私はアンチフェミだが勝部元気氏の多数支持否定論と対話不要論には賛成する。

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  私は現代のTwitterフェミニズムについて、端的に「トチ狂っている」「アホである」「何もかもを間違えている」「頭の悪さは現世では治りそうにないので、来世に期待したい」と評価している。当然、フェミニストを自称している勝部元気氏のことも内心で愚か者扱いしていた。本当にクソたわけだと思っていた。じっさい、勝部元気氏の論述を読むような時間があるなら、実写版デビルマンを再視聴するほうがまだしも有意義くらいに評価していたのである。

 

 しかし、上の記事の内容には感銘を受けた。極めて正しい。

 勝部氏は次のように述べる。

 

「男女平等って多数の支持がなくても達成しなきゃいけないもの」です。

たとえば、先生が生徒のイジメの現場を見て、被害者に対して「イジメをやめて欲しかったらクラス内多数派の支持が必要ですよー」って言ったらどう思いますか?

「いや、多数派支持とか関係無くイジメはダメだろ」ってなるでしょう。被害が発生している状況の中で、多数派の必要性を殊更に強調する態度は加害者擁護に他なりません。

 

 いま現在、多数の人々が「容疑者」の段階で、真犯人のように報道することを平気で是としている。 性犯罪に手を染めていない「ロリコン」を、「犯罪予備軍」としてけなすことを正義だと思っている。自分たちが気に入らない「性的なもの」なら、それを公共空間から排除する権利が当然あるのだと信じ切っている。

 

 そうした人々が、己の考えを「対話」によって改めることなど有り得ない話である。少なくとも、マクロで考えた場合はそうである(個別例外として「反対だったが、賛成することにした」人も出るだろうが、そんなに大した数にはならない)。

 多数派の支持を基準にしていたら、どんな圧政・抑圧も原理的に正当化される。衆愚政の顕現である。あまり機能していないとはいえ、これを防ぐ建前として人権があり、憲法がある。

 

 また勝部氏は次のようにも述べている。こちらにも賛成である。

 

香港の民主派の若者も、自分たちと相対する警察との対話や、意見の異なる親中派(青色経済圏)との対話を推進するのではなく、政府に向かって大規模デモを展開したから逃亡犯条例改定案を覆せたのでしょう。

このように、必要なのは「加害をしている者との直接的な対話」や「立場や意見の異なる者との対話」ではなく、彼らを止めさせる権限を有する「意思決定権者(≒権力者)に向かって強く主張して行くこと」です。

逆に加害している者や意見の異なる者との対話によって成功した社会運動がどれほどあるのでしょうか? 残念ながら私はほとんど知りません。それは結局、対話する相手は「既得権益を手放したくない」と思っており、概ね不誠実だからです。

対話が成り立つのに必要なのは「対等な関係」と「誠実性」という2つの要件だと思いますが、既得権益ゴリゴリの彼らがこれを満たすことはほとんどありません。

 

  相手を得させるか、損させるかしなければ、振る舞いや制度を変えるわけがない。至極当然である。そして社会運動の場合、便宜供与(得をさせること)で相手を動かすのはほぼ不可能である。であれば、ストライキやデモ、あるいは究極的な手段としてテロ等によって大損をこかせるしかない。(もしかするとテロは良くないことだと言うかもしれない。しかし安心してほしい。成功したテロは「革命」と呼ばれる。もしもジハーディストが勝利したら、「邪悪なテロリズム」は本当に「米帝主義から自由を勝ち取った聖戦」として認定されるだろう)

 

  もちろん、対話不要は言い過ぎではある。身内の結束を固めるため、あるいは浮動票を獲得するため、対話路線はそれはそれであった方が良い。また本当に理屈がまったく通ってなかったら、さすがに成功は覚束ないものなるだろう。

 しかし根底において、暴力が対話よりも相対的にずっと重要なのは確かである。私は勝部元気氏とほとんど真逆の意見を持っているが、この基本的な現実認識に関しては深い同意を表明する。