわ。

 

ちなみに、けっこう批判的な調子で書きますけれど、前記のようにそもそもテーマの異なる記事ですから、筆者さま(ジャベリューン様)に他意はございませんわ。

 

「断言しない」に防衛力はございませんわ!

ジャベリューンお嬢様は次のように述べておりますわ。

 

地球温暖化の原因はCO2である」と述べると「それは推測に過ぎない」という批判を受けます。

しかし、「地球温暖化の原因はCO2だと考えられている」と述べれば、そのような批判を受けずに済みます。

(中略)

断言は致命的な隙となります。あくまで曖昧に、引用的に、責任を回避して主張するよう心がけましょう。

 

申し訳ございませんけれど、その程度の文末表現の工夫で逃げられるのは、よほど相手がクソザコお嬢様でいらっしゃった場合だけですわ。

 

ここでは仮に「~だと考えられている。」を文字通りに受け取って差し上げましょう。でも、あなたが数ある説の中からそれを選択し、引用した理由は問われますわ。

たとえばこうですわ。

 

「なぜ他の説ではなく、特にその説を引用したのか? その説が正しいと思ったから引用したのではないのか? それとも間違った説だと考えつつ否定的に引用したのか? どちらであるか? またどちらであるにせよ、その判断の根拠は何か?」

 

リアルに、これくらいの弾は飛んできましてよ!

特にお会社での会議や、お学会発表だったら100%誰かに言われますわ。わたくしでも確実にお尋ねするところですわ。回答拒否する権利はありませんわ。だって、選んだのも、それを引用するを決めたのも、間違いなくあなた自身のご意思でしょう? あなたの意思決定を、あなたが説明できない道理はないはずですわ。

この質問には真正面からきちんとお答えできませんと、論者は信用されなくなりますわ。妥当性・信頼性の説明もできないような怪しい文献を紹介してしまうお嬢様ですの? それでは話し合いに参加させられませんわ。

 

あとオマケですけれど、『それは推測に過ぎない』と指摘されて何か困ることがありまして? 明日も東からお日様が昇ってくることだって、言ってみれば推測に過ぎませんわ。よって、「妥当な推測である。」ですとか、「より優れた他の推測が出されないようなら、仮にでもこの推測を採用しておくべきだ。」ですとか、いくらでも答えられますわ。もともと自然科学は推測のかたまりなのですから。

 

論点のすり替えの指摘」は時として弱いですわ

また、次のようにも述べておりますわ。

 

脱線を避けたいなら、初手で相手に「論点は〜〜で大丈夫ですか?」と確認しておきましょう。文字上だと証拠が残るため、簡単に言質が取れます。

一度論点を定めたら、絶対にズラさない・ずらさせないようにしましょう。少しでもズラされそうになったら「論点ズラしにはこたえません」でかわし続けてOKです。

 

かわし続けてOK――ではありませんわ。少なくとも必ずしもそうではありませんわ。ここは注意が必要なところですわ。

 

端的に、「新しい論点を提示したのだ。」と言われたらどうしますの? 特に「この(新しい)論点は極めて重要である。なぜなら……」とちゃんと説明できる相手だとまずいですわ。

わたくしは以前、青識亜論お嬢様と次の会話をしましたわ。論点のすり替え」問題を分かりやすく示していると思いますわ。

 

f:id:Teshima_Kairei:20210518200450p:plain

 

 わたくしの発言であるレバレッジを可能な限り大きくしておくと、勝てた時には大きく勝つことができます。』は完全に真ですわ。それに対して、青識亜論お嬢様は『負けたときは……?』と返していますわ。

でも、お待ちになって? わたくしはちゃんと『勝てた時には』明確に論点を限定しておりますの。ですから、『論点をすり替えないで頂きたい!!』と申し上げましたわ。

 

とはいえ、おマヌケお嬢様は、この場合は明らかにわたくしですわ。もちろん、上の会話は分かっていてのジョークですけれど、重要性によっては、論点を追加されても変更されても文句は言えませんわ。論点のすり替えをかわせるかどうかは、場合によるんですの。

わたくしが「論点のすり替えだ!」と論争相手に指摘されましたら、「なぜ(新しい)この論点を先に扱わなければならないか?」をちゃんと説明しますわ。その後で念仏のように「論点ずらし、論点ずらし……」と唱える側が困る(議論で劣勢と判断される)ように工夫くらいはしてましてよ。実際よくあることですわ。

 

念の為、もうひとつたとえ話を致しますわ。

クラスで文化祭の出店する喫茶店について、あなたが「豪華な看板を作れば、たくさんお客さんが集められると思いますわ!」と述べたとしましょう。別のお嬢様が挙手して言いますわ。「でも、そんな看板を作る時間も予算もございませんわ。」――これを「論点のすり替え」として拒否できるかしら? 「私はあくまでもより良く集客ができる方法を提案したのであって、時間や予算のことを指摘するのは論点ずらしでしてよ!」と拒否できまして?

拒否してもいいですけれど、多分みんなから馬鹿だと思われますわ。明日からいじめに遭いますわね。くれぐれも夜道にはお気をつけ下さいまし。

 

中立は中立で、ふつうに理由が要りますわ

次はこちらですわ。

 

レスバは剣術と同じです。つまり後の先(カウンター)が最強の戦法なのです。
十全に正しく矛盾もない主張は、非常に困難です。しかし、ある主張のほころびを指摘するのは比較的容易です。
レスバで負けたくなければ、派手な主張は避けておきましょう。
中立的に、スタンスを決めずに立ち回れば、無駄な隙をさらさずに済みます。

 

前半部分には同意しましてよ。「最強の戦法」は言い過ぎかもしれませんけれど、ある主張への反証を基本姿勢とすることには賛成ですわ。いまこの記事でここまでやってきたのも「(カウンターで)ある主張のほころびを指摘する」行為ですわね。

 

ですが、『中立的に、スタンスを決めずに』はいただけませんわ。スタンス(立場)を決めないというのも、一つのスタンスですわ。例えば永世中立国(permanently neutral state/country)を宣言するのは、とても強いスタンスの表明ですわ。理由は当然訊かれますわ。それで他国の承認がおりないと中立になれませんわ。(これはあくまでも永世中立国の話ですけれど。)

 

また、その「中立戦法」は排中律問題(Aか非Aかのいずれかしかない問題)には使えないことも指摘しておきますわ。たとえば「死刑制度を続けて良いか?」は、実質的に「続ける」と「続けない」の2つに1つでしてよ。もちろん、「半殺し」は中立ではありませんわ。(そいつは生きてますわ!)

 

もっとも、「中立的に、スタンスを決めずに」の意は、「特に意見なし」「わからない」と答えることかもしれませんわね? けれど、それは防衛云々以前に、ゲーム盤に立ってもいませんわ。確かにゲームを始めなければゲームに負けることもありませんけれど、その場合、ありがたい教えとは言いがたいですわ。

 

 おわりに

素敵な題材がありましたから、楽しく書けましたわ。また何か思いついたらやりますわ。あと、ジェベリューン様におかれましては、一切知り合いでも何でもないのに、いきなりnote記事を引用しまくって好き放題書いてしまい申し訳ありませんでしたわ!

 

以上、私もお嬢様力の向上を目指して頑張りますわ!

 

 

お嬢様のための議論講座 Part.1:ランク別「議論力」向上法

「考えてみれば、ネット議論も『e-Sport』ではありませんこと?」

最近はそんな声もよく聞こえてくるようになりましたわね。それに伴って、悩めるネット議論初心者お嬢様が年々増えているというお話も伺いましたわ。たとえば次のように。

 

・ネット議論をやってみたのですが、言いたいことが上手に言えませんでしたわ。

・煽られたので私もキレ返したら、私のアカウントだけ凍結されましたわ。

絶対わたくしの意見が正しいのに、こっちが間違えたかの如き扱いを受けましたわ。

・相手のクソチート(詭弁)に延々ハメられてますわ。

・参加したつもりのないネット議論に巻き込まれましたわ。

・Togetterに連続ツイートが晒されて、夜も眠れませんわ。

なんだこの野郎ふざけやがって……「分からせ」たい……!

 

いずれも「あるある」と言えましょう。

悔しさで歯ぎしりが止まらないネット議論お嬢様のために、この記事がありますわ。

 

ネット議論お嬢様をA~Dランクの4つに分け、それぞれにアドバイスをいたしますわ。

 

Dランクお嬢様

最初にごめんなさいと謝っておきますわ。Dランクお嬢様は、はっきり言って「論外」のランクでございましてよ。いつもとても乱れた日本語を記述していらして、相手の論はまともに読めていませんわ。必然的に質疑と応答の対応関係もズレてしまって、議論はいつもめちゃくちゃになる――そんなランクですわ。

 

そんなDランクお嬢様がネット議論に強くなるには、小手先の議論テクを知ったり、議論の実戦回数を重ねたりするよりも、インプット量(読書量)を増やすことが最優先ですわ。

 

生まれてから今までに読んだ活字本(エンタメフィクションを含まない、ある程度「お堅い」内容の本ですわ。新書は含めて頂いても結構ですわ。)が300冊未満のお嬢様は、何をどう頑張ってもまともな議論は出来ませんわ。残酷な世界の理ですわね。

 

Dランクお嬢様の特徴で最もわかりやすいのは「日本語の乱れ」ですわ。たとえば「私が感じたことは、この人の言う意見には反対だと思いました。」のような主述のねじれた文、「間違いということに恐れないような覚悟する教育が必要だと思う。」のようなブッ壊れた文を書いてしまいがちですわ。分かる人は、ひと目見ただけであなたがDランクお嬢様だと見抜いてきますのよ。はっきり申し上げれば完全に「狩られる側」でしてよ。ちなみに、おそらくネット議論お嬢様のうち約80%がDランクですわ。

 

Dランクお嬢様にできるのは、まず読むことですわ。浴びるように読書することですわ。自然な日本語表現も、多量の読書を通して自動的に習得されますわ。「活字本300冊なんて多い!」と思うかもしれませんけれど、ネット議論お嬢様のなかには、中学卒業までに――遅くても高校卒業までに――クリアしている人が普通にいますわ。300冊ってぶっちゃけ少ないんですのよ。それにそもそも、まさかスタート地点が0冊ってことはないでしょう? ……いえ、0冊も有り得ますわね。学校で「読まされた」教科書や課題図書はノーカンでしてよ。

 

実際に読む本は、出版社さえしっかりしていれば、「タイトルで興味が感じられる本」で構いませんわ。たとえば新書なら、岩波新書中公新書講談社現代新書ちくま新書から選ぶことですわ。玉石混淆なのは承知しておりますけれど、「本のかたちになっているからといって、内容まで正しいとは限らない。」と批判精神を持って読む練習になりますわ。お金が心配なら、図書館を使うのが良くてよ。

(Dランクお嬢様のために説明すると、「玉石混淆」(ぎょくせきこんこう)は、「すぐれたものと劣ったものが区別なく入り混じっているさま。」を言いますわ。)

 

 

Cランクお嬢様

Cランクお嬢様は、それなりのインプット量があって、一応自然な日本語も書けるお嬢様ですわ。相手からの質問や反論に対して、論理的な対応関係を守った受け答えもだいたい出来ますわ。Cランクとは言いつつも人数は非常に少ないですから、自慢してもよろしくってよ。

 

ですが、Cランクお嬢様はTwitterネット掲示板での「短文のやり取り」はそこそこおやりになれても、「きちんと首尾一貫している『長文』を書く」のが致命的に苦手でいらっしゃいますわ。1000字、2000字、3000字……と増えるうちに、「これは結局、何を仰っしゃりかったんですの?」とか、「最初のほうと最後のほうで、主張が変わっちゃってますわね?」とか、「ここの記述に根拠がなくってよ!」とか指摘されて、それが完全にブッ刺さりますわ。ネット議論では敗北に直結するところですわね。Cランクお嬢様があくまでもCランクお嬢様であって、決してBランクお嬢様ではない理由は「長文力の乏しさ」にありますわ。(「短文のやり取り」でも長期化してくれば結局は長文と同じことですわ。)

 

Cランクお嬢様は、インプット(読書量)を更に増やすのはもちろんのこと、アウトプットも増やしていくべきですわ。2,000字~5,000字程度の記事をたくさん書くのですわ。特に初めは「メインテーマが何かを意識し、話の軸がブレないようにする」と「細かい主張のひとつひとつにも根拠をつける」の2つを意識すると良くてよ!

 

またこのあたりから、議論テクを意識するのもご利益がありますわ。宇佐美寛『作文の論理』香西秀信『反論の技術』の2冊を推薦しておきますわね。議論本・作文本はわたくし50冊くらい読んでますけれど、明確に役立ったのはこの2冊だけでしたわ。詭弁への対策とかも含めてこの2冊でいいですわ。

 

 

Bランクお嬢様

Bランクお嬢様は、きれいな長文を書きこなすことが十分に出来ますわ。大手のお新聞などに掲載されている社説くらいは書けるでしょう。読書量はそろそろ1,000冊を超えたのではなくて? 文章表現にはかなり磨きがかかっていますわ。最初から最後まですんなり読める、そんな良い文章が書けるインテリお嬢様たちですわ。

 

けれど、Bランクお嬢様は素直過ぎると申しますか、「批判的検討」を苦手にしていらっしゃいますわ。良くも悪くも教科書的、文章表現は立派でも肝心の中身が物足りない。誰も真に受けない綺麗事のお説教、すっかり聞き飽きた正論、現実と対応しない無責任な抽象論に走ってしまいがち――このあたりがBランクお嬢様の顕著な弱点ですわ。(あと、奇をてらっただけの逆張りお嬢様もこのランク帯にいますわ。)

 

たとえば、Bランクお嬢様はしばしばこんな文章を書いてしまいますわ。

 

 日本政府は、世界の市場運営の動向を見極めつつ、投資家の保護を最優先に考える必要がある。米国と比べて新興企業への投資が少ないとされてきたが、既存の新興市場の活性化などの論点もある。拙速な議論は避けるべきだ。

読売新聞社説:https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20210516-OYT1T50162/

 

自然な日本語の文章ではあるでしょう。個々の文章表現、あるいは全体の構成についても殊更に文句はありませんわ。設定したメインテーマから話がブレたりもしておりませんわね。

ですけれど、「拙速な議論を避けるべき」だなんて結論は、典型的な「内容空疎で何の役にも立たない正論」に過ぎませんの。こんな当たり前のことは書いて頂かなくて結構。読むだけ時間の無駄でしてよ。

 

Bランクお嬢様は、自分の書く一文一文に対して、「本当に正しい?」「具体的には?」「どんな意義がある?(この文章は必要?)」と考えていくことが大事ですわ。この3つを見落とすインテリお嬢様はとっても沢山いらっしゃいますわ。すらすらと文章が書ける分、意識が宙に浮いてしまう傾向がありますの。

特に、一般論・抽象論は具体的にあてはまる現実の事例が必ずあるはずですわ。一般論・抽象論を書いたら、現実世界にいろいろ当てはめてみて、不備が出ないか落ち着いて確認することが大事ですわ。

 

インテリお嬢様が書いてしまう、「何か立派に見えるけれど、具体的に考えると実はよく分からない一般論・抽象論」は、たとえば次のような感じですわ。わたくしが手ずからおインターネットで拾った、技術者倫理教育について述べた文ですわ。(たぶん筆者は御立派な大学を卒業していますわ。)

 

技術者倫理教育とは、単に技術者はこれをしてはいけない、といったような技術者が直面する課題解決法の教育ではなく、各個人が各人の世界観を持ち、それに照らして価値判断をできるように、価値とは何か、もっといえば自分はいかに生きるかという根源からすべての問題を考えるための基礎を形成するためのものであるべきだと思うのである。

https://www.jsme.or.jp/eec/uploads/sites/5/2016/09/20080107.pdf

 

何か仰ってますわね? 何か仰ってますけれど、わたくしには全然意味が分かりませんわ。

 

「技術者倫理教育」が「課題解決法の教育」だけに限定されてはならないという趣旨のようですわ。では、その限定に陥らない「より優れた技術者倫理教育」とは何でしょう?

 

文章を読むと、それはどうやら『各個人が各人の世界観を持ち、それに照らして価値判断をできるように、価値とは何か、もっといえば自分はいかに生きるかという根源からすべての問題を考えるための基礎を形成する』――ことが出来るような教育みたいですわ。

 

『各個人が各人の世界観を持ち』ですけれど……どんな状態ですの? 教えても教えなくても、各個人にはそれぞれの世界観はあるのではなくて? 世の中には、「世界観を持っている人」「持っていない人」が別々にいらっしゃって、この方の技術者倫理教育を受講すれば、「世界観を持っていない状態」から「世界観を持っている状態」に変化しますの? それはどういう変化ですの?

 

『価値とは何か』――また大きく出ましたわね? ですけれど、たとえば、お会社に勤めていて、お上司の方から「自社製品の性能データを都合よく改ざんしろ。」という命令を受けたとしましょう。それが倫理的に良いことか悪いことか判断し、課題解決を図るために、『価値とは何か』『自分はいかに生きるか』という『根源』から考える必要って、本当にありまして? 続きで『すべての問題』と仰ってますから、きっと必要があると論じるのでしょうけれど、このデータ改ざん命令のケースだとどうなりますの。受講すると、断固として断る力が強くなりますの?

ちょっとお願いがあるのですけれど、「旧来の倫理教育しか受けていない人はその問題に……という程度にしか答えられないだろうが、私の新しい技術者教育を受けた人なら……と(より良く)答えられるはずだ。」を穴埋めする形で、明晰に述べてみてくださる? あなた、ひょっとして出来ないのではなくて?

 

まあ、意地悪はこれくらいにしておいて差し上げましょう。

 

 Bランクお嬢様は、基本的にはお利口なのですけれど、このように浮足立っていることも多いですわ。特に私など、相手がインテリお嬢様と見れば、上の例のように「ひたすら足元を蹴る」ことにしていますわ。そこを攻撃されないとでも思っているのか、なぜかガードが甘いんですの。

 

Aランクお嬢様

Aランクお嬢様は、「批判的検討」を得意とする者ですわ。更に具体的に言い換えれば、「反論を先回りして考える力」と「自己批正する力」の2つを十分以上に習得した素敵なお嬢様ですわ。

 

数学における証明、自然科学の実験に基づく論証の結論を除けば、すべての意見にはおおいに反論があり得ますわ。様々な角度からの、多数の反論があり得ますわ。Aランクお嬢様とは、要するにそうした多数のありうる反論を幅広く思いつくことが出来て、対策しておけるお嬢様でしてよ。

 

また、Aランクお嬢様は、新たに思いついた反論のほうが元の意見よりも優れていると分かれば、直ちに意見を切り替える力(自己批正する力)を持っていますわ。これまたAランクお嬢様がAランクたりうる理由ですわ。

 

Bランクお嬢様がしばしば「お気に入りの」結論にご執心なさって、「自分の意見が正しい証拠」を探しがちなのに対して、Aランクお嬢様は「自分の意見が間違っている証拠」(反証)を探していることが多いですの。Aランクお嬢様は、ある意見の「正しさ」は、結局のところ、「まだより説得的な反論が為されていない」という消極的事実によってしか支えられないとご存知なのですわ。

 

この検証サイクルを回しているお嬢様と、そうではないお嬢様の〈議論力〉の差は、まさに圧倒的なものですわ。隔絶した別の生き物といってもよろしいでしょう。こうしたAランクお嬢様は、より高い練度のAランクお嬢様でしか相手にできませんわ。

 

手元からAランクお嬢様の議論を紹介してみますわ。宇佐美寛の『議論を逃げるな』から引用しますわ。氏はまず、『自分ではない過去の教育思想家が何を考えたかを解説するのは、教育の研究ではない。』と端的に主張を述べ、その理由を説得的に説明していらっしゃいますわ。

 

 自分ではない過去の教育思想家が何を考えたかを解説するのは、教育の研究ではない。自分自身の実践・情報によって、自分でなければ言えないことを教育現実について言うことこそが、教育の研究である。

 ところが、右の道理をわきまえていない教育史家ばかりである。

 ある大学教授は自分は「ペスタロッチ学」の研究者だと称する。また、他の教授は、何についても「リットはどう考えたか。」の形で答える。

 大学以外の教師でも、大学教員の採用に応募するのに、このような権威主義で動く。例えば、幼児教育のポスト教員として、コメニウス(コメンスキ)あるいはフレーベルの思想を読んでいるというだけの「研究」歴ゆえに応募する。

 日本の教育現実の認識・変革は、最初から意識されていない。

 だから、教育史研究の資格で大学教員になり得た者の多くは、日本の教育現実については不勉強であり無知である。問題意識も劣弱である。知らないのだから、問題意識の起こりようもない。

(中略)

 ところが、教育史研究者は、しばしば、次の類いの言を発する。

「歴史を知るからこそ、現実がわかるのだ。未来への見通しも出来るのだ。」

 彼らは、この種のお守り言葉(呪文)の正しさを確かめているのだろうか。

(中略)

 前記の粗大な呪文に酔う者に言う。

「また、医学の例をとる。『水分は生きるために必要だ。』これは粗大なスローガンである。

 次のように、様ざまな疑問が出る。

 水にどんな毒物が入っていてもいいのか? 塩分は要らないのか? どんな間隔で何回飲むのか? 他のどんな食物といっしょに飲むと、どんな影響が有るのか?」

 教育史の意義についても、右と同様である。

「どんな時代についての研究であっても、それによって『現実がわかる』効果は等しいのか? プラトンを研究しても、デューイを研究しても効果は等しいのか? どんな教育研究を組み合わせても『現実がわかる』効果が有るのか? 例えば、小学校での英語教育についての研究者にとってプラトン思想を知ることは、どんな効果をもたらすのか?」

 とにかく、このような具体的な問いを自ら問う自覚を欠いたままで呪文を唱えないでもらいたい。

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ある意味、Aランクお嬢様が書いた文章は、Dランクお嬢様が書いた文章と同じくらいすぐ分かりますわ。Aランクお嬢様の文章は、一文一文に異様に隙・油断がありませんわ。読者が「なぜ?」と思うところには、必ず「なぜなら……」の回答にあたる文が書いてありますわ。反論を思い浮かべながら読んでいると、まさにその反論を筆者みずからが取り上げて、再反論をブッ込んできますわ。

 

また、これも分かりやすい特徴ですけれど、Aランクお嬢様は「弱い」文末表現の使用頻度が極めて低いですわ。たとえば、これをお読みのお嬢様も、

「……ではないかと思われる。」
「……という気がしてならない。」
「個人的には……と考えている。」
「……ではなかろうか。」
「……と感じさせられた。」

あたりはついつい多用してしまうのではなくて?

 

読者からの反論に身構えてつい顔を出した防衛反応でしょうけれど、いざ反論が来たときに、「いや、そのー、あくまで私にはこれが正しい気がしたというだけで、まあ、あれだ、断定はしていないんだ。個人的な考えで、押し付けようともしてなくて、だから……」とでもグチグチ言うおつもりなんですの? でも、それが通用する場面はないですわよ。わたくし、小学生の頃から20年近くネット議論界隈に顔を出しておりますけれど、この言い訳が通用している場面を見たことがありませんわ。

 

このような逃げ口上を準備するより、ずばりと言い切ってしまって、間違った時は明確に間違ったと分かるようにしておく方が、ずっと利益が大きいですわ。自分の意見を修正し、改善し、洗練させる良い機会ですわ。

 

さて。わたくしも、Aランクお嬢様を目指して頑張りますわ。以上でございましてよ!

神崎ゆき氏『「名誉男性」は、なぜ差別用語なのか』について

神崎ゆき氏が次のnote記事を公開した。ひとつひとつ、根拠を明示しながら丁寧に主張されており、私などがこう評するのも僭越ながら、大変素晴らしい記事と感じた。読者諸賢の皆様にも、ぜひご一読を願いたい。

 

note.com

 

私が以前書いた記事についても、批判的に言及されている。喜ばしいことである。党派性で馴れ合い、褒め合い、「敵」の悪口を言って盛り上がるのは、言論界のあり方として健全ではない。批判・異論・反論が活発に交わされるべきである。

とはいえ、そうした議論は、下手をすれば相手が「参りました。」と言うまで粘着するような、非建設的な内ゲバにもなりかねない。それはそれで不健全であるし、神崎氏が望むところでもないだろう。

ゆえに、私なりに論の相違点を明確にし、読者に向けて明らかにすることを以て、本件についての私の見解は締めくくりたい。(むろん、神崎氏を初め、他の方々がさらなる批判を加えるのは自由である。)

 

名誉男性」という語について

記事では、神崎氏は「名誉アーリア人」「名誉白人」の歴史的経緯を説明したのち、現代日本のインターネットにおける「名誉男性」の使われ方を次のように述べた。

 

名誉男性」の使われ方に共通するのは。
「自称もしていない、男性側から称号も与えられていないにも関わらず、特定の女性の内心を想像で決めつけ、批判する目的で付与される」
そんな実情なのです。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

その根拠は、記事で紹介された3つの記事(こからじさら氏、河崎環氏、アルテイシア氏のもの)による。

 

このうち、こからじさら氏・河崎環氏の記事に関しては、私も『特定の女性の内心を想像で決めつけ』るものと同意する。邪推であり、不当な評価(ラベリング)である。

しかし、アルテイシア氏の記事は他2つとは趣旨が異なる。

 

名誉男性とは、ざっくり言うと「男尊女卑的な価値観に染まってしまった女性」である。
たとえば、後輩女子からセクハラや性差別について相談された時に「私だったら笑顔でかわすけど」「そんな大げさに騒ぐこと?」などと返す女性がいる。
その手の女性は「相手も悪気はなかったのよ」と加害男性を擁護したりもする。
(中略)
男尊女卑に迎合するか、抵抗するか?
その選択を迫られた時に「そりゃ迎合して、都合の良い女になった方が得でしょ」と開き直る女性には「自分さえ良けりゃいいのか?」と聞きたいし、弱い者を踏みつけて成功するような生き方を、私は選びたくない。

名誉男性|「マイナビウーマン」

 

一般論として述べており、個別具体的な「特定の女性」の話ではない。記事全体としても、「男尊女卑的な価値観に自ら染まるな」という主張に力点があると解するのが自然だろう。そして実際、記事中で想定・仮定されているような女性は実在するであろうし、それが問題だという指摘には一定の正当性がある。(むろん『セクハラや性差別』が事実だという仮定の中での話である。)

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』でいえば、そのような女性は「カポー」に近いと思われる。

 

ここで語られるのは、「知られざる」収容者の受難だ。特権を示す腕章をつけず、カポーたちから見下されていたごくふつうの被収容者が空腹にさいなまれていたあいだ、そして餓死したときも、カポーたちはすくなくとも栄養状態は悪くなかったどころか、なかにはそれまでの人生でいちばんいい目を見ていた者たちもいた。この人びとは、その心理も人格も、ナチス親衛隊員や収容所監視兵の同類と見なされる。彼らは、今、罪に問われているこれらの人びとと心理的にも社会的にも同化し、彼らに加担した。カポーが収容所監視兵よりも「きびしかった」こと、ふつうの被収容者よりいっそう意地悪く痛めつけたことはざらだった。たとえば、カポーはよく殴った。親衛隊員でもあれほど殴りはしなかった。一般の被収容者のなかから、そのような適性のある者がカポーになり、はかばかしく「協力」しなければすぐさま解任された。

ヴィクトール・E・フランクル『新板:夜と霧』みすず書房(2002)

 

「カポー」は、ユダヤ人被収容者から選ばれた特権者であり、ナチス親衛隊員に加担した。むろん、フランクルは彼らを「名誉アーリア人」とは言わなかったが、同じ被差別者の立場から「被差別者が差別に加担している」という構造を問題視した上で、「名誉アーリア人め!」言ったのであれば、私はその正当性を認めたくなる。

また南アフリカ共和国における「名誉白人」の例についても同様である。もし被差別者である黒人の誰かがが、白人専用のベンチやバスを堂々使う特権的な人々を見て、憎らしそうに「名誉白人どもが、畜生め。」と言ったとすれば、私は彼を非難する気持ちにはなれない。

告発者の属性と内容(特に「差別への加担」が事実であるか)によっては、私は「名誉男性」という言葉を用いた批判も正当でありうると考えている。

 

あまりにも程度が異なる話であると思われるかもしれない。それこそ「実情」として、『名誉男性』は、上の例ほど人としての同情を禁じ得ないような、「やむにやまれぬ事情」によって発されることは少ないだろう。

 

しかし、『セクハラや性差別』もそれを擁護する女性もいるのも事実である。卑近な例を取り上げてみよう。昨今のコロナ禍によって、私が勤める会社でもマスク着用と手洗いが徹底されるようになった。また出勤時に体温を測定することになった。問題はこの体温測定だった。

体温の測定結果は、測定器のすぐ横に設置された掲示板の表に書き込むことになっていた。氏名とともに毎日の体温が並んでいる。ある日、それを見た男性社員が、女性社員の体温変化を見て「『あの日』(生理)に入ったんじゃないか。」と、こともあろうに本人に言った。

この発言がセクシャル・ハラスメントであることについて、私は何の異論もない。氏名と体温変化を誰の目にもふれる掲示物にしていた会社も問題だが、発言者の加害性も当然問われる。事実、問われ、発言者は厳重注意処分となった。掲示はやめることになった。(処罰が軽いのではないかという論点は省く。)

一方で、男性社員の発言を間接的に擁護する女性社員もいた。それこそ「私だったら笑顔でかわすけど」「そんな大げさに騒ぐこと?」「相手も悪気はなかったのよ」式の擁護であった。被害者本人はそれを「名誉男性的言動」だと指摘し憤った訳ではなかったが、つらかっただろうと思う。仮に彼女が「名誉男性どもめ!」と言ったとしても、私は語句を改め訂正せよとは要求しないだろう。

 

 上の理由により、私は「名誉男性」の使用をある限られた範囲で擁護するのであるが、神崎氏による次の指摘は、私の論にも不備があったと認めざるを得ないものであった。

 

「女性に名誉男性の称号を与えている男性などいない」ということ。
 記事の執筆者は「男性に迎合する女性」を示して「名誉男性」と使っていますが、それは男性側から与えられた称号ではありません。
 実は、この点がホロコーストアパルトヘイトと状況が異なる部分であり「名誉男性はなぜ差別用語なのか」を考えるに当たって重要な部分となります。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

 確かに「名誉○○」とは、歴史的経緯からいって、上の立場から下の立場へ与える称号である。したがって、私が例にしたような「ある被差別者が差別者を擁護したとき、同じ被差別者の立場からその人を非難すること」に使うのは、不適切な【応用】【転用】に該当ではないか――これは妥当な指摘でありうる。

 

ただ、この語を使う・使わないに関わらず、「被差別者みずからの差別への加担・再生産」に関しては、問題意識として持っておきたい。少なくともアルテイシア氏の記事に関しては、「名誉男性」の語の使用のみによって、論旨の全体を棄却できるものではない筈だ。

 

 

「ツイフェミ」について

ツイフェミの使用については、私は前回記事と意見を変えていない。使ってよいという意見である。(そして、現実的な社会運動を重視して「フェミニスト」を使うのも理解はする、という意見である。)

神崎氏は、私との見解の相違について次のように述べている。

 

「蔑称ではあるが、差別用語とまでは言えない」
 そのうえで。
 私と手嶋海嶺氏の意見の違いは「それでもなお『ツイフェミ』という呼称を使用するか否か」という点にあります。
 この論点を考えるには。
 『ツイフェミ』という用語の使用用途である「"本来のフェミニスト"と区別する」という問題に関わります。
 本来のフェミニスト
 例えば、手嶋海嶺氏は『ポルノグラフィ防衛論』を執筆した、リベラル・フェミニストであるナディン・ストロッセン氏を挙げています。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

この部分は訂正しておきたい。上の文だけを読むと、私が「リベラル・フェミズムが"本来のフェミニズム"であり、その他のフェミニズムは、いわば"偽のフェミニズム"である。」と主張しているように誤解されかねない。

多種多様な○○・フェミニズムは、いずれもすべて「本来・非本来」とか、「真偽」があるわけではない。

私は前回記事で次の通りに述べた。

 

フェミニスト」だと、人物でいえば、メアリ・ウルストンクラフト(1759年-1797年)や平塚らいてう1886年-1971年)から、それこそ現代日本で活動する「ツイフェミ」まですべて含まれてしまう。また、思想でいえば、ラディカル・フェミニズムもリベラル・フェミニズムも、その他の○○・フェミニズムも、すべて含まれることになる。

「ツイフェミ」という呼称の使用をやめるべきか? - 手嶋海嶺のゆっくり生活(ネット議論・日常生活)

 

『「フェミニスト」だと……すべて含まれることになる。』という主張はした。また「すべて含まれては困る」理由として、次のようにも書いた。

 

フェミニスト」概念の高い抽象度は、特に批判する場合に都合が悪い。論者が「何を」批判しているのかという焦点がぼやける。論に正確を期するなら、「分けられる限りは分ける」べきなのである。分割のサイズは小さければ小さいほど良い。当然最も良いのは、ある個人の特定の発言を一字一句違わず引用し、それに対して批判することである。むろん、述べたい論旨によって拡張せざるを得ない時は拡張する。しかし、それでも「必要最小限」になるようには努める。そうすれば、隙のない、厳密な批判がしやすくなる。

「ツイフェミ」という呼称の使用をやめるべきか? - 手嶋海嶺のゆっくり生活(ネット議論・日常生活)

 

もっと念入りに書くべきだったが、私がフェミニスト呼称を避けるのは、「本来のフェミニズムとそうでないフェミニズムを区別したいから」ではない。そうではなく、「批判対象を明確にしたいから」である。あえて断言すれば、ラディカル・フェミニズムもリベラル・フェミズムも、マルクス主義フェミニズムも、そしてツイッターフェミニズムも、すべて「本来の」「真の」フェミニズムである。

 

そもそも辞書的定義では、フェミニズムの語は「女性の社会・政治・法律上の権利の行使を擁護し、性差別の克服をめざす考え方。」(岩国8版)という程度の説明になっている。「性差別の克服をめざす考え方」であれば、フェミニズムとしては「真」である。

つまり、主張が的外れであるとか、事実に立脚していないとか、かえって別の差別を助長しているとか、実態として性差別に加担しているとかは、フェミニズムそれ自体の真偽判定には関わりがない。「めざして」いれば良いので、個別の主張の妥当性や、実際に性差別が克服できるという結果が伴うかは別である。

私が個人的にラディカル・フェミニズムを否定・拒絶するとしても、それは「ラディカル・フェミニズムは偽物だから」だと思っているのではない。

 

 異論――というより軽微な修正であるが――があるのはこの点だけである。

 

少し神崎氏の論を紹介しておく。

 

 実際、学問的フェミニズムに携わる人々で。
 『ツイフェミ』の言動を批判せず、それでいて『ツイフェミ』をフェミニストと見なして批判するアンチ・フェミニズムだけを批判する……という、頭がこんがらがりそうな不可思議な主張をすることがあります。
 また、「過激さ」だけで言えば『ツイフェミ』以上の発言をしているフェミニズム研究者もおります。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

実態としてそのような責任回避・恣意的選別が行なわれているので、それを批判する意味でも「フェミニスト」「フェミニズム」の呼称に統一するのが大事である、という趣旨だと私は解した。(誤解であればご指摘いただければ幸いである。)

私のもとの記事でも述べた通り、この点には同意する。

神崎氏は続けて、青識亜論氏のツイートを引用し、『ツイフェミ』以上に過激な発言をしているフェミニズム研究者を取り上げている。ぜひ神崎氏の記事を読んでご確認いただきたい。(私は彼女らを個別に批判する意思はあるが、特に統一した呼称は用いない。)

 

あとは読者のご判断に委ねる。繰り返しになるが、私は神崎氏と泥仕合的な非難合戦がしたいのではない。おそらく神崎氏もそうであろうと思う。意見の相違点を明らかにすることに努め、「相手に参ったと言わせる」ような粘り方はしない。

 

人物や思想ではなく「行為」に名前をつけること

最後に、新規に出された論点について扱い、終わりとしたい。

神崎氏は次のように述べている。

 

 ひとまず現段階の私自身の結論として、1つ提案をします。
 人物や思想ではなく「行為」に名前をつけるということです。
 例えば、キャンセル・カルチャー(コールアウト・カルチャー)は原義からは多少ズレますが「Twitterで過激な言動を繰り返すクレーマーの行動」を包括して示しています。
(中略)
 人物や思想や価値観ではなく、具体的な行為に対してラベリングする。
 これが、現時点では価値中立かつ建設的ではないかと思います。

「名誉男性」はなぜ差別用語なのか|神崎ゆき|note

 

『ツイフェミ』の件について、キャンセル・カルチャー(コールアウト・カルチャー)と呼称するのは良い案のひとつであると思う。

しかしながら、個別具体論ではなく一般論とするなら、私には受け容れられない。「○○イズム」「○○主義」といった名称すべてが使えなくなるからである。たとえば「民主主義者」や「共産主義者」とさえ言えない。名称をつけ、整理・分類することは思考のために欠かせないプロセスである。むろん、その整理・分類が、正当・妥当かどうかが個別に議論されるべきであるだろう。しかし、思想や価値観へのラベリングそのものを拒絶するのは「やり過ぎ」ではないか。

 

 以上。なお末筆であるが、たいへん興味深く、また勉強になる議論の機会を提供していただいた神崎ゆき氏に改めて感謝を。また、ここまでお読みいただいた読者の方々にも感謝したい。ありがとうございました。

 

手嶋海嶺(ゆ虐クラスタ

 

「ツイフェミ」という呼称の使用をやめるべきか?

Twitter神崎ゆき氏が次の提言をしていた。今回はこの提言の是非について、管見を述べたい。その際、読者諸賢も一緒になって考えてもらえれば幸いである。

 

賛否両論あると思いますが、私は「名誉男性」という呼称を批判する以上、同様に"ツイフェミ"の呼称も控えるべきと考えます。

① "ツイフェミ"は「名誉男性」と同じくラベリングに該当
② "ツイフェミ"は呼称する側も悪印象
フェミニスト側は現在「批判されてるのはあくまでツイフェミ」と放置状態

「"ツイフェミ"はTwitterフェミニストの単なる略称で"名誉男性"とは違う」と反論できるにはできますが…… まずは「名誉男性と同じく"ツイフェミ"を自称する者はいない」事、またモラルではなく損得の観点で「そこまでしてツイフェミの呼称にこだわる利点があるか」と考えた時、無いと判断しました。
(元ツイートURL)

 

私は上記のツイートに対し、引用RTで、

私は様々な差別被害や犯罪被害に苦しむ女性らをサポートする実務に従事する、立派で尊敬できる「フェミニスト」と、アニメキャラのポスターに因縁をつけて剥がすばかりが能の恫喝集団である「ツイフェミ」を分けて考えたい。これは「イスラム教」と「イスラム原理主義過激派」を分けるくらい当然。

と述べた。

 

私はある時期から「フェミニスト」と「ツイフェミ」(あるいは「表現弾圧型フェミニスト」「検閲賛成派フェミニスト」)を使い分けている。それ以前は大した意識もなく「フェミニスト」と呼び、批判していた。しかし、女性支援センターで働いているという方から、次の旨のご指摘を受け、考えを改めた。

(「次の旨の」と書いたのは、正確な引用ではないからである。原文を再発掘できなかった。さんざん正確な引用を、と唱えておいて、誠にお恥ずかしい限りである。)

 

アニメキャラのポスターを叩いている人たちと、私たちのような女性支援センター等で対応をしている人たちが「ひとまとめ」にされる『フェミニスト』という呼び方はやめてほしい。女性支援センターには、前者の自称フェミニストが生み出したと思われる「アンチ」から、嫌がらせの電話やメールが入り、業務が妨害されている。批判するにしても両者を区別してほしい。

【追記】フォロワーさんが原文を見つけてくださった。 Togetterのコメント欄でのやり取りだった。「女性支援センターで働いている人から直接指摘を受けた」という記憶だったが、これは誤認だった。

 

これ以後、少々勉強し直し、私は「フェミニスト」と「ツイフェミ」を論旨に応じて使い分けることにした。ただし、上の引用はおぼろげな記憶によるとはいえ、「ゆえに、『ツイフェミ』を使って頂きたい。」とまでは言われなかったことを申し添えておく。『ツイフェミ』という呼称の使用はあくまで私の独断である。

 

再び神崎氏の提言に話を戻そう。

 

賛否両論あると思いますが、私は「名誉男性」という呼称を批判する以上、同様に"ツイフェミ"の呼称も控えるべきと考えます。

① "ツイフェミ"は「名誉男性」と同じくラベリングに該当
② "ツイフェミ"は呼称する側も悪印象
フェミニスト側は現在「批判されてるのはあくまでツイフェミ」と放置状態

 

上記ツイートの提言には、「呼称の変更」という視点で見ると、次の2つの意味が含まれていると私は読んだ。

 

A.「ツイフェミ」という呼称をやめること。(①・②の理由から)
B.「フェミニスト」と総称すること。(③の理由から)

 

このうちAにだけ対応するという方法もある。すなわち、「ツイフェミ」を何らかの別の呼称に置き換える方法である。それならば、「検閲賛成派フェミニスト」などの呼称もあるため、私も受け容れるかもしれない(ただし、後述するが「ツイフェミ」という呼称はよく出来ている)。

Bについては現状ではあまり賛同したくない所である。前記した理由に加え、「フェミニスト」という語句の抽象度が高すぎるためだ。

 

フェミニスト」だと、人物でいえば、メアリ・ウルストンクラフト(1759年-1797年)や平塚らいてう1886年-1971年)から、それこそ現代日本で活動する「ツイフェミ」まですべて含まれてしまう。また、思想でいえば、ラディカル・フェミニズムもリベラル・フェミニズムも、その他の○○・フェミニズムも、すべて含まれることになる。

特に『古典的リベラルフェミニズム』(Classical-Liberal Feminism)が含まれるのは大変重大な問題になる。以下、スタンフォード哲学用語辞典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)の"Liberal Feminism"より引用する。

 

古典的リベラルフェミニストは、強制的な干渉から自由になる権利は、女性の生活に強力な意味を持つと考える。女性が親密で性的な問題において自由な権利があることを意味する。これには、以下が含まれる。

性的自律性:性の売買を含む自分の選択した性行為に従事する権利。(Almodovar 2002; Lehrman 1997: 23)
・銃器の使用を含めて性的攻撃から身を守る権利。(Stevens, Teufel, & Biscan 2002)
表現の自由:検閲のないポルノに出演したり、出版したり、消費したりする権利。(McElroy 1995; Strossen 2000)
・親密な交際の自由:パートナーになったり、個人で結婚契約を結んだりする権利。(McElroy 1991a)
・生殖の自由:避妊具を使用する権利、中絶する権利(少数派のプロライフ・リバタリアンについてはTabarrok 2002: 157を参照)。

※可読性を優先し、文意を損なわない範囲で箇条書きに改めて翻訳した。強調も引用者による。英語原文は"Liberal Feminism"2.1 Self-Ownership and Women's Rightsを参照されたい。

 

特に上でも引用されているStrossen、つまりナディン・ストロッセンは著書『ポルノグラフィ防衛論』が邦訳もされており、リベラル・フェミニストとして有名である。ご存知の方も多いだろう(神崎氏はツイートを拝読する限り、ご存知である)。私は、ストロッセンやその他リベラル・フェミニストとして引用・紹介されている人々が、日本でツイフェミとして活動しているクレーマー連中と同じ分類となる「フェミニスト」呼称こそ、極力使用を避けたい。

 

フェミニスト」概念の高い抽象度は、特に批判する場合に都合が悪い。論者が「何を」批判しているのかという焦点がぼやける。論に正確を期するなら、「分けられる限りは分ける」べきなのである。分割のサイズは小さければ小さいほど良い。当然最も良いのは、ある個人の特定の発言を一字一句違わず引用し、それに対して批判することである。むろん、述べたい論旨によって拡張せざるを得ない時は拡張する。しかし、それでも「必要最小限」になるようには努める。そうすれば、隙のない、厳密な批判がしやすくなる。

 

また、「ツイフェミ」という呼称は、侮蔑的なニュアンスを含むものの、しかし、それだからこそ、よく出来ている。実際、「ネトウヨ」と同じくらいよく出来ている。一つの語句で、主に活動している場所、思想・信条、むやみに強い被害者意識と、それに伴う他者への(ほぼ理不尽としか言いようがない)加害性――これらが凝縮されている。よく出来た呼称である。

そもそも、なぜ「ツイフェミ」が蔑称として響くのか。それは、軽蔑されるようなことをしてきたからである。透けていないスカートを透けていると言い、管楽器を「男根のメタファー」と言い、巨乳は奇形だと言ってきたからである。恫喝によって同じ女性の仕事を奪ってきたからである。そんなことで尊敬される訳が無い。感謝される筈も無い。軽蔑・嫌悪されて当然である。ストロッセンらリベラル・フェミニストの議論の質や、実際に行なってきた女性支援活動とは比較にもならない。

誰にも恥じない立派な実績を積み重ねていれば、「ツイフェミ」は、たとえ蔑称として生まれようとも、尊称ともなりえたはずである。あるいは少なくとも、堂々と自称することもできたはずである。たとえば「表現の自由戦士」は蔑称として生まれたが、自負をもって「私は表現の自由戦士だ。」と言うこともできる。基本的人権のひとつである表現の自由を守るために戦う人。たいへん結構である。なぜ「私はツイフェミだ。」と堂々と言えないのか。

 

また、神崎氏からは、次の御質問も頂戴した(こうして御質問をいただけるのは非常にありがたい。こうした機会がなければ、ここまで考えることもなかった)。

 

手嶋さんは「ツイフェミ」「名誉男性」「イスラム原理主義過激派」の3つに差異があるか無いか、どのように考えますか?

(元ツイートURL)

 

 回答する。

「ツイフェミ」と「イスラム原理主義過激派」は、自らの行為の積み重ねによって生じた正当な評価(ラベリング)である。一方で、「名誉男性」は、春名風花氏、茜さや氏、くまクッキング氏等、個別の事例を参照すれば分かる通り、概して不当な評価である(むろん理論的には正当な評価でもありうる。たとえばセクハラ被害を受けた女性に対し、「ちょっとしたセクハラくらい許してあげなよ」と男性加害者側を擁護する女性がいたとしたら、その人は「名誉男性」と呼称されてもやむを得まい)。正当な評価は、その根拠となる事実が続くかぎり同じ評価を続けてよい。不当な評価は、これまでの検討を覆す新たな事実が提示されない限り、やはり不当なのだから、やめるべきである。

 

以上により、私は『自身が「ツイフェミ」呼称を続けること』と、『他者による「名誉男性呼ばわり」を批判すること』は両立すると考える。また「フェミニスト」という呼称で概括的な批判をするべきではないとも主張する。

 

――しかしながら、この私見には、非常に強力な反論(時系列的には逆だが)が既にある。ヒトシンカ氏が作成しているCensoyclopediaの『ツイフェミ』より引用する。

 

ツイフェミという用語の妥当性

 この語を使用することに意義を唱える意見がツイッター上でも散見される。

 単純に蔑称であるため使われたくないとツイフェミ自身が不快感を示す場合があるが、より本質的な問題はツイフェミと区別すべき「まっとうなフェミニスト」「本当のフェミニスト」などが本当にいるのか、という疑義である。

 ツイフェミによる炎上事件がツイッター外のメディアに取り上げられることが時折ある。が、それらを執筆・コメントしているのがフェミニストである場合、それが「社会的地位ある*2」フェミニストであっても例外なく、その炎上がいかに噴飯物の言い掛かりであろうとそれを指摘することなく、党派的に擁護する習性を持っている。その様子はツイフェミがツイッター内部で擁護し合う様子と何ら変わりない。

 これはツイフェミの言い分が正しいからではなく、明らかに間違っていても無理やりにツイフェミ側に付いているのである。典型的な事例として、小宮友根*3が、【宇崎ちゃん献血ポスター事件】でのツイフェミを擁護するため、よりにもよって【性的対象化】の概念を持ち出す記事を書いている。(炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか

 このように「ツイフェミ」でないフェミニストもツイフェミと同程度に過ぎないのであれば、なぜツイフェミなどという語を作り出してまで「そうでないフェミニスト」から矛先を逸らす必要があるのか、という議論がある。

 実際に表現物にクレームをつける際「ツイフェミ」を名乗って抗議するフェミニストは存在しない以上、その影響力を低下させるためには「ツイフェミ」ではなくフェミニズムそのものの評価を下げることが肝要であると考えられる

*2 : ジェンダー学者のほか、フェミニズムに関連する何らかの活動家や弁護士など。

*3 : 東北学院大学准教授。社会学ジェンダー論、エスノメソドロジー/会話分析、理論社会学)

Censoyclopedia:センサイクロペディア【ツイフェミ】より

 

説得的な議論である。むろん、私は「まっとうなフェミニスト」として先のリベラル・フェミニストの何人かの名前を挙げたくなるし、日本においても、女性支援センター等で具体的・効果的な女性サポートにあたる「フェミニスト」がいるだろう。こうした人々を拾い損ねたくはない。

しかしながら、ヒトシンカ氏が述べるように、日本のフェミニスト学者の腐敗は酷く、現在進行系で被害者が出ていることを考えると、まさに喫緊の社会問題である。そうした中、私のようにゆっくりした――悠長な――細かい議論をいちいち展開していては、おそらくほぼ誰にも読まれないし、問題意識も広まらない。したがって、いまの日本における現実的な社会運動論を考え、「フェミニスト」呼称を用いた批判するのは、やむを得ないことかもしれない。

 

ゆえに、私自身は「ツイフェミ」と「フェミニスト」を区別して今後も批判を行なうとしても、真似をしろとは言わないでおく。「手嶋の主張は、厳密さは多少なりあるのかもしれないが、社会運動論としては間違っている(現実に効力を発揮しえない。無力である。)」と言われれば、素直に頷かざるを得ない面がある。

最後に、神崎氏の提言について、読者の皆様がたに改めて考えてもらいたい。

 

賛否両論あると思いますが、私は「名誉男性」という呼称を批判する以上、同様に"ツイフェミ"の呼称も控えるべきと考えます。

① "ツイフェミ"は「名誉男性」と同じくラベリングに該当
② "ツイフェミ"は呼称する側も悪印象
フェミニスト側は現在「批判されてるのはあくまでツイフェミ」と放置状態

 

上記の指摘③は、ヒトシンカ氏の議論の引用により、更に補強されたかと思う。同時に、私なりの批判も加えたつもりである。あとは読者のご判断に委ねることとする。

 

最後に、貴重な機会をくださった神崎氏に心より感謝の念を表する。誠にありがとうございました。

【批判】ネット記事『弱者男性論は差別的か?』の粗雑さについて

少し前、杉田俊介氏の次の記事がTwitterで話題になった。

当該記事の内容は悪い意味での抽象論に終始しており、悪文・駄文が幾重にも積み重なっている。そして、間違いだらけである。

このように私が判断した理由を、具体的な記述を取り上げながら以下に論ずる。

 

bunshun.jp

さっそく大きな問題がある。タイトルである。

この記事のタイトルは、上記のとおり『ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?』である。疑問文だ。よって、読者は、「弱者男性論は差別的である。なぜなら……」または「弱者男性論は差別的ではない。なぜなら……」のどちらかの形式で、筆者なりの「答え」が示されるものと期待して読む(むろん、中間的に「弱者男性論のAという点は差別的だが、Bという点では差別的ではない。なぜなら……」もありうる)。

事実、私もそのように期待した。しかし、記事は次のように漠然とした話から始まり、いっこうに「答え」が示されない。

 

 大ざっぱにいえば、2010年代の反差別論が「ネトウヨ歴史修正主義者は差別者」というものだったとすれば、2020年前後の反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。ごく一部の極端な差別者のみならず、マジョリティであることそのものの日常的(everyday)な差別性が問題視されるようになってきた。

 その一つが「男性特権」であり、不公平で不平等な性差別的構造に対するマジョリティ男性たちの無自覚な加担の問題である。しかし、マジョリティとしての多数派男性の特権性の問題を自分事として引き受けることに、まだまだ戸惑いや違和感を覚える男性たちも多いように思われる。

 そうした状況の中で、あらためて、「弱者男性」論がネットを中心に注目されている。

 

タイトルで「弱者男性論は差別的かどうか?」というテーマが明確に設定された以上、まともな読者はそれを念頭において読む。上述の引用部は、タイトルの疑問にはまだ答えていない、いわゆる「まえおき」である。最後にはテーマと関連してくるのかもしれないが、現時点では不明である(なお、オチを先に言えば、最後まで関連してこない。筆者は「弱者男性論は差別的かどうか?」という問いに正面から答えていない)。

しかし、この3つのパラグラフまでの範囲でさえ、既に複数の欠点・欠陥がある。

たとえば、次の文章である。

 

 大ざっぱにいえば、2010年代の反差別論が「ネトウヨ歴史修正主義者は差別者」というものだったとすれば、2020年前後の反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。ごく一部の極端な差別者のみならず、マジョリティであることそのものの日常的(everyday)な差別性が問題視されるようになってきた。

 

初めの一文は、「A=aだったとすれば、B=bである」という文章である。だが、これは論理的に間違っている。

「A=aだったとすれば、A=b」なら真でもありうる。たとえば「Xが4で割り切れる整数だったとすれば、Xは2でも割り切れる」は成り立つ。しかし、「Xが4で割り切れる整数だったとすれば、Yは2でも割り切れる」は論理的な推論として成り立たない。Xが4で割り切れる整数であることと、Yがどのような数かは無関係である。よって、この文章は本来、「~だったとすれば、……」という型では書いてはならない。

 

――いきなり細かいと思うかもしれない。なんとなくの表現だろうから勘弁してやれと思うかもしれない。ただ、この筆者は全文がこの調子なのである。全文が「なんとなく」であり、「粗雑」なのである。

 

さらに、この文は、主語・述語のどちらにも問題がある。装飾語を省き、後半部の主語と述語だけ取り出すと、『反差別論は……進んできた』となる。

 

まず、主語の『反差別論』がきわめて抽象的である。この名称で指し示されるような「論のまとまり・体系」を考えるのは極めて難しい。不可能と言っても良い。

素直に解釈すれば「反差別論」とは「差別に反対する論の全体」である。しかし、そうであるなら、控えめに言っても、天賦人権説が提唱されるようになった明治時代初期(1870年代前半)から現在までのすべての「反差別論」を指すことになる。また、もっと控えめに、文章にある2010年以後の日本だけを考えるとしても、「反差別論」は明らかに一枚岩的ではない。むしろ相互に矛盾衝突もするような、多種多様な論が含まれている。

たとえば、「ネトウヨ歴史修正主義者」の代表格であろう【在日特権を許さない市民の会】(在特会)にしても、要は在日外国人が持つとされる「特権」をなくし、公平・平等にせよと主張しているのだから、外形的には反差別論である。

在特会は極端にしても、「反差別論」などとひとまとめに言われても、一体どこからどこまで含まれるのか不明である。しかも、それが「進んできた」などと言われても、困惑するばかりである。おそらく確定させる方法もないだろう。フェミニスト女性差別をやめろと言っている。障害者は障害者差別をやめろと言っている。オタクはオタク差別をやめろと言っている。これらがしばしば両立しない主張を含むのはもちろんのこと、同じ「女性差別をやめろ」でさえ、個別の主張には相当な違いがある。これらをひとまとめにして「反差別論」と呼ぶのは、ただ議論を曖昧にするだけで何の意義もない。

 

次に、述語の問題である。筆者は、『反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。』および『……差別性が問題視されるようになってきた。』という2つの文を書いている。

「段階が進んだ」「問題視されるようになった」ということは、段階が進む「前」の時点、問題視されるようになる「前」の時点では、反差別論は「マジョリティによる無自覚な差別」の問題を扱っていなかったか、または扱ってはいてもその規模が著しく小さかったことになる。それは正しいか? 全く正しく無い。

 

これまで日本では、男女差別、障害者差別、部落差別(同和問題)など多様な差別が社会問題として提起されてきた。その中で反差別論者たちは、常に『差別構造に無自覚に加担するマジョリティ』を問題視し、批判してきた。それが差別問題の是正を図る場合の必然的態度だからだ。

差別主義者たちは通常、「自分たちの言っていること・やっていることは差別だ(悪いことだ)」とは認めない(自覚していない)。たとえば、江戸幕府から慣例的に続いていた士農工商の身分制を、維新政府が「四民平等」を謳って廃止した当時、まだ大半の国民はその新しい思想に同調してはいなかっただろう。実態としては、当の維新政府でさえ、外国との対応のため、「やむをえず」公布しただけでもあった。少なくとも「自分たちは『差別』という悪いことをしている」という自認はなかったはずである。

差別との戦いは、まずあなたがたは差別をしているのだと伝える(自覚をもたせる)ことから始まる。また、マジョリティ(社会的強者)による差別のほうが、マイノリティ(社会的弱者)による差別よりも影響力が大きい――それこそ「致命的」に大きい――から、当然、優先して取り上げる。

したがって、『差別構造に無自覚に加担するマジョリティ』は、扱われてこなかったどころか、常に中心的課題として扱われてきたと考えるのが道理だろう。筆者の言うように、反差別論の『段階が進んで』、ようやく2020年になってから扱われるようになったのではない。

 

つぎに筆者は、弱者男性論の曖昧さを次のように指摘する(私はどうしても「自分の論の曖昧さを棚上げにして」と付けたくなるが)。

 

 とはいえ、そこで言われる「弱者」の基準は、今もまだはっきりしない。それは労働の非正規性や収入の話なのだろうか。「キモイ」と言われるような容姿の問題なのか。「コミュ障」とも自嘲されるコミュニケーション能力の問題なのか。あるいは実際に恋人や結婚相手などのパートナーがいるかどうか、という話なのか。「キモくて金のないおっさん(KKО)」と言われるように、それらの連立方程式のような話なのだろうか。

 

 「弱者」の基準がはっきりしていないことには同意する。しかし、様々な変数を含めて「弱者かどうか」を決定する基準を数学的に定めるなら、立式すべきは連立方程式ではなく、多変数関数である。細かいだろうが、これはどうしても指摘しておきたい。

たとえば、収入・容姿・コミュ力(モテ力)をそれぞれ変数x, y, zとしたとき、弱者男性度 F(x, y, z)は次のような多変数関数で表される。

 

F(x, y, z) = ax + by + cz (a, b, cは定数)

F(x, y, z) > 100のとき、弱者男性とする。(適当に基準を定める)

 

このとき、x, y, zには分かっている値を代入する(例えば収入がいくらかは給与明細を見れば良い)。求めたいのは最終的な弱者男性度  F(x, y, z)である。筆者がしたいのは本来こういう話だろう。

一方で、連立方程式は、F(x, y, z)の値が複数のケース(方程式)で分かっているが、しかし変数x, y, zが分からない時に、方程式の組み合わせによってx, y, zの値を求めるものである。つまり、弱者男性度は分かっているが、収入やコミュ力が不明である、という時に連立方程式を解くのである。

 

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むろん、これは本論と直接の関係があるわけではない「初歩的な間違い」ではあるが、この筆者が何もかもを雑に書いていることを示す一例ではあるので、取り上げた。実際、私はこの記事を初めて読んだとき、1ページ目でツッコミ所が多すぎ、この「連立方程式」という語句を見たときついにある種の限界を超えたため、一度ブラウザを閉じている。

 

次。これも問題がある。ちなみにこれは2ページ目なのだが、まだテーマである「弱者男性論は差別的か?」への直接的な回答は示されていない。ずっと周縁的な話をしている。

 

 これもしばしば指摘されるように、「弱者男性」と言っても、発達障害精神疾患の傾向のある人や、「軽度」の知的ハンディのある人や、虐待やイジメの被害者など、様々な問題が絡み合っているし、グレーゾーンの人もたくさんいるだろう。

 それに対して、「ちゃんとした理由があるからあなたはマイノリティ男性、それ以外は男性特権に居直った無自覚な男性たち」とわかりやすく線引きすることができるだろうか。たとえば障害者介護の経験から私が学んだのは、個人や実存のレベルで考えるかぎり、比較や優越はもとより、そもそも安易に他者を線引きするべきではない、ということだ。曖昧な領域にはっきりと線を引くこと自体が暴力であり、支配になりうるから。

 

『個人や実存のレベルで考えるかぎり、比較や優越はもとより、そもそも安易に他者を線引きするべきではない』とのことだが、本当にそうか。何事も「安易に」してはならないのは当然としても、通常、線引きはお互いのために必要である。

知的障害を抱えている人に何か説明する際には、普段よりもゆっくり話し、必要に応じて繰り返し説明する。こんなことも、ある種の線引きである。健常者と比較してその違いを考慮し、対応を変えている。また「おそらくこの人は、自分や障害のない他の人よりも、理解力が低いだろう」という点で『優越』(※「優劣」の誤記か?)も判断している。

加えて、我々は、親しい人・親しくない人、先輩・後輩、上司・部下、親・子供など関係性や立場によって線を引き、ふさわしい対応を考えて行動する。親しい間柄ではくだけた口調で楽しく話し、上司には敬語・丁寧語を使う。

むろん「白人専用バス」のような悪い線引きもある。しかし、それは線引き自体が必要であることを否定しない。

 

また、『曖昧な領域にはっきりと線を引くこと自体が暴力であり、支配になりうる』と述べているが、実際、上で述べたような個人間ではもちろんこと、社会福祉制度等を整備する場合、尚更に線は引かざるを得ない。また、「線を引かない」というのも暴力になりうる。

たとえば障害者学級制度は「障害者の児童とそうでない児童」の間に線を引くことで成立している。ここで線を引かず(筆者の言い方にならえば「暴力」を振るわず)、一緒くたにするのは本当に良いことなのか。個人レベルでも同様であるが、それが正義や道徳に適うのか。

グレーゾーン問題への対処は、線引きの精度や柔軟性、基準を見直すことによって行なうべきであり、線を引くのをやめることで行なうのではない。現にある障害児教育も生活困窮者への生活保護も、曖昧な領域を含みながらも、何らかの線を引くことで実現されている。では、これらはすべて暴力なので、筆者はやめるべきだと考えるのか。もしこの疑問への回答が「すべてではない」としたら、筆者は「やめるべき線引き」と「やめるべきでない線引き」はどのように区別・判別しているのか。言い換えれば、どのように線を引いているのか。おそらく筆者はこれに回答できないだろう。

 

そして、3ページ目でようやく本論への回答が(やや間接的だが)与えられる。

なお、この一連の文章の前には、小見出しとして『反差別的で脱暴力的な「弱者男性」はあり得るか?』と書かれている。つまり、「弱者男性論=差別的」だというのは、筆者の中では説明するまでもない前提だったらしい。そういうことは先に書け。

 

  他方で、こうも考える。ここには、どうしても、いったん、「弱者男性」とは異なる概念が必要なのではないだろうか。「弱者」という言葉が、すでに、アンチフェミニズムやアンチリベラルを強く含意してしまうからである。
 アンチフェミニズムやアンチリベラルへと向かう欲望を切断して(「あっちが批判してきたから言い返しているだけだ」という被害者意識を断ち切って)、「弱者男性」の問題を再定義できないだろうか。
 もちろん「弱者男性」たちが主にネット上で集団的な攻撃性を発揮してきた、という文脈や歴史はすでに消し去ることができないとしても、そうした攻撃性から身を引き剥がそうとする当事者性を帯びた「弱者男性」の概念が再構築されてもいいだろう。
 すなわち、ミソジニストやヘイターやインセルにならないような、反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、どういったものだろうか。日々のつらさや戸惑いや取り乱し、あるいは足元の問い直しとともにある「弱者男性」たち――これがたんなる抽象論だとは思わない。私のまわりの同年代の男性たちや、非常勤講師の授業でであった学生さんたちの中にも、そういうタイプの男性たちがたくさんいると感じるから。

 

『「弱者男性」の問題を再定義できないだろうか』

『反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、どういったものだろうか』

などとやたらと質問してくるが、それは筆者自身が考えて実装するべきである。私なら「不可能」と回答する。なぜなら「弱者男性」を定義するということは、「弱者男性とそうでない男性」に線引きすることに他ならず(これは「定義」の本質的意味そのものだ。たとえば「猫を定義する」とは、猫と猫以外の線引きを言語化することである)、そしてそれは筆者によれば「暴力」だからである。よって、「脱暴力的な弱者男性の再定義」は論理的に全く不可能である。自分で論理的に不可能な条件をつけておいて、他人にやらせようとするな。自分でやれ。

 

このあたりで私は「この記事は終わった」と判断した。

あとは流して軽いコメントを付していく。

 

「異性からの承認待ち」ではなく、「自分たちで自分たちを肯定する」という自己肯定の力がもっとあっていいのではないか。そのためには、SNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、ゲーム感覚で他者を叩くことから、自分たちの日常を解放する必要がある。

 

具体的に弱者男性論を引用し、その誤りを論理的・実証的に明らかにしたわけでもないのに、「こう改善せよ」と要求するのは無礼・失礼である。「ゲーム感覚で他者を叩いている」と決めつけているが、筆者がそう判断した(そして、読者も同じ判断に至れるような)根拠をこの記事で全く述べていない。無礼・失礼である。

あとaddict(中毒)はどうして英語なのか。謎だ。

 

 ここまで「弱者男性」という言葉を使ってきたが、この言葉はどうしても女性や性的マイノリティとのコンフリクトを前提としてしまう(そして女性に対する憎悪や嫌悪を増幅してしまう)から、異なる概念がいるのではないか、と述べてきた。それをここでは、「非正規的なマジョリティ男性」と呼んでおく。

 すなわち、正規の雇用、正規の家族像、正規の人生、あるいは正規とされる「男らしさ」、覇権的な男性性、等々から脱落し逸脱した多数派の男性たちのことだ。

 

「非正規的なマジョリティ男性」など、曖昧語を曖昧語で言い換えているだけで、何の定義にもなっていない。「私は『非正規的なマジョリティ男性』に該当するのか、そうではないのか?」と考えた時、この文章を読んでも判断がつかない。その意味で空虚であるし、明確に判断できたらできたで、今度は筆者が定めた「曖昧な領域への線引きをした」=「暴力的」というルールに引っかかる。どうしようもない。

 

 男がつらい。多数派の男性たちであっても、ひとまず、そう言っていい。声に出していい。

 

筆者の許可など不要である。別に言いたいときに言う。

 

いずれにしても「男がつらい」のその「つらさ」には、さまざまな複雑な要因が絡まりあっているはずだろう。

 

何事もそうである。単に呼吸することですらさまざまな複雑な要因が絡まり合っている。スーパーでトマトを買うときにも、さまざまな複雑な要因が絡まり合っている。つまり事実上、何も言っていない。この手の内容空疎な文が、記事全体を通して非常に多い。

 

重要なのはそれを男性たちが内側から――もちろんマイノリティたちの実践から学ぶこと、他者たちの声に耳をすませながらそうするのは望ましいことだ――解きほぐしていくことである。

 

『他者たちの声に耳をすませ』る作業、『解きほぐしていく』作業は、これまで私が批判してきた事柄を考えると、おそらくこの筆者にはできない。

 

 このような言い方をすれば、やはり、抽象的な理想論に聞こえるかもしれない。しかし、問いはすでに、たんなる個人的で実存的な問題の閾を越えて、「非正規的な男性たち」や「弱者男性たち」が自分たちにとっての新しい生の思想をどうつかむか、という次元にある。私はそう考えている。

 

勝手に決めつけて考えてはいけない。

「実存的な問題の閾を越えて」とは何か。いつの間に閾値(threshold)の定義をしたのか。(そしてついでに言えば、「越えて」ではなく、「超えて」である。)

 

非正規男性(弱者男性)としての当事者性を自覚していくこと。承認から自覚へ。そして責任へ。そうした意識覚醒が必要ではないか。

 

宗教か? 意味不明である。

 

 誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。

 

ここでも論理破綻がある。『誰からも愛されず、承認されず』と『後続する男性たちの光となり、勇気となり』は明らかに両立しない。「誰からも」なら、肝心の「男性たち」からも承認されていないはずである。また「あの人みたいになりたい」と思われるなら、その時点で承認されてしまっている。論理的に両立しない。

 

むろん、意図を汲んでやることは出来る。そう文字通りに読まないで、「本当は、こういうことが言いたいのだろう」と「お迎え」を出すことは出来る。最初のほうで「連立方程式」を「多変数関数」に言い換えたように。

 

しかし、たしかに1回や2回ならいいが、この記事に対してそうする場合、ほとんどすべてのパラグラフをこちら側で「書き直す」羽目になる。ここまでだらしなく、たるんだ文章ばかり書く人が、まともに物事を考えられるとは到底思えない。いわゆる「最大限好意的な解釈」で内容を拾っても、大した話は出てこないだろう。

また、私が書いているこの記事のテーマは、タイトル通りに「ネット記事『弱者男性論は差別的か?』の粗雑さについて」である。はじめに筆者の論が粗雑であることを明らかにすることを約束した。その約束は果たしたつもりである。

 

【検討】Rei氏の『女性は「優しい人が好き」というのに、何故優しい貴方はモテないのか? 』について

 Rei氏が次のnote記事を公開している。

 

note.com

 先にRei氏のnote記事の本論を明示しておこう。以下に引用した本論部分については、特に私も否定すべき点はないように感じた(「弱さは罪だ」は「弱さは性愛の獲得において不利である」の修辞表現であろう)。

 

 この手の話になるとインターネットでは判を押したように「貴方のそれは優しさではなく弱さだからである」「優しいというよりも周囲からの圧力等で自己犠牲的に振舞わざるを得ないからである」「本当の優しさではない」的な言説が寄せられるが、これらは何の根拠もないレッテル貼りである。というのも、この手の疑問には既に実証的な研究が多々あり、既に結論が出ているからだ。そして結論から言えば「優しさはセクシーではない」からである。「優しさ」それ自体は美徳であり、道徳的シグナルであるが女性へのセックスアプローチとしては機能しない。
<略>
 性愛においては男性の弱さは罪だ。しかしながら、弱いないし非モテであるということは決して人格が劣っている事を意味しない。繰り返し言うが、良い悪いは別にして人間の欲望と社会的正しさ・望ましさは必ずしも合致するとは限らないのだ。
<略>

 優しさはセクシーな記号ではなく、モテる/モテないとは無関係である。おっぱいの大きい女性が男性にモテることをもって「社会的に正しい人格をしてる」とはならないように、男性もまた女性にモテることをもって「社会的に正しい人格をしてる」事には決してならないのである。

 

 男性の「優しさ」「誠実さ」「謙虚さ」は、おそらく単に女性のセックスパートナーを獲得する上では好ましくない性質だと、Rei氏はいくつかの論文を提示して、それらをもとに論証している。主張の根拠とした論文を明らかするのは素晴らしいことである。この時点で氏には+5億点ほど差し上げたい(上から目線で恐縮だけれど)。ネット記事で出典論文が明らかにされているのは本当に久々に見た。

 ただ、ごく普通に想像してみても、「優しさ」「誠実さ」「謙虚さ」といった性質を備えた男性は、おそらく女性にアプローチする試行回数が少なく、また1回のアプローチあたりで発揮する「粘り強さ」――ちょっと断られたくらいでは引き下がらない、へこたれない、手を変え品を変え交渉を続ける能力――も低いことが予想される。「失礼かもしれない」「ご迷惑かもしれない」で足踏みする人は、まったくそうでない「傲慢な」人に比べて、セックスパートナーの獲得競争では不利だろう。

 むろん「長期的に安定した関係を築けるか?」となると、また話は別である。Rei氏が引いた3つの論文の研究内容では、長期的関係までは検討されていなかった(これはRei氏の議論が不十分だという指摘ではない。氏の論旨は「優しさではなく弱さ」論への反論であるので、それに対応できる分だけ論じれば良い)。

 

しかし、心理学実験は信用に値するか?

 論文を提示するのは素晴らしいが、心理学分野には業界的に大きな課題がある。2015年、Science誌に"Estimating the reproducibility of psychological science"(心理科学の再現性推定)と題した論文が発表された。著名な心理学学術誌3誌から100報の論文を選出し、その再現性(同じ方法で実験すれば、同じ結果が得られ、同じ結論に到達することができるか?)を確かめるものだったが、残念ながら「再現性は非常に低い」という結果になった。

 幸い、上記論文の要約が日本社会心理学会の手によって和訳されている。以下に紹介する。なお、強調は引用者による。

 

再現性は科学にとってもっとも重要な特徴だが,それが現代の研究をどの程度特徴づけているかは未知である.われわれは3つの心理学ジャーナルで刊行された100本の実験的な相関研究について,強力なデザインと利用可能なら元の研究で使われた材料を用いて追試をした.再現効果 (Mr = .197, SD = .257)は元の研究 (Mr = .403, SD = .188)の半分ほどで,かなり低下していた.元の研究の97%で5%水準で有意な結果が得られていたが,追試ではその割合は36%だった.元論文の効果量が追試の効果量の95%信頼区間に入っていたのは全体の47%,主観的評価で「元論文の結果が再現された」と評定されたのは39%だった.そして,元の研究にバイアスがないと仮定して,元の研究と追試研究を合わせてみたところ,有意な効果が残ったのは68%だった.相関分析によって,追試の成功を予測しうる要因を検討したところ,元の追試を実施した研究チームの特徴よりも,元のエビデンスの強力さの方が関連が深かった.

※日本社会心理学会による翻訳文(掲載元)

 

 これに端を発して、心理学における「再現性の危機」が叫ばれ、研究者団体のCenter of Open Scienceは"Open Science Framework"を立ち上げ、再現性プロジェクトを開始している。心理学でよく出てくる「○○効果」「○○現象」の類はいま非常に疑われていて、世界的な検証作業の真っ只中にある(ちなみにOpen Science Frameworkは無料で登録でき、検証に関わる議論を誰でも閲覧することができる)。

 

 したがって、心理学論文を自分の主張の根拠にする場合、かなり慎重にならなくてはならない。論文1報読んで採用するにはリスクが大きく、他の研究グループの類似実験でも同様に支持されるか、あるいは、逆の結論を支持した論文の方が信頼性が高いのではないかと検討する必要がある。Rei氏は別の部分でTED talkのピフ氏の講演で話された「お金持ちほど慈悲や道徳心が減る」という説を引用しているが、貧困と犯罪(または道徳的行動)に関しては、歴史的に長く研究されており、真逆の結論を支持する論文も多数ある(私が整理して「どちらかというと、~の方が正しいのではないか?」と言おうと思ったが、多すぎて諦めたことを告白しておく。既存の知見との齟齬が解消されるかは自分なりにもそのうち確かめてみたい)。

 

 また、今回のRei氏のnote記事では「ストックホルム症候群」が出てくるが、実はこれはかなり「疑われている」概念に該当する。

 

具体例:ストックホルム症候群は本当か?

 Rei氏は次のように「ストックホルム症候群」を援用して書いている。

 

 女性に限らず強さを優しさと誤認してしまう事は様々な研究においても指摘されており、最も有名な事例は「ストックホルム症候群」だろう。ストックホルム症候群とは狭義には「誘拐・監禁事件などの被害者が犯人との間に心理的な繋がりを築くこと」とされており、1973年ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立て籠もり事件が語源となっている。131時間に及ぶ監禁のなかで次第に人質達は犯人に共感し、犯人にかわって警察に銃を向けるなどの行動をとるようになり、また人質のなかには解放後でさえ犯人を「優しい」と庇う証言をする者や犯人に恋愛感情を抱く者まで現れた。これは異常な環境下における生存戦略とされているが、大小の違いはあれ人間社会の普遍的営為ではないか?と私は思っている。

 

  残念ながら、ストックホルム症候群については学術的にはほぼ却下されているのが現状である。FBIが1,200件以上の人質事件を対象として、人質にストックホルム症候群の兆候が見られたのは8%に過ぎなかった(FBI報告書:長いので"Stockholm"などで検索することを推奨する)。加えて、FBIとバーモント大学が600の警察機関を対象に行なった調査によれば、被害者が誘拐犯と心理的なつながりをもったために事件への対処が妨害された事例は1件もなかったという。ストックホルム症候群は、仮にあるとしても、人間心理の「法則」というよりは、稀な現象に属するものらしい。

 

 また、Namnykら(2008年)の研究"Stockholm syndrome': psychiatric diagnosis or urban myth?"(『ストックホルム症候群:精神医学的診断か都市伝説か?』)によると、ストックホルム症候群という診断名はどの国際診断基準でも存在せず、これを取り扱った学術論文も12報しかなかった。また、12報の論文にしても、相互に「ストックホルム症候群」の定義にブレがあり、検証済みの診断基準は記載されていなかった。最終的にNamnykらは、ストックホルム症候群は、出版業界によるバイアスが原因で広まっていた都市伝説ではないかと結論している。これは先程のFBIの報告とも合致する結果と言えるだろう。結局、犯罪被害者が犯罪者に自発的に協力するのは「極めて珍しい」ため、ニュースバリューがあり、積極的に報道されるがゆえにその頻度や確率を実態より遥かに高く見積もってしまうのだ。 

 

 ただ、こんなクソ細かい話Rei氏が知らないからといって、彼を責めるのは明らかに間違いだろう。私としても、単に「こんな話もあるんです」くらいのノリで書いている。正直、「ストックホルム症候群」は日本のメディアで流通しまくっていて、心理学者も目立った形ではろくに批判していない。乗っかってしまっても仕方がないと思う。

 

まとめ

 Rei氏の議論そのものは、出典明記の原則が守られており、全体としても優れたものと感じた。しかしながら、心理学実験の結果を自説に援用することについては、更に検討を重ねないと相当外れる可能性が高い。特に「ストックホルム症候群」に関しては学術的には否定される傾向にある。また、高級自動車と貧乏自動車の道交法遵守度や10ドル寄付の実験結果の2つから「お金持ちほど道徳心や慈悲が下がる」と結論するのは、いささか飛躍している感が否めない。既存の経済統計・犯罪統計による知見と齟齬のある主張とも見受けられるため、何らかの統一的・整合的な説明が成立するかどうかは今後の課題と言える(個人的に挑戦はしてみたが、情報量が多すぎてギブアップした)。

  

【批判】トゥーンベリ・ゴン氏の『社会活動家に求められる資質』に寄せて

 トゥーンベリ・ゴン氏が次のnote記事を公開した。私は普段の氏の論には賛成するところが多いのだけれど、今回の記事については欠陥や粗が目立つと思ったので、批判しつつ紹介する。

 

note.com

 「社会活動家」という一般名詞で書かれているが、『フェミニズム問題は儲からない』や『社会活動家の中には「わきまえない」と名前の前につけて』とあるように、想定されているのは、いわゆるツイフェミのようである。

 記事は次の文章から始まる。

 

 まずは社会活動家の皆さん、いつも市民の代わりに声をあげて頂きありがとうございます。あなた達の立派な正義感によって救われた人は沢山いると思います。この場を借りて感謝の気持ちを示したいと思います。

さて、そもそも社会活動家とは一体なんなのでしょうか?どういう権限を持って勝手に市民の声を代弁しているのか、まずは単語の意味を調べてみます。

『社会活動家に求められる資質』(トゥーンベリ・ゴン, 2021/04/27確認)

 

 そう言って、Wikipediaの『社会活動』の項を引いてみせる。Wikipedia曰く、『社会活動(しゃかいかつどう)とは、人間によって行われる活動の中でも、社会に参加して社会のために貢献をするようなもののことを言う。』――だそうである。

 

 この時点で、私は既に4つはツッコミを入れたい。

 

  1. 『市民の代わりに声をあげて』『代弁』等とあるが、外国籍の人間であるなど特殊な事例を除き、たいてい本人も市民の一人には違いないのだから、「代弁」は違うのではないか。
  2. どのような政治的意見も、それを肯定する人数はn≧2ではあるだろうし、加えてマイノリティの主張も民主主義社会において重視されることを考えると、声をあげること自体に『勝手に』などとネガティブな形容を付けるのは不適切な印象誘導ではないか。
  3. なぜ、Wikipeidaなのか。もう少しましな出典はなかったのか。
  4. 意味を調べる語は本当に「社会活動」で適切か。記事の続きの内容からすると、「社会運動」または「政治活動」で辞書を引くべきではないか。

 

 おそらく3と4は問題の根本が同じである。実は「社会活動」はいわゆる普通の国語辞典に立項されていない。少なくとも私が確認した限り、デジタル大辞泉と新明解と岩国にはない。一方で、「社会運動」と「政治活動」はどの辞書にもある。

 

 デジタル大辞泉
・社会運動:社会問題の解決や、社会制度そのものの改良・変革を目的として行われる運動。
・政治活動:個人または集団が政治に関して行うさまざまな活動。

新明解(7版)
・社会運動:①社会問題に関する運動。②社会主義的社会を実現しようとして行なう運動。
・政治(活動):住みやすい社会を作るために、統治権を持つ(委託された)者が立法・司法・行政の諸機関を通じて国民生活の向上を図る施策を行なったり、治安維持のための対策をとったりすること。

岩国(8版)
・社会運動:社会問題に関する運動。経済組織、社会・法律制度などの欠点を改めようとする運動。
・政治(活動):国を治める活動。権力を使って集団を動かしたり、権力を得たり、保ったりすることに関係ある、現象。

 

 日本語として定着しており、ツイフェミなどの活動の実態とも適合する「社会運動」か「政治活動」の方が良かったように思われる。例えば石川優美氏による#KuTooは、一応、『社会問題の解決や、社会制度そのものの改良・変革を目的として行われる運動』または『個人または集団が政治に関して行うさまざまな活動』には含まれるだろう。内容への賛否さておき、社会のあり方に対する変革を求めた活動ではあるので、社会運動または政治活動には該当する。別に内容の是非、善悪や妥当性、合理性までは問われないからだ。ちなみに私は石川氏の活動に1ミリも賛同してない。

 

 さらにトゥーンベリ・ゴン氏は、『社会貢献』をWikipediaで、『独善的』をデジタル大辞泉(=goo辞書)でそれぞれ別個に引く。なぜ最初からすべてデジタル大辞泉で引かないのか疑問に思うが、ともかく次のような論理を展開する。

 

 これを最初の社会活動の定義に当てはめてみると、

社会活動とは、人間によって行われる活動の中でも、社会に参加して社会のために貢献をするようなもののことを言う。

社会活動とは、人間によって行われる活動の中でも、他人のことはかまわず、自分だけが正しいと考えるさま。ひとりよがりであるさま。

とも言い換えることができます。掘り下げてみると、自称社会活動家達はちゃんと社会活動家だったみたいです。

 

 さて。ロジハラをして申し訳ないが、矢印の前後が論理的に同値ではないので言い換えは成立していない。論理式φ, ψが論理的に同値である (あるいは単に,同値である,ともいう)とは, φ, ψに含まれる命題変数のあらゆる真理値割り当て M に対して M[φ] = M[ψ] となることをいう.』(京都大学 数理論理学入門より)とされる。トゥーンベリ・ゴン氏の話でいくと、たとえば命題変数に「河川敷でのゴミ拾い」を代入した場合、前者の文言(社会のために貢献するようなもののことを言う)では真になるが、後者の文言(他人のことはかまわず、自分だけが正しいと考えるさま)では偽としか言えない。少なくとも常識的な感覚だとそうだろう。かくして真理値割り当てが一致しない以上、繰り返しになるが、論理的に同値ではなく、言い換えられない。

 

 続きにいこう(※「社会活動」という語の不自然さに関しては以降はつっこまない)。

 

1.社会活動家は金銭的にも時間的にも余裕のある成功者がするべきである

 いきなりハードルが高くてごめんなさい。とりあえず現在フリーター(大して稼げない)をしている社会活動家さん達は即刻退場して下さい。

あえて叱咤激励をするために厳しいことを言いますが、自分の身の回りのことも満足に出来ない人間に社会を変えることは不可能です。

加えて、家賃が払えなかったり、その日食べる物に困ってるような人間が「この世の中を変えたい」と泣き喚いたところで、結局お金欲しさにやってるようにしか見えません。発言に説得力がないんですよ。

もっと厳しいことを言えば、自立してない人間(大して稼げない人)が社会に対して何かを訴えたところで、それは「クレーム」「ワガママ」「ゴネ得狙い」にしか見えません。

 

 トゥーンベリ・ゴン氏は、『大して稼げない人』が社会活動しているのを見たとき、『「クレーム」「ワガママ」「ゴネ得狙い」にしか見えない』のかもしれないが、それが一般感覚・一般常識を代弁するものと言える論拠は挙げられていない。個人的には、生活困窮者が群れをなして「生活保護制度を充実させてくれ」とデモ行進をしていたら、変に穿った見方をしなければ、普通に「切実に苦しいのだな」と思う。その一方で、たいへん稼いでいるであろう経団連の幹部連中が、いつものように「法人税を下げろ!」などと叫びはじめたら、私は「死ね」と思う。……おっと、言葉が悪いか。「ワガママ」「ゴネ得狙い」だと思う。

 主張者の属性で説得力を判断するというのは、意見内容で是非を検討する当然あるべきステップを飛ばしていてよろしくない。例えば、アンチフェミニストの敵とみなされつつある社会学者たちは、みな大学に籍があったりして、とりあえず生活困窮者ではない(むしろ、自立してよく稼いでいる方だろう)。しかし、よくご承知の通り、彼らの意見に説得力があるかというと全く別問題だ。それと同様に、生活困窮者でも、何かやたらと調べて緻密なロジックを組む人はいる。つまり、「言うほど関係ないのでは?」と思う。というか、社会的弱者が声をあげる勇気を、わざわざ「ムダだぞ!」と言い聞かせることで妨害しようとしているように見える。あと、この「社会活動は金銭的にも時間敵にも余裕のある成功者がするべき」論は、KKO(キモくて金のないおっさん)も社会活動から退場いただくことになるが、色々と大丈夫だろうか。

 

 で、どうやら「大丈夫ではない」とトゥーンベリ・ゴン氏本人も気づいたらしい。訂正が入る。

 

2.社会活動家はマナーやルールを守り、礼儀を持って人と接する事が出来る常識ある人間がするべきである

 1.の成功者に関しては少しハードルが高かったかもしれません。即刻退場しろは言いすぎました。反省します。

金銭的・時間的余裕がなくても、心に余裕のある人間はいますし、主語でかく人を排除するのは良くなかったです。私もまだまだ人間として小さいですね。ごめんなさい。

心に余裕のない人間に、金銭的・時間的余裕がないケースが多かったとしても、金銭的・時間的余裕がない人間=心に余裕のない人間 とは断定できません。

むしろ、社会活動をする上での絶対に必要なもの、は今から説明する2.常識人の資質だと思います。

 

 それは良かった。しかし、『常識人の資質』というのも怪しげに感じる。警戒しつつ読みすすめることにしよう。

 

社会活動をしていくためには、まずは人間としての「型」、つまりマナーやルールや礼儀という基本的なものを学び、実践しないといけません。

それすら出来ない人間が、型を破って破天荒に「わきまえない」を実践しても、ただの異常者の危険人物である自己紹介にしかなりません。

そんな人間の掲げる社会活動になんて誰もついていきませんし、誰も金を払いません。

あなた達は「わきまえない」のではなく、ただの「恥知らず」なんです。

 

 これは実質的に個別の事案(「わきまえない」運動)に対する批判なのだから、何かしら引用するべきだと思うが、それはそれとして、『そんな人間の掲げる社会活動なんて誰もついていきませんし、誰も金を払いません。』事実関係として偽である。私自身、「わきまえない」の活動および意見内容を一切肯定的に評価していないが、「ついていく人がいること」「(活動家に)お金を払う人がいること」は事実なので否定できない。ロジハラをして申し訳ないが、「誰も……いない」と書いた以上、反例がN≧1あれば棄却されてしまう。

 まあ、さすがに「誰も」は修辞表現だとして多少割り引くとしても、実際そこそこいると思う。なにしろオウム真理教だって決して少なくない信者と資金が獲得できた世界である。オウム真理教よりは相対的に――あくまで相対的にだが――穏当かつ常識的なフェミニズムにそこまで人が集まらないとは思われない。

 トゥーンベリ・ゴン氏は、「そんな活動に人も金も集まってほしくない」という願望と、「オウム真理教並のクソみたいな活動であっても、人も金も集まる時は集まる」という現実が区別できていないように見える。後者はたしかに残念なことではあるが、現実から目を背けても仕方ないだろう。テロだって応援してる人は応援してる。それは決して善いことではないが、現実である。

 

3.社会活動家は個人の利益を追求しない人間がするべきである

 この話は1.の成功者と繋がる部分もありますが、個人の利益を前面に出してしまったら社会活動家としては終わりなんです。

社会貢献をするのであれば、手っ取り早く慈善事業に寄付をすれば済む話です。それを社会活動家という個人に対してお金を求めるのであれば「金クレ」だけは絶対にしてはダメなんです。

人間だから誰だってお金は欲しいです。お金はあって困るものではありませんし、あるに越したことはありません。私だってお金は欲しいです。

しかし社会のため、つまり公益を求めるのであれば、私益は対極にあるものであり、どっちも手にすることは現実的に難しいものなんです。

稼ぐことが悪いのか!?という不満はわかりますが、稼ぐことが悪いのではなく「社会のため」と言いながら「自分のため」が前面に出てしまっているのが問題なんです。要するに下手くそなんです。

まずは、お金が欲しいことは全力で隠さないとダメです。お金は後からついてくるものなんです。本当に人から感謝されて、その人を応援したいと思ってもらえれば自然に支援をしてもらえるものなんです。

 

 ある社会活動が、完全に私利私欲でしかないと露呈した場合、たしかに成功しないだろう。ただ、これは抽象的に扱うからそうなるのであって、個々の具体的事例について『「自分のため」が前面に出てしまって』いるかどうかは判断が分かれるだろう。例えば、フェミ松速報にはアフィリエイトリンクがベタベタと貼ってあるが、これは「前面に出ている」状態なのか、そうでもないのか(念の為にいうと、私は別に儲けていて良いと思う)。また、本を出版したり、AbemaTVに出演したり、有料の(参加料を徴収する)トークイベントや勉強会を開催したり、YouTube動画を収益化したりすることはどうだろうか。「社会活動だというのなら、あまり利益を堂々とは言うべきではないね」程度の話であれば、さして異論もないが。

 次にいこう。

 

断言しますが、社会は社会活動家を必要としていません。もちろん声を上げることは大切ですし、実際にネットの小さな声から一大ムーブメントとなり、社会のルールが変わった例もあります。

しかし、それが社会活動家によるものなのかどうかは、やはり根拠が乏しいです。

大企業側が「社会活動家の〇〇さんの影響により、会社の規定を変更します。」と公式に声明文を出した事例はありません。

結局のところ、社会活動家は何か変化があった時に後付けで「これは私のおかげ」と言い張ることしか出来ていないんです。

もはや雨乞いや神頼みと同じレベルなんです。後付けでこじつけて、それを実績にして越に浸っても無意味です。都市伝説はやめましょう。

 

 なぜ、トゥーンベリ・ゴン氏は「社会」を代弁できるのだろうか? トゥーンベリ・ゴン氏は「社会は……」と述べることができて、社会活動家は「社会は……」と述べてはいけないのだとしたら、その根拠は何だろう?

 また『大企業側が「社会活動家の○○さんの影響により、会社の規定を変更します。」と公式に声明文を出した事例はありません。』と、ここまでかなり一般論的・抽象論的に話を進めてきたにも関わらず、いきなり論理的にきつい条件(AかつBかつCかつDをすべて満たす)を設けているのはなぜか? 大企業で(つまり中小企業や公的機関ではダメで)、どの個人の影響か明示された上(○○団体のご指摘を受け……だとダメ)、しかも規定に関する変更を(掲示物の取り下げ等では「規定」まで変わってないのでダメ)、公式に声明文を(黙って変更したらダメ)出した例でなければ「反例」にならない書き方である。これは、ちょっとでも条件を緩めたら「実例がある」から都合が悪いのか? そんな勘ぐりもしてしまう。

 

  長くなってきた。最後の批判を加えたいのは、次の文である。

 

社会活動家として実績を残していきたいのであれば、もっと賛同者を増やして、政治や経済に切り込んでいかないとダメです。

少数のイエスマンで周りを固めて、気に食わない意見は全て「嫌がらせ」として晒しあげ、争いや分断を煽るような行為は、社会活動家としては完全に逆行しています。

地道なプロモーション、広報・営業活動をして、下げたくない頭も下げながら、敵を作らずに仲間を増やし、性別関係なく対話を繰り返して、コミュニケーションを密に取っていくしかないんです。

自分のカリスマ性だけで引っ張っていけると思ったら大間違いなんですよ。社会活動を舐めんなと言いたいです。

 

 その方法で上手くいくかいかないかは、人類の歴史が終わるまでわからない。歴史を通じて、数々の政治的・宗教的イデオロギーが支配的価値観の地位を担ってきたが、その変化のプロセスはといえば、『地道なプロモーション、広報・営業活動をして……コミュニケーションを密に取っていくしかない』と限定されるようなものでは断じてなかった。「社会活動」が社会を変革しようと試みる活動全般を指すならば、フランスで人権思想を確立するまでには多くの人をギロチン台に送り込まねばならなかったし、アメリカで奴隷制を廃止するには南北戦争が必要であったし、中国やロシアでは言うまでもなく共産主義による粛清があった。日本にしても戦国時代を経て徳川幕府によるパックス・トクガワーナが訪れ、明治維新で政権が取って代わられるまでのプロセスで数多くの「地道ではない」活動が行われた。

 とはいえ、歴史規模・世界規模にまで話を拡大させず、ここ半世紀くらいの状況から、この先10~20年程度の日本のみを見据えるなら、地道な活動のほうが良さそうだと私も思う。

 とはいえ、『政治や経済に切り込んで……』に「軍事」が入ってないの少し気になるか。ミャンマーで軍事クーデターがあったというか、いまも続いている。これは絶対に対話路線ではないが、そのあたりはいかがだろうか。’(「長期的には成功しないはず」という答えがあるかもしれないが、それは「長期的」の期間によるのと、どんな思想・主義もいずれは倒れてきたという歴史的事実を考えるとあまり慰めにならない)

 

 以上、ロジハラをし過ぎている気もしましたが、私もトゥーンベリ・ゴン氏を応援したいので、心を鬼にして書きました。ゆっくりしてくだされば幸いです。