【ゆっくり日記】ゆっくり虐待小説・漫画に現れる「人間性」

 ゆっくり虐待クラスタの皆様はとっくにご存知であるが、いわゆる「ゆっくり虐待小説・漫画」には名作が多い。人文科学で追求されてきた諸テーマが、「ゆっくりたちの生き方」として見事な物語として表現されているからだ。フィクションとしての「ゆっくり」に仮託して描かれているすべての愚かしさは、人類の愚かさそのまま当て嵌まる。

 例えば、ゆっくりの世界観のひとつである「おやさいはかってにはえてくる」は、つい最近の人類も「ハエは生ゴミから生まれる」と考えてきた歴史的事実を当然、想起させるだろう。ゆっくりの生活的視線からいえば、「おやさいはかってにはえてくる」という認識は、間違いなく「観察結果の積み重ねによる帰納的抽象化(=一般化)」という論理的思考の結果である。むろん、われわれ人類からゆっくりに対して、「あなたがたゆっくりが立てた仮説は、おやさいについての経時観察が不足しているせいで、『性急な一般化』という罠に陥っている」と指摘することは可能だ。しかし、現代の科学者が誇る「精密な経時観察」というのも、歴史上、幾度となく(実験機械の高性能化によって)更新され、常に「依然までの観察は時間分解が甘かったせいで、性急な一般化に陥っていた」ことに得てしてなるものだ。ゆっくりと人類に横たわるのは、単に「どれほど長期間にわたって、どれほど細かい単位での観察が技術水準として可能か?」という僅かな時間的遅延に過ぎない。

 

 また、少し話は変わるが、ゆっくりが形成する「群れ」についても、それが持続的に運用できたり、できずに崩壊してしまったりするケースが多数の作者よって描かれていて、これが面白い。「群れが存続する条件」や「群れが崩壊する条件」(いわゆる死亡フラグ)は、作品によって、明示的であることも、暗にほのめかせるに過ぎないこともあるが、とにかくそうした条件は「群れモノ」には必ず潜んでいる。

 単純な食糧危機に始まり、ゲスゆっくり(外敵)の侵入、あるいは既に群れの構成員だったゆっくりによる内部瓦解、無謀な戦争の企図と実行(にんげんにせいっさいっをする)。ここに挙げたのはあくまでも限りなくあるさまざまな事情のうちのごく一部ではあるが、いずれも例外なく、人類もやってきた。そして、今も――残念ながら――やっている。

 ゆっくりにこそ現れた人間を見よう。それが、現実でのゆっくりにも繋がる。