【ゆっくり日記】人はゆっくりしていない/レズビアン擁護に見せかけた差別主義の吐露
本日、全くゆっくりしていないツイートを見かけた。
以下のものである。
自分はレズビアンかもしれない、と悩み始めた人が一部の過激なビアンYouTuberの動画を観て、「レズビアンはセックスの話をするのが当たり前」「タチネコフェムボイみたいな属性がないとセクマイじゃない」みたいな考えになら可能性があるのが怖い。当事者自身でステレオタイプを作ってどうしたいのか…
— Rika🏠レズビアンの不動産屋さん (@L_rikas) 2020年9月30日
「レズビアンとしての私たちのリアルを観てほしい」と言いつつ、結局は再生数稼ぎのために下ネタやタチネコといった「世の中にウケる」テーマで当事者側から差別や偏見を再生産している現実は本当につらい。
— Rika🏠レズビアンの不動産屋さん (@L_rikas) 2020年9月30日
セクマイ当事者の生きづらさが当事者側から生まれてしまう地獄…😞
この発言を読んだ大半の人たちは、「さべつとたたかう、ゆっくりした発言」と思うことだろう。だが、それは誤解である。此奴はゆっくりしていない。善良のふりをしたゲスゆっくりである。
それを理解するには、「本当に好きで下ネタやタチネコを話題にしているレズビアン」(以下、タチネコ・レズビアンと呼称する)の立場から考えてみればいい。Rika氏は、タチネコ・レズビアンを『差別や偏見を再生産』する存在として、いわば「悪党」扱いに伏している。ツイート文からは「お前らみたいなタチネコ・レズビアンがいるから、差別や偏見がなくならないんだ」という叫びが行間から聞こえてくるようである。
これは、ある加害-被害関係を暗黙の前提としているから出てくる見解である。「下ネタやタチネコをテーマにするレズビアン」が加害者で、「そのせいで誤解に晒される私たち『きれいな』レズビアン」が被害者だ。
しかし、当該2ツイートにあらわれているこうした「きれいなレズビアンときたないレズビアンの分断」こそが、本当に戦うべき差別なのである。実際、「ある趣味をもつレズビアンは擁護されるべきだが、別のある趣味をもつレズビアンは差別に加担している連中である」という分断操作が差別でなくて何なのだろうか?
また、「ステレオタイプを再生産するから」という理由で特定の趣味嗜好を断罪している点も極めて反人権的である。この点に関する感覚が鈍すぎる。簡単にいえば、別にスカートをはきたい女子はスカートをはいていいのである。「女子はスカートをはくもの」というのは、確かに「ステレオタイプ」ではあるだろう。しかし、そのステレオタイプを再生産するからといって、スカート着用を認めないなどとすれば、かえって自由は乏しくなる。スカートをはいていかにも「女子らしい」遊びをしていたっていいし、そうでなくたっていい、というのが本来目指すべき地点のはずである。